わかりあえない人
01
リヴァイさんという、妙な客がいる。
娼館に来て、娼婦をめったに抱かない客だ。
リヴァイさんは週に何度も来店し、しかも来店の際は毎回夕方の五時から朝の五時まで、丸々一夜すべての枠を買い占める。
指名はいつも私だ。私が他の客で埋まっている時は、帰ってしまうらしい。
これだけの太客でありながら、彼が私を抱くのは五回に一回程度だ。
最初は、足が不自由で女を抱くのに不都合なのかと思った。彼は車椅子でやって来るし、車椅子を使わない時も杖をついて歩くから。
だが稀に私を抱くこともあるし、行為に不都合はないように見える。
店に来た彼が娼婦を抱かずに何をするかというと、大抵、ソファに腰かけて紅茶を飲む。それだけだ。特段、話もしない。
こちらが話題を提供すると辛うじて乗ってはくるが、おしゃべりが好きだとはどうにも思えない。だから私が一人でぺらぺら喋っているような時も、ままある。
彼は時々、ソファに座ったまま眠ってしまうこともある。そうなると私は、彼の寝顔を眺めるしかない。長く美しい睫毛や、大きな傷の残っている瞼を眺めるのは、決して嫌いじゃないけれど。
悪い客ではないが、不思議な客だった。だから私は何度も聞いている。
「ねえ、今日もしなくていいんですか? 自分で動くのが大変なら私が上になりますし、手や口のほうがお好みならそれでも。他の女の子に変えることもできますよ?」
「いや、要らねえ。そばにいてくれればそれでいい」
彼はそう言って、紅茶を飲むだけなのだ。
まったくわからない。うちは超高級店というわけじゃないが、激安店でもない。娼婦を一晩買えばそれなりの額になる。払った金額分楽しむ権利があるし、セックスする気分じゃないなら女を買わなければ良いのに。
彼は、資産家なのだろうか? もしかして軍人恩給でももらっているのだろうか?
右目の失明や指の欠損、足が不自由なのも、彼が過去に軍人だったとしたら辻褄が合うが……いや、恩給だって雀の涙ほどしかないとの噂だ。
とにかく、金の出どころも、彼の目的も、まったく謎だった。
* * *
四年前の地ならしで、人類の約八割が命を落としたという。
だが私と弟は運よく生き残った。
人間の生きようとする力はすさまじいもので、この地も四年の間にみるみる復興した。もちろん四年前と同じ水準というわけにはいかないけれど、それでも今、人々はそれなりに暮らしている。
復興の中で、性産業が復活するのはとても早かった。
最初に復活したのはもちろん衣食住に関わる産業だが、性産業はその次くらいだった。人間と性は切っても切り離せないのだなと、妙に感慨深くなったのを覚えている。
弟と二人で住む掘っ立て小屋の近くに娼館ができたと聞き、すぐに面接に行った。
娼婦になることに抵抗はなかった。十二歳の弟を食べさせなければならない。弟はまだ学生だし、それだって学費が要る。
娼婦が特別素晴らしい職業だとは思わないが、別に卑下もしていない。私はただ仕事をし、給料をもらっているだけだから。
リヴァイさんは三か月くらい前からこの娼館へと通っている。
初来店の時は、明らかに人に連れられてきた様子だった。自ら望んで来たのではないとすぐにわかったから、せめて料金分くらいは楽しんで欲しくて、頑張って上に乗って腰を振ったのだけれど。
それがお気に召さなくて、彼はあんまり私を抱かないのだろうか? だとしたら、別の娼婦に変えればいいだけなのに。
ただ、行為があってもなくても彼は太客に違いない。店長は金払いの良い彼を気に入っているらしかった。
* * *
ある日の夕方、出勤して驚いた。
勤務表の私の欄が向こう一か月すべて塗りつぶされている。毎日、開店から閉店まで、すべての枠。つまり、全枠埋まっているということだ。
この店で働き始めて三年、全枠が埋まった経験なんてない。
「店長! どういうことですか、これ!?」
慌てて勤務表を握りしめ事務室へと駆けこむと、店長はほくほく顔で言った。
「リヴァイ様だよ。お前の枠をすべて買い取ってくださったんだ」
「ええ!?」
どういうことだ。料金分のサービスも受けないくせに、全枠? あり得ない。
「お前のことが大層気に入っているんだろう。しっかり励むんだよ」
励むといっても、何をすればいいかわからない。だってリヴァイさんは私を抱かないのに。
そんなことを知る由もない店長は、喜びで口角を歪ませつつ、ひーふーみーと銭勘定をしている。彼はいったいいくら払ったのだろう。
而してその日、リヴァイさんは来店しなかった。枠を購入していたのにだ。
その日だけじゃない。次の日も、そのまた次の日も、彼はやって来なかった。
夕方出勤して、部屋の中で一人ぼんやりとし、朝方の閉店と共に帰る。そんな生活が三日続いた。なぜこんなことになっているのか不思議だったし、苛立ってもいた。
彼が枠を買ったということは、私は娼館の部屋から一歩も出られないのだ。「何もしないでお金がもらえるなんて最高じゃない」とうらやましがる同僚もいたけれど、私はそうは思わない。
仕事をせずに給金だけをもらうというのも決まり悪いし、話し相手も寝顔を眺める相手もいない。
ぼうっと時間が過ぎるのを待つだけの生活は拷問だった。退屈は人を殺せると聞いたことがあるけれど、あれは本当だ。
