副官とモンブラン(2019エルヴィン生誕祭)
04
* * *
兵舎内に戻った私は紙袋と小箱を小さく折りたたみ、ゴミ捨て場のゴミ箱に突っ込んだ。ぱんぱん、と手を叩きながら埃を払う。
夜も更けたし自室に戻ろう。そう思い廊下を歩いていると、団長室から灯りが漏れているのに気がついた。
さっき、プレゼントのリストを作成してからモンブランを持って屋上へ出た時には、団長室の蝋燭はきちんと消した。それははっきりと覚えている。
だからこの灯りは私が消し忘れたものではない。
もしかして、エルヴィン団長だろうか?
団長はリヴァイ兵長と兵舎にお戻りになって、まっすぐ自室へと戻られなかったのだろうか。
宴席ではお酒もたくさん召し上がっていたし結構酔われていたようだったから、とっくに自室でお休みになっているものと思っていた。
……まさか、団長は仕事をされているのだろうか。
あり得る。あり得すぎる。あの人は基本的に仕事の鬼だ。
ならば私もお手伝いしたほうが良いだろう。
幸い屋上で夜風に当たって、そしてリヴァイ兵長のおかげで、酔いは十分に醒めた。
トントンと団長室のドアをノックする。
「エルヴィン団長、ナマエです」
返事はない。
暗い廊下に、しん、と静寂が響き渡った。
私はもう一度ドアをノックして言った。
「団長、ナマエです。お仕事されているならご一緒いたします」
やはり返事はない。
「……団長?入りますね。失礼します」
訝しんでドアノブを回せば、鍵は開いていた。そのまま入室する。
すると、応接用のソファにエルヴィン団長が横たわっているのが目に入った。
瞼はしっかりと閉じられ、仰向けになり寝息を立てている。
兵服のジャケットは自ら脱いだようで、ソファ前の応接テーブルの上に無造作に投げられていた。
白いシャツの下の逞しい胸板が、呼吸に合わせて静かに上下している。だらりとソファから伸びた右手の先、床上には、書類が散乱していた。
ゆっくりとソファの前に進みながら、私は再度声を掛けた。
「……エルヴィン団長?寝ていらっしゃるのですか?」
やはり返事は無い。
恐らく、書類を見ながら寝てしまったのだろう。
仕事をしなければと思い団長室に戻ってきたものの、アルコールのしこたま入った身体で睡魔には勝てずに、ついソファに横になってしまい眠ってしまったというところか。
団長が眠っているのを良いことに、私はつい、まじまじと顔を見つめてしまった。
輝かしい金髪。逞しく太い眉はもちろん、睫毛まで金色だ。
整った顔立ちは、「美しい」の一言である。
壁外調査へ向かう時の勇ましい顔や、数多の仲間を失って帰還するときの険しい顔などは、市井の人々から悪魔だとか死に神だとか言われている。
だが穏やかに眠る今の顔は、まるで無邪気な少年のようだった。
こんな無防備な顔には滅多にお目にかかれない。
私は無意識に――そう、何かに吸い込まれるように、眠っているエルヴィン団長に顔を近づけた。
唇が触れる寸前で、思いとどまる。
――どうかしている。
何をしているんだ私は。
酔いは醒めたつもりだったが、まだ醒めていなかっただろうか。
私は、団長の副官だ。部下だ。それ以上でもそれ以下でもない。
間違うな。
エルヴィン団長から顔を背け、立ち上がろうとした。
が、そこへぐっと左腕を掴まれる。
「んっ!?」
そのまま後頭部を押さえつけられ、同時にぐっと引き寄せられた。
私はソファに横になったままのエルヴィン団長の腕にかき抱かれ、そして私の唇は、団長の唇に押しつけられていた。
何が起こったか、さっぱりわからない。
混乱する頭を必死に整理するが、思考はとっちらかったままだ
数秒してから、逞しい腕が私を解放した。
私は団長から飛び退いて離れた。猫もびっくりの跳躍力だったと思う。
今、キス、された?
思考がそれに至り、思わず口元を両手で覆った。
多分今、体温が三度くらい上がっている。
頭のてっぺんから脚のつま先まで、自分の身体全てが熱を持って発汗していると、自分で気づいていた。
心臓がこれ以上ないというほど爆速でそして爆音で鳴っている。
「……ナマエ……」
ソファの上で横になったままの姿勢で、団長は呟いた。
声は掠れ、目は半分ほどしか開いていない。
これは完全に寝ぼけている。
その様子を見て、私の頭はすごい速度で回転し始めた。脳内で大小の歯車がきゅるきゅると音を立てて高速稼働している。
「……エルヴィン団長!寝ぼけていらっしゃるのですね?
