月を導く









まりも様(@marimo_london)主催
#誰でもえるう゛ぃんSS6月参加作品




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 コン、コン。
 女が台所に立っていると、玄関からノックの音が響いた。
 家は「ぼろ家」と呼んで差し支えなく、だが地下の住居なんてみんなこんなものだ。屋根があるだけマシだろう。
 古ぼけた玄関のドアには申し訳程度の鍵。玄関は、ちょっと押せばドアが崩れてしまいそうなほどに痛んでいる。押し入るのも簡単だ。だから彼女は、就寝時にはいつも家具で玄関を塞いでいる。
 だが今ドアの向こうにいる彼は、絶対に不躾に押し入るような真似はしない。彼女にはそれがわかっている。地上の人間がみんなこうなのかは知らないが、彼は紳士的なのだ。
 彼女が軋むドアを開けると、立っていたのはやはり予想通りの人物だった。

「やあ、こんにちは」
「いらっしゃいエルヴィン。調査兵団って暇なの?」
「ははは、暇なわけではないのだが、外はひどい雨でね。どうやら梅雨に入ったらしい。少し雨宿りさせてくれないか」

 そう言って、身体の大きなエルヴィンは屈むようにして小さなドアをくぐる。
 緑の外套は確かに濡れていた。地上で雨が降っているというのは本当らしい。もっともこの地下では、晴れでも雨でも大した問題ではなかった。
 地下には天井がない吹き抜けの場所もあるから、彼女も晴れや雨を見たことがある。だがその吹き抜けを除けば、地下では晴れも雨も関係ない。どこもかしこも、いつも暗くてかび臭い。
 エルヴィンの言う「雨宿り」が本気ではないことを、彼女はもちろん承知していた。
 地上と地下を繋ぐ階段を通るには通行料がかかる。わざわざ金を払って薄汚い地下街で雨宿りだなんて、おかしな話だ。

 女はエルヴィンをダイニングチェアに座らせると、湯を沸かし始めた。

「今お茶を淹れるわ」
「どうか構わないでくれ、私が好きで来ているのだから。申し訳ない気になってしまう」
「あなたが持ってきた茶葉よ?」

 彼女が火の前で振り返って苦笑すると、椅子の上のエルヴィンも苦笑する。テーブルも椅子も玄関のドアに負けず劣らず古ぼけているものだから、エルヴィンが笑うとそれに合わせてキシキシ鳴った。
 地下街で茶葉は安くない。茶葉だけじゃない、なんだってそうだ。この治安の悪い街では、傷んで溶けかけている野菜ですら法外な値段で売られていたりする。だからエルヴィンは彼女の家を訪れる度に、茶葉やら菓子やらパンやらを土産として持ってきていた。



 女は地下街から出たことがない。
 エルヴィンとの出会いも、この地下街だった。

「地下街のゴロツキに立体機動装置の使い手がおり、しかもその技量は調査兵団のベテラン兵士を凌ぐほどのものらしい」

 情報を得たエルヴィンが地下街を訪れるようになったのは、ちょうど一か月前のことだ。エルヴィンはそのゴロツキ――後に人類最強と呼ばれる男だが――の情報を得るために、地下街で聞き込みをした。情報収集のための雑談。それが、エルヴィンと女との最初の会話だった。
 彼女はゴロツキと直接の面識はなかったが、地下で暮らす者ならばそのゴロツキを知らない者のほうが少ない。彼女は持っている情報を悪気なくエルヴィンに提供し、その結果、エルヴィンはゴロツキ達を調査兵団へと引き入れることに成功した。
 ゴロツキ達を調査兵団へ引き入れたのであれば任務は完了のはずだが、エルヴィンは未だに地下へと通っている。正確には、地下のこの女の家へと通っている。
 明確な目的は、なかった。エルヴィンが彼女の家ですることは、茶を飲むことと雑談することの二つだけである。仕事ではないことは確かだった。



 エルヴィンにとって、彼女との会話は楽しいものだった。
 生まれてから一度も地下から出たことのない彼女の知識と、地上の学校に通い兵士となったエルヴィンの知識。二つの円は別のところに存在し、その円が重なる部分はほとんどない。それが良かった。
 彼女の話に、エルヴィンは知的好奇心をくすぐられた。逆にエルヴィンの話も彼女にとっては興味深いものだった。
 彼女はその生まれ故に学校こそ行ったことはないが、家は書物に溢れており、知識欲は人並み以上である。その点が、エルヴィンと彼女との唯一の共通点なのだろう。

「……それで、地上へ来る気にはなったかな?」

 縁(ふち)の欠けたティーカップを唇から離し、エルヴィンは言った。厚い唇の隙間から、茶の湯気が残り香となってうっすら漂う。
 女は、テーブルの上でティーカップを両手で包んだ。そして黙ったままにっこりと笑う。
 その笑顔に、どうやら来る気にはなっていないようだとエルヴィンは理解した。彼もやはり黙ったまま笑い、そのまま再び茶に口をつけた。
 ぼろ家に穏やかな空気が流れる。しばらく無言が続き、ほう、という温かい吐息と共に無言を終わらせたのは、女のほうだった。

