ロマンチカ





01




 月が明るい夜だった。
 街の中央に位置する時計台に目をやれば、時刻は既に二十三時を回っている。もうこんな時間になってしまった。

 前をスタスタと歩くのは兵長だ。
 だが夜会用のタキシードを身に纏い、髪も普段使わない整髪料でオールバックにまとめている彼は、まるで別人のよう。足音すら普段とは違う。兵団ブーツと夜会用の革靴とでは、靴底の作りが違うらしい。
 私のほうも、いつもとは全然違う装いだった。普段は兵服しか着ないし、調整日で兵服を着ない時には大体よれよれのシャツを着ている。こんな胸元がばっくり開いた、袖も肩口にちょこんと付いているだけのドレスは生まれて初めて着た。
 いや、ドレスよりも何よりも。
 今私を困らせているのは、やはり生まれて初めて履いた、ハイヒールである。



 * * *



 エルヴィン団長は、しばしば内地で開かれる夜会に参加している。貴族達と繋がりを持ち、資金調達へと繋げるためだ。
 貧乏兵団として名高い我らが調査兵団は、その理念を支持する(物好きな)貴族達からの援助で、なんとか資金を融通している。
 夜会には団長お一人で参加することもあるが、時々リヴァイ兵長やミケ分隊長をお供にすることもある。護衛だ。
 団長は、味方も多いが敵も多い。夜会の人混みに紛れて彼を陥れようとする輩や、命を狙う輩もいるのだ。そのような危険を察知すると、団長は必ず、リヴァイ兵長かミケ分隊長を護衛につける。

 今日の護衛には、リヴァイ兵長と、新米分隊長である私が指名された。
 リヴァイ兵長ほどの力があれば、護衛は一人で十分では? 視線だけで団長にそう伺えば、「今回怪しいのはご婦人だ」と回答がきた。確かに、要注意人物が女性であれば、同性の護衛は何かと都合が良いだろう。
 ではなぜハンジ分隊長ではないのかとささやかに反論すると、「ハンジがドレスを着て夜会で愛嬌を振りまけるだろうか?」と反語で返された。
 なるほど道理である。



 結局、要注意人物のご婦人は私が引っ捕らえた。
 扇子を広げ貴族然と笑いながら、その扇子の裏で胸元から小瓶を取り出し、エルヴィン団長のワイングラスに仕込もうとしていたのだ。小瓶の中身が何かは知らないが、どうせろくなもんじゃない。
 御用となったご婦人、もとい金で雇われた女刺客は、夜会に出席していた憲兵団にしょっぴかれることとなった。
 狙われた団長本人も参考人として憲兵団本部へ同行することとなり、兵長と私も付き添おうとしたが、団長は笑って首を横に振った。

「犯人が捕まったならもう心配はないし、なんなら帰りはナイルにでも送らせるさ。君たちは先に戻っていろ」

 そういうわけで、私と兵長だけが宿屋へ向かっているという構図である。



 * * *



 エルヴィン団長の周りで不穏な動きをしていた者がお縄になった。その事実は間違いなく心を軽くしている。
 団長は私達調査兵にとっての絶対的な道標であり、精神的な柱でもある。失うわけにはいかない人物をこの手で守れたことは、素直に誇らしい。

 月は綺麗だし、夜風は心地良いし、心は晴れやか。良い夜だ。
 良い夜のはず、なのだ。

 この足の痛みさえなければ。



 無視しきれない痛みだった。生まれてこの方ハイヒールというものを履いたことがなかったので、初めて経験する痛みである。
 夜会で刺客を引っ捕らえるあたりまでは、まだマシだった。緊張や興奮のほうが勝っていて、足の痛みに気が回らなかったのだろう。万事解決し一息吐いた途端、踵と爪先が痛み出したのだ。
 壁外でもっとひどい怪我をしたことだって何度もあるのに、どうしてこの些末な怪我が無視できないのだろう。靴擦れというのは本当に厄介なものだ。
 それでも、宿屋へ向かうには歩くしかない。



 道中、兵長は公園の中へと進んだ。まっすぐ通り抜けるとショートカットになる。
 夜の公園は誰もいない。昼間は市民の憩いの場だろうが、今はシンと静まりかえり、植木も遊具も真っ黒に染まっていた。月明かりと公園内の外灯だけが、仄かに私達を照らす。

 前をスタスタと歩いていた兵長が突然足を止めた。一拍置いて、くるりとこちらを振り返る。
 いつもは揺れる黒髪が、今日は整髪料で固められてぴたりと動かない。小さな額には、後れ毛がほんの一束、はらりと落ちている。
 私も足を止めた。

