ひとつまみの特別
01
「リヴァイ兵長って、モテますよね」
ぼろりと口からこぼれ出た、愚痴のような独り言。拾ってくれたのは、一緒に保管庫で備品の確認をしていたハンジさんだ。
「何、突然どうしたの? まあモテてるよね。
知ってるよ、君たち女子新兵の間ではエルヴィンとリヴァイがツートップなんだってね。君もリヴァイのファンなんだろう?」
ハンジさんはあっけらかんと言った。兵長はモテるという事実がダメ押しされる。
やっぱモテますよね、とため息を吐くと、私のわかりやすい落ち込み方にハンジさんはカラカラと笑った。
「明日のバレンタイン? 君もリヴァイにあげるの?」
「え、ええと……あげたいんですけど、兵長ってチョコレートとか甘い物好きなんですかね?」
「嫌いじゃないと思うよ。去年も女の子からいっぱいもらっていたみたいだし」
「えっ……いっぱい?」
兵長が他の女性からもチョコレートをもらうなんて予想しきっていたことなのに、実際に言葉にされると、やっぱり怯んでしまう。
「みんな頑張るよねえ、チョコレートなんて高級品なのに。君も、うまく渡せると良いね!」
備品の検数を終えたハンジさんは、パッと顔を上げて爽やかに微笑む。
私も無理くりに笑顔を作り、はい、と頷いて答えた。
* * *
私はハンジさんに、リヴァイ兵長のファンだと認識されている。間違いじゃないし、そう認識される程度にはわかりやすい態度をしているらしい。ファンというよりは、もう少し真剣な感情だけれど。
兵長への恋心は別に隠しているわけじゃない。隠してなんていられないのだ。
兵長を好きな新兵なんて掃いて捨てるほどいる。想いを主張しなければ淘汰されるだけだから。
ただ、いくら「好きです!」と主張したところで、毎回「そうかよ」と一蹴されて終わりだ。何度も告白しては玉砕していて、さすがにもう「好きです!」と言うのは止めた。
想いが成就することはないと、ちゃんと理解している。
想いが成就せずとも、特別に嫌われているわけではない……と思う。恐らくそれは私だけでなく、みんなに対して。
兵長は、訓練ではよく面倒を見てくださるし、食堂で一緒になれば声を掛けてくださることもある。私にも、他の女性兵士にも、同じように。
きっと私たち部下をすべて並列で見ているのだろう。部下のうちの誰かが兵長の特別になる可能性は、とても低い。
彼にとって特別なのは、エルヴィン団長だけかもしれない。
兵舎の寝室で、私は机の天板にぐだりと伏せるように凭れていた。カーテンの隙間から差し込む青白い月光は、机上の蝋燭が放つ橙色と混じりあい、相殺される。
同室の同期たちは既に夢の中だ。私だけが机に向かい、蝋燭に照らされた机上をぼんやりと見つめている。正確には、机上のラッピングされたチョコレートを。
ビロードのリボンで口を結ばれた袋の中には、アーモンドにチョコレートをコーティングした菓子が入っている。さすがにシーナのチョコレートを調達する金はなかったが、トロストの有名店で購入した。それなりに、した。
でもこのチョコレートだって、明日渡したところで、プレゼントの山に埋もれるだけだ。きっとどれが誰のものだかもわからなくなる。
自分が大勢のうちの一人に過ぎないことはきちんとわかっている。
特別になれる方法なんて、ない。
それでも。
せめてこのチョコレートが、少しでも兵長の記憶に残れば良いのに。
「……!」
思い立った私はハッと息を呑み、壁の時計を見上げた。
* * *
一般兵士棟から、隙間風の吹く渡り廊下を通って、幹部棟へ。
真冬の夜風に身を震わせながら、手に持った燭台の蝋燭が消えないよう風から庇う。
もう寝ている者のほうが多い時間。だが兵長はまだ起きているはずだ。
幹部棟の西廊下、兵士長執務室の前で足を止める。
暗い廊下の光源は、私の持つ蝋燭と、執務室からわずかに漏れる灯りのみだ。
蝋燭で腕時計の文字盤を照らすと、二十三時五十八分だった。
兵長は、この時間にまだ仕事をしている。珍しくないことだ。
執務室のドア前でじっと待機する。蝋燭で腕時計を照らしたまま、秒針が律動的に進むのを眺めていた。
あと二分。秒針が一周すると、分針がカチリと一歩進む。あと一分。
やがて、分針がもう一歩進み、〇時〇分を迎えた。安堵の息を吐く。
この廊下に、私以外の誰も来なかった。
灯りの漏れる執務室のドアをノックすると、ほどなくしてガチャリと開いた。
廊下同様に薄暗い執務室から出てきた兵長はジャケットもスカーフもきっちりと着込み、だが目の下の隈が濃い。まだまだ仕事中だということは一目でわかった。
「お前か、なんだ」
兵長は、肩をごきごきと回しながら言った。その不健康そうな顔は蝋燭に照らされ、半分ほど真っ黒な陰がかかっている。