四日目の朝方、その日も退屈で死にそうになりながらようやっと閉店の時刻を迎え、娼館から帰宅する。すると、玄関先でちょうど登校するところの弟と鉢合わせた。
「ただいま」
「お帰り姉ちゃん、お疲れ様」
弟は申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。私が身体を売っていることを心苦しく思っているのだ。別に私自身は何も気にしていないし、心配することじゃないのに。
「姉ちゃんあのね、学費のことなんだけど……」
「うん、昨日預けたでしょ? 後期半年分。ちゃんと払った?」
「それが払いにいったらさ、もう納付済みだっていうんだ」
「は!?」
驚きのあまり玄関先で荷物を取り落とした。
「どういうこと!?」
両手で弟の肩を掴みぐわんぐわんと振る。揺さぶられながら答える弟の声もぐわんぐわんと揺れた。
「僕も何が何だか、でも係の人がそう言うんだもん。『リヴァイ・アッカーマン』って人が納付済みだって……姉ちゃん、知ってる人? もしかして遠い親戚で生き残っている人がいたのかな?」
聞き覚えのある名前に硬直した。
驚きが収まらないまま、徐々に怒りが湧きあがる。
屈辱に、思ったのだ。
リヴァイ・アッカーマン。
リヴァイさんだ。
* * *
リヴァイさんが娼館にやってきたのは、私を買い占めてから一週間半も経ってからだった。
夕方を過ぎて夜が始まる頃、彼はいつもそうだったように車椅子でやってきた。
車椅子が部屋に入ると、廊下の下男がぱたんとドアを閉じる。ここからは客と娼婦の時間だ。
口を開いたのは、私だった。
「どういうつもりですか」
腕を組みながら車椅子の彼を睨みつける。およそ客に対する言動ではない。
薄暗い空間で、壁の蝋燭がゆらゆらと揺れる。まるで、学費のことが発覚したあの日から消えることのない怒りみたいに。
「どういうつもり、とは……」
彼の口調は淡々としていて、だが語尾にわずかに困惑が滲んでいた。私の腹の中でふつふつと静かに燻っていた感情が爆ぜた。
「これって私をこの部屋から出られないようにする嫌がらせですか? お給金が発生しているのに仕事ができないなんてすっごく居心地悪いし、夕方の5時から朝の5時まで部屋から一歩も出られず、話し相手もいない、本を読むこともできない、来るか来ないかもわからないあなたを待ってただ息をしているだけなんて、まるで牢屋よ!
それにあなた、弟の学費も払ってくださったそうで。いただけませんのでお返しします」
札束を、車椅子に掛けているリヴァイさんの膝の上へと押し付けた。と同時に、彼の顔が慌てたように私を見上げる。
「いや待て、俺が好きで払ったんだ、返さなくていい」
「何よそれ、施してるつもり!? バカにしてる!? かわいそうな娼婦だって憐れんでるの!?」
かあっと怒りが頭のてっぺんまで駆け上がる。彼に向かってベッドの上のクッションを投げつけた。ボフン、と気の抜けた音がした。
太客にこんなことをして、店長に怒られることは確定だ。もしかしたらクビかもしれない。
でも耐えられなかった。見下されることは、屈辱だった。
「私を買い占めて、鳥籠みたいに閉じ込めて、弟の学費まで世話して、気持ち良かった?あなたがどれだけ金持ちか知らないけれど、憐れまれる謂れはないわ!
私たちは決して裕福じゃないけど、私も弟も一生懸命生きてんのよ! 見下すみたいに施されて喜ぶほど落ちぶれてない!」
「違う待ってくれ、聞いてくれ!」
止まらない私を遮るように、彼は両手を前に差し出して声を張り上げた。
片手には札束を持ったままで、なかば
初めて聞く彼の大声に、思わず口を噤む。
いつもは、声も表情も抑揚がなく感情が読めないのに。
セックスの時でさえ、食いしばるみたいに声を殺しているのに。
「お前を、侮辱する意図は、なかったんだ、本当だ。そもそも俺は、金持ちじゃねえ」
両手を前に突き出したまま、言葉は途切れ途切れに拙く紡がれた。
……嘘を言っているようにも見えない。怒りに染まっていた視界が少しだけ冷静になる。
彼のズボンの裾がほつれているのに気がついた。上半身のシャツも決して高級品ではなく、安い木綿だ。――金持ちじゃないというのは、本当かもしれない。
じゃあ、どうして。
「ただ……ただ、お前が、他の男に抱かれるのが、嫌だった。だから、お前の枠を全部買い占めた。弟の学費の心配がなくなれば、この仕事も辞めてくれるかもしれねえと……そう考えた。
気分を害したなら悪かった、お前の尊厳を傷つけるつもりは決してなかった」
リヴァイさんの言葉が一つ、また一つとこぼれるたびに、私は目から鱗が落ちるみたいだった。
もしかしてこの人はとんでもなく不器用で、愚直なのだろうか。私は大きな勘違いをしていたのだろうか。
だって、そんなの、わからない。言ってくれなきゃ伝わらないのに。
「すまない」
彼は両手と札束を膝の上へ戻すと、車椅子の上で頭を深々と下げた。
形のよい頭の中心に小さなつむじが覗く。
「お前が好きで、欲をかいた」
風もない閉め切られた部屋の中で、蝋燭が再びゆらりと揺れる。
この男の言葉にきっと嘘はない。
すとんと腑に落ちると同時に、私は絨毯の上にへたりこんでしまったのだった。
【わかりあえない人 Fin.】