「……どうかしましたか?」

 宿屋はもうしばらく先のはずなのに。

 兵長は質問に答えることなく、カツカツと革靴を鳴らし、私のほうへと戻ってくる。

 私、何か気に障ることでもしてしまったのだろうか。でも今までずっと黙って歩いていただけなのに。
 戸惑っていると、目の前にやってきた兵長はむずと私の腕を引っ掴んだ。

「座れ」

 そう言って顎をしゃくる。

 顎の先が示したのは噴水だ。正確には、噴水の(ふち)だ。
 そのまま腕を乱暴に引っ張られ、私は半ば無理やり石造りの(ふち)に腰掛けさせられた。



 兵長とは今回の任務でたまたま一緒になっただけで、普段からそう親しいわけではない。今まで彼と関わることも多くなかった。
 ――という事情を差し引いたとしても、彼の表情はあまりに乏しく、何を考えているかまったく読み取れない。いつも眉間に皺を寄せていて無愛想で、そしてそれは現在も同じだった。

 困惑していると、兵長は私の真ん前で突然片膝をついた。上官にこんな風に跪かれ、思わずぎょっと目を剥く。
 今日の兵長の格好がまた悪い。蝶ネクタイとタキシードを纏い、髪を整えた兵長は、どこかの貴族か王子様のようだった。
 兵長は地面に付いていたドレスの裾をそっと捲り、ハイヒールを露にした。

「な、なん……」

「何ですか」と言おうとしたのに、吃って質問は霧散した。
 兵長は黙ったまま私のふくらはぎと靴に手をやる。
 ふくらはぎに彼の指が優しく触れた瞬間、脚から全身に稲妻が走ったようだった。



 足からそっとハイヒールが外される。両足とも親指と小指の爪先は赤く腫れ、踵には広い擦傷ができていた。傷口からぐちゃぐちゃに出血していて、見るも無残である。

「……」

 睨み付けるような視線が刺さる。沈黙と重い空気に居たたまれなくなって、私は兵長からふいと視線を逸らした。

 なぜ靴擦れがわかったのだろう。歩くペースはずっと同じだったと思うし、痛みを顔に出したつもりもない。
 そもそも、私は彼の後ろを歩いていたのだから、顔が見えるはずもない。後頭部に目が付いているわけでもあるまいし。

「チッ……こうなる前に早く言え」

 心底煩わしそうに舌打ちをした兵長は、跪いたまま今度は私に背を向けた。「ほら」と手で促して。――背負ってくれると?

「いやいやいやいや! 大丈夫です兵長! 負ぶってもらうほどのことじゃ」
「うるせえなさっさとしろ」
「いや私歩けますから!」
「気づいてねえかもしれないがな、歩幅が小さくなってんだよ。遅れをとらないよう歩いていたつもりだろうが、お前と俺の距離はほんの少しずつ開いていた。
 俺はさっさと宿屋で風呂に入りてえんだ、貴族の豚野郎どもの匂いが身体に染みついてかなわんからな」

 背中を差し出したままこちらを振り返る兵長の顔は、とてもとても凶悪だった。額には青筋が浮いている。

 もう何も言えなくなってしまった私は、おずおずと彼の背に触れた。触れた瞬間、腕を引っ張り上げられ、むりやり負ぶわれる。

「ひゃっ」

 兵長は、私の重みなど赤子のそれであるかのように、少しも揺らがず真っ直ぐ立ち上がった。視線が一気に高くなる。
 然して、負ぶわれたまま無言でずんずんと前進された。

 兵長の背中には筋肉がぎっしり詰まっていて、信じられないほど固く、そして思いの外広かった。
 ずっと小柄だ小柄だと思っていたけれど、こんな背中に触れてしまっては、彼が男性だということを否が応でも意識してしまう。
 夜の風が彼の髪を撫ぜると、整髪料とシャンプーが混じって香った。



 突然、バチンと心臓が爆発したようだった。
 次の瞬間、鼓動が急に駆け始めた。胸が、グラグラと煮えたぎった何かに追いかけられているようで。



 私は、突然めちゃくちゃに動き出した心臓に慌て、ぐっと身体を起こした。彼の背中に密着していては、このうるさい鼓動が伝わってしまう。

「おい何やってんだ、急に姿勢を変えるんじゃねえ! バランスが崩れる」

 兵長は律動的な歩みを止めないまま、忌々しそうにこちらを振り返る。

「いやでも兵長、やっぱり私下り……」
「ちゃんとくっついてろっつってんだ! 危ねえだろうが!」

 まるで訓練中のような怒鳴り声でねじ伏せられ、私は口を噤んだ。おとなしく彼の背中に身体を預けるしかなかった。



 鼓動はずっとうるさい。こんなの、きっと背中から彼に伝わってしまっているんじゃないだろうか。
 ――これじゃあまるで、私が兵長のこと好きみたいじゃない。



 どうか伝わりませんようにと、私は固くて広い背中の上で、そっと目を閉じた。





【ロマンチカ fin.】

   

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