こんなところでお休みになってはお体に障りますよ!」
私はドッドッドと鳴り続ける心臓を無視して、努めて明るく声を出した。
声は震えていなかっただろうか。きっと大丈夫だ。
ナマエ、お前は酔って寝ぼけた上官の戯れを笑って流せるくらいの度量は持っていたはずだろう?
「お、お休みになるならきちんとベッドで……」
私はそう言いながら、床に散らばった書類を集め始めた。
上手く拾えない。自分の手が震えていることにその時初めて気がついた。
団長はゆっくりと身体を起こし、ソファの上で上半身だけ起こした状態になった。
そのまま何も言葉を発さず、ソファの傍で書類を拾い続ける私の腕をもう一度ぐっと掴んだ。
腕を拘束された私は床とその上に散らばった書類を見つめたまま、顔を上に上げることが出来ない。
ぱたり、と音を立てて水滴が床に落ちた。
私の頬から滴った汗だった。
エルヴィン団長は声を発しないままソファから立ち上がり、今度は立った状態でもう一度私を包んだ。
堂々たる体躯の中に私がすっぽりと収まる。
「だ、」
団長の右手が私の頤にかかった。
くい、と持ち上げられて、半ば強引に目を合わせられる。
ほのかに香るアルコール。
そう、彼は先ほどの宴で兵士達から引っ切りなしに注がれて、ワインを大量に飲んでいた。
その後二次会にも行っていた。ゲルガーさんがいたなら、そこでもたくさん飲んだことだろう。そんなことは知っている。
私の上官は酔っている。彼は今正気じゃないのだ。
脳内で必死にそう唱え続けた。
だがずっと密かに恋い焦がれていた青い瞳に見つめられて、今私の中ではときめきのほうが勝ってしまっている。
そのまま見つめ合っていると青い瞳が再び近づいてきた。
互いに何の言葉も発しないまま、再び唇と唇が触れる。
今度は、押しつけるようなキスではなかった。
エルヴィン団長の唇が優しく私の唇に触れ、その後ゆっくりと厚い舌が私に伺いを立てる。
私は唇を少し開き、彼を受け入れた。
許しを得た彼の舌は私の口内に大胆に侵入する。歯列をなぞり口内をひとしきり堪能すると、奥で縮こまっていた私の舌を引っ張りだし絡ませた。
私の上官は酔っている。彼は今正気じゃない。
先ほどから脳内で何度も繰り返している言葉は今、何の働きもしていない。
こんな上辺だけの呪文は、何のストッパーにもならなかった。
心臓から熱い血が全身に流れるのが分かるような、そんな妙な高揚だ。
誰にも知られる必要はないと固く蓋をしたはずなのに、胸から溢れ出る熱さに、全身から零れ出す想いに、耐えられない。
私はエルヴィン団長と舌を絡ませたまま背伸びをし、団長の首にひしとしがみついた。
それを受けて団長も私の顎から手を離し、両手で私の腰と背中を包んだ。
こんなキスでは、言い訳はできない。
酔った上官に力ずくで無理矢理、などという言い訳はできない。
だって、私は今喜んで団長の舌を受け入れている。そういうキスをしている。
角度を変え、深度を変え、私とエルヴィン団長の舌は随分長いこと絡み合ってからゆっくりと離れた。
つうと透明な唾液が糸を引き、お互いの唇とつないでいたが、私が呼吸を整えている数秒のうちにぷちんと切れた。
「……甘いな?何か食べていたか?
君は先ほどの宴席でもあまり食べられていなかったから……」
何の断りもないままキスをされていたというのに。
やっと声を出したと思ったらエルヴィン団長はそんなことを言う。
「……」
何と答えるべきかわからない私が黙っていると、端正な顔がもう一度近づいてきた。
エルヴィン団長の舌は再び私の唇を割り中へと入り込む。
まるで検分するかのように、くまなく口内を舐め上げられた。
「……栗か?何か……栗の菓子でも食べていたか」
唇と唇が触れたまま団長はそう言って、ふ、と淡く笑う。
だが私は笑顔を浮かべることはできなかった。
必死で自分の感情を殺している。
今私は、どんな顔をしているのだろう。強張っているのだけは確かだ。
検分が終わっても、エルヴィン団長の舌は私の口内から離れない。
私達の舌は今、一体どんな理由で繋がっているのだろう?
キスができて嬉しいなんて、思っていない。
この人ももしかしたら私を好いていてくれるかもなんて、思っていない。
これはただの戯れだ。酔った上官の戯れだ。
そう呪文のように唱えながら私は必死に団長にしがみつき、舌を絡めていた。