肩を回すという何気ない動作でさえ、目にすれば愛しさのあまりにきゅうと胸が縮こまった。
「胸が苦しくなる」なんて、詩人が使う比喩表現だと思っていたのに。
病気でもないのに胸が苦しくなるだなんて、そんなことが現実に起こりえると、私は知らなかったのだ。兵長に出会うまでは。
「あ、あの、夜分すみません。これ、あの、夜遅くまでお疲れ様です」
私は左手に燭台を持ったまま、右手の掌にチョコレートを乗せて差し出した。
兵長はリボンの結ばれた袋を認めると、右目をわずかに眇める。頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えた。
このプレゼントが何なのか多分わかっていない。
「……えっと、チョコレート、なんですけど」
上目遣いで伺うように言う。
一拍置いて兵長はようやく、ああ、と納得したように頷いた。
〇時を回ったから今日は二月十四日、バレンタインデーだ。これはバレンタインプレゼントであると正しく認識されたらしい。
「そりゃあ、ありがとうな」
いつも通りの抑揚のない声。バレンタインプレゼントなんてもらい慣れているのだろう。
それでも、兵長が掌の上からチョコレートを取り上げると同時に、私の胸はまたきゅうと縮こまった。
嬉しい。特別になれなくても、嬉しい。好き。大好き。
「あの……私が一番乗りでしたか?」
「あ?」
「今年のバレンタインデー、兵長にプレゼントしたの、私が一番でしたか?」
「当たり前だ、お前〇時ぴったりに来てんじゃねえか」
苦虫を噛み潰したみたいに眉を顰めた兵長は、しかし本気で怒っている様子でもない。
すいません、と肩を竦めれば、兵長は呆れたみたいにため息を吐いた。
「でも一番になれたなら良かったです」
「どうして順序にこだわる」
心底わからないという風に首を傾げながら、兵長はラッピングのリボンを解いた。
袋の中に人差し指と親指を入れ、摘んで取り出したアーモンドチョコレート。こっくりとしたチェスナットブラウンのチョコレートは、蝋燭の炎でてらてらと輝いている。
「だって、兵長はきっとたくさんチョコレートをもらうでしょう? 私が渡すチョコレートも多分埋もれちゃう。一番乗りになれば、ちょっとは兵長の記憶にも残るかもしれないじゃないですか。
……なーんて」
言ってから照れてしまって、最後はごまかして笑った。
兵長は私の恥ずかしい語りを聞いても表情を変えることなく、アーモンドチョコレートをぼりぼりと咀嚼している。
やがて、ごっくんと嚥下した兵長は、口を開いた。
「……もう遅い。さっさと部屋に帰って、クソして寝ろ。明日の訓練で寝ぼけた顔をしていたら承知しねえからな」
「はい、わかりました。夜分失礼しました」
通常運転の、糖度ゼロの言葉。私はぺこりと頭を下げた。
今夜は兵長とたくさん話せて嬉しかった。チョコレートも受け取ってもらえて、食べてもらえて。
十分すぎる、素敵なバレンタインデーだ。
頭を上げ、踵を返す。一歩踏み出したところで声がかかった。
「おい」
後ろを振り返ると、兵長は片手にリボンの
「俺はな、甘い物はそんなに好きじゃねえんだ」
「えっ!? 甘い物は嫌いじゃないって聞いていたんですけど……」
私が慌てふためいたのに対し、兵長は淡々とした声で続ける。
「ああ、まあ嫌いってわけじゃねえし、このチョコレートは悪くない。だが甘いもんは量が食えねえんだ。ほんのちょっと摘めればそれで十分でな」
「そ、そうなんですか……」
身体を小さく窄め、しょぼん、と擬態語を見事に体現して落ち込む。
甘い物はさほど好きじゃないという割に、兵長はまた一つアーモンドチョコレートを口に放り入れた。小気味よい音で咀嚼し、ごっくんと喉ぼとけが上下する。
チョコレートを飲み込んだ兵長は、再び口を開いた。
「……だから。今、お前のチョコレートをこんなに食べちまって。……しばらく甘いもんは何もいらねえな」
兵長の言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
理解が追い付くのに数秒かかった。言葉の意味が腹落ちすると同時に、心臓がぎゅむっと鷲掴みされたみたいにつぶれる。
一気に血圧が上がり、頭のてっぺんから足の爪先まで、血管が膨れ上がって熱が走った。
「へ、兵長、それって、」
私が掠れた声をようやく出すのを遮るように。
「おやすみ」
呟くように言って、兵長はするりと執務室の中へ戻った。
俯き加減の顔は、見えなかった。
執務室のドアが乾いた音を立てて閉まる。
蝋燭一本分だけ照らされた廊下で、私は一人、しばらく立ち尽くしていた。
【ひとつまみの特別 Fin.】