「エルヴィン、あなたが何を考えて私を地上へ誘っているのかわからないけれど……私は、あなたが引き上げたゴロツキ達とは違うわ。運動神経は決して良い方じゃない。私なんかが調査兵団へ入ったって、一瞬で巨人に食べられてしまう」

 何を考えて彼女を地上へ誘っているのか。
 それは、エルヴィン自身もよくわかっていないことだった。
 理由などない。ただ、この聡明で美しい女が自分のそばにいたならば。そう思っただけだ。
 言ってしまえば「惚れている」。その一言なのだが、それは第三者が傍はたから見るからこそ気づくことなのだろう。
 自分自身の感情を性格に理解することは存外難しいもので、エルヴィンにおいても、そして彼女においても例外ではなかった。

「……君に、調査兵として巨人と戦えとは言わない。兵団には巨人と戦う以外にも様々な職種があるんだ。兵団が嫌なら民間の働き口を探すこともできる。それでも地上に来る気にはならないか?」
「きっとあなたは……なぜ私がこんな暗くて不衛生な地下に拘るのか、不思議なのでしょうね」

 女の口調は極々おっとりとしていた。皮肉や、地上にいる者への僻みなどは一切無い。

「私はね、このゴミ溜めで生まれてゴミ溜めで育ったの。知らないところへ行くというのはとても勇気がいることだわ。地上での生き方も……どうやって食べていけばいいのかもわからない。いくら仕事を世話してくれると言っても、きっとあなたに迷惑をかけてしまうと思うの」
「迷惑だなんて」
「きっとかけてしまうわ」

 思わず声を硬くしたエルヴィンを、女は宥めるように遮った。

 地上でどうやって食べていけばいいのかわからない。では、地下ではどうやって食べているのか?
 今まで彼女と話していて、エルヴィンの脳裏にその疑問が過ぎらなかったわけではない。
 だが無意識にその疑問から目を逸らしていた。しっかりと考えればわかることだったかもしれないが、敢えて目を向けたくなかったのだ。

「……わかった、どうやら説得は失敗のようだ。仕方がない、また来るとしよう」

 肩を竦めて立ち上がるエルヴィンに、女はハンガーに干してあった緑の外套を着せてやる。外套はやっと乾き始めてきたところだったが、もし地上で雨がまだ降っているのなら、きっとまた濡れてしまうのだろう。

「また来てくれるの?」
「毎日……は難しいが、近いうちにまた雨宿りに来よう。梅雨はまだ始まったばかりだから、しばらくは雨が降り続けるだろう」

 エルヴィンが戯けていうと、女はフフフと笑った。
 玄関のドアを開けると、再び軋んだ音が鳴る。エルヴィンは少し俯いて、今度は戯おどけた口調ではなく真摯に言葉を紡いだ。

「……雨が降っていても、降っていなくても、また寄せてくれないか。君と話しているのは楽しいんだ」

 彼女はほんの少しはにかみ、そして小さく頷いた。


* * *


 女は一人暮らしだった。件(くだん)のゴロツキ達のような身体能力があるわけでもなく、徒党を組んで盗みを働くこともない。では、彼女はどうやって地下で生活をしているのか。
 月に三回か四回、もしくはそれより多い時もあるが、彼女の家に男がやって来るのだ。台所に立っている彼女を、或いは椅子に腰掛けている彼女を、ベッドやら床やらに組み伏せ好き勝手に乱暴する。
 行為は合意だ。対価は、小さな布袋の中に入った金貨5枚。
 その対価が多いのか少ないのかはわからない。他人と比べたことなどないからだ。だがとにかく、彼女はこの金貨で食べていた。
 特別なことではない。ゴミ溜めに生まれ育つ者にとっては、極々当たり前のことだった。

「地上での生き方も……どうやって食べていけばいいのかもわからない」

 それは至極当然のことだった。彼女は、食い扶持の稼ぎ方を一つしか知らない。

 知識欲のあるエルヴィンは、地下での暮らしぶりをあれこれと尋ねてくる。彼女は尋ねられればなんでも答えたが、自らの収入源については決して言わなかった。近いことを尋ねられても適当にはぐらかす。何度かそうしているうちに、エルヴィンはだんだんとこの話題には触れなくなった。
 もしかしたら、彼も薄々気づいているのかもしれない。そう脳裏を過ぎることがあっても、目を瞑って何も見なかったことにする。
 彼女にとっても、エルヴィンとの時間は大切だったのだ。



 その日も、真っ昼間からだった。薄汚い中年の男がやって来て、ダイニングテーブルの上へ押し倒された。
 男と女、二人分の体重がかかると、木製のテーブルはミシミシと軋む。無遠慮にスカートの中をまさぐられ、彼女の心はシンと冷えていった。
 彼女にとって当たり前の行為だったが、決して楽しい行為ではない。特別でない男に身体を開くことを本能は拒んでいる。
 だが、本能をねじ伏せて生きることは多かれ少なかれ必要だ。地下ここではもちろん、きっと地上でも。

「なんだよ、久しぶりに来たっていうのに静かじゃねえか。恥ずかしくなっちまって声我慢してるのか? