アフター・ザ・レイン








2020年8月9日
夢ノ箱庭†ヒロイン編†7無配作品


【ご注意】

ジークが悪役です
大丈夫そうな方だけご覧ください。




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「きゃあっ」

 派手な音を立て、女の買い物袋から食品が飛び出した。キャベツ、ニンジン、豆腐、牛乳……卵も。割れたかもしれない。

「おい、大丈夫か」

 まずは倒れている女に手を差し伸べ、引き起こしてやる。女は長い前髪を乱れさせ、顔が半分隠れていた。

「だ、大丈夫です……。すみません、私急いでいて前を見ていなくて……」

 スーパーからの買い物帰りと思われる女が、帰宅中の俺に突進してきたのだ。俺も丁度考え事をしていて、女に気付くのが遅れた。
 雨上がりの夜道はぐっしょりと濡れている。俺が散乱した食品に手を伸ばすと、女はすみませんすみませんと謝りながら、自身も焦った様子で拾い始めた。

 濡れた地面にしゃがみ込む女。ロングスカートの裾が地面にべっとりとつくのも厭わない。
 いや……厭わないというよりは、構っていられないという感じだろうか。うら若い女性が洒落たスカートをはいているのに、それに頓着せず青ざめた顔で食品を拾い集める様は危うさを感じさせる。
 まるで何かに怯えているような。

「あの、じゃあどうもすみませんでしたっ」

 買い物袋に食品を詰め込んだ女は、俺に頭を下げると一目散に走り出し、住宅街のほうへ消えていった。
 さて自分も帰るかという時に、気がついてしまった。地面に落ちている女物の財布に。
 女はもう見えない。致し方なく財布を開け何か身分のわかる物はないかと探すと、運転免許証が出てきた。女の顔と名前、住所が載っている。
 交番に届けても良いのだろうが、交番よりも女の住所のほうがよほど近かった。


* * *


 そこは、小綺麗なアパートだった。女の部屋番号を目指して階段を上る。
 インターホンを鳴らそうとしたところに、どがんっと剣呑な音が聞こえ思わず手を止めた。室内からだ。
 物騒な音に失礼を承知で耳をそばだてると、何やら男の声が聞こえる。

「なんで遅くなったのかな?」

 ダメ元でドアノブを捻ると、鍵が掛かっていなかった。部屋の奥から聞こえる男の声が、ドアを薄く開けたことによって明瞭になる。

「駄目じゃないか……スーパーに行くっていうから、外出を許可したんだよ? 二十分だけだと約束したよね? 五分オーバーだ。
 それにスーパーに向かう途中で道草したね? GPSは正直なんだよ。三分以上も同じ場所で立ち止まって、何をしていた?」
「だ、だから……何もしてないよ……横断歩道が渡れなくて困っていたおばあさんがいたから、手を引いてあげただけで……」
「その証拠がどこにある?」

 穏やかな声色だったが、この男が異常だというのはこの数分で充分に理解できた。

 玄関の土間に上がり込み部屋の奥を覗き込むと、丸眼鏡に髭面の大男が立っていた。さっき俺にぶつかってきた女は床にへたり込み、髭面を怯えたように見上げている。

「悪い子にはお仕置きが必要だな」
「やだっ、ごめんなさい! ジーク、お仕置きは嫌です……! もう遅れないから……!」
「ほら、立ちなさい」
「やだやだっ、い、痛いの嫌っ!!」

 女はよろめきながら必死の形相で玄関に向かって逃げてくる。
 そこで初めて、俺が部屋に上がり込んでいたことに気がついたようだ。土間にいた俺と目が合うと、涙を溜めた目を丸くした。女の頬は真っ赤に腫れている。

「痛いの嫌って、そんなことないだろう? お前は結局痛くしたってちゃんと濡れるんだから……」

 男は鷹揚に女の後を歩く。が、女と同様に玄関の俺に気がつくと、驚いた顔をした。

「……どちら様? 招いた覚えは無いけど」

 ジークと呼ばれた髭面は、ぎろりと俺を睨む。俺は女の財布を掲げた。

「……この女の財布を届けに来たら、剣呑な音が聞こえたんでな。鍵も開いていたから、失礼を承知で上がらせてもらった。事件性を疑ったんだが、その通りだったようだ」
「事件性? おたく何言ってんの? 恋人同士の会話に部外者が割り込まないでくれよ」

 男は尚も鷹揚なまま、腕を組んで三和土の上から俺を見下ろす。

「彼女の頬を見れば、事件かどうかはわかる。同意が無ければお前のやっていることは脅迫、傷害だろうな。立派な刑事事件だと俺は思うが」
「はあ?」

 その声色は自信の表れだ。多分この男は本当に自分のやっていることをわかっていないのだろう。
 自分の恋人が震えて怯えているのを、真っ当な人間は耐えられないものだ。

「おい、お前」

 俺は三和土の上で突っ立っている女に向かって声を掛けた。

「どうなんだ? 本当にこの髭面と同意の上での行為なのだったら俺は大変な無礼を働いているわけだが。どっちなんだ?」

 女は震えて声を出せないまま、おどおどと俺を見る。

「この男にはっきり言ってやりなさい。これは同意の上での行為で、俺の行動は全てお前への愛故だ、と。
 早く部屋に戻ろう、良い子だから、ほら」

 髭面は女に視線もくれず、俺を見据えたまま腕を組んで言った。
 女は怯えた様子のまま、俺と髭面とを交互に見る。

「どっちだ? この髭面が言っていることが正しいのか。それとも俺が懸念している通りなのか。
 お前が示せ。悔いが残らない方を自分で選べ」

 俺は土間から女を見やる。女の瞳は揺れていた。髭面は女に手を差し出す。
 女は怯えながら髭面の掌を見やる。そして、髭面の顔をぎっと睨み、震えながら俺の元へと駆け寄った。
 髭面の顔がびくりと引きつる。勇気を出して一歩踏み出した女の肩を俺の方へ引き寄せると、その小さな肩は震えていた。

「ど……同意ではありません……!」

 消えそうな声で、しかし確かにそう言った。声が消えると同時に、髭面のこめかみに青筋が浮き出る。

「お前……!」
「よく言った」

 次の瞬間、俺は髭面の怒鳴り声を遮り、女の手を取り玄関を飛び出した。
 アパートの階段を駆けおり、雨に濡れたアスファルトの上を走る。後ろから髭面の声が聞こえたが、後ろを振り返ることもしない。
 女が裸足で出てきてしまったことに気がつき、俺は女の背と膝裏に手を回して横抱きにした。きゃっと小さな声がして、腕の中からまだ不安そうな瞳が俺を見上げた。

「俺が、お前を自由にしてやる」

 風を切りながら言うと、女は少しだけ口角を上げ、はい、と小さく頷く。
 俺は今日初めて、この女の笑顔を見た。

 雨上がりの月が出てきた。濡れたアスファルトは月光に照らされ、鈍く輝いた。



【アフター・ザ・レイン Fin.】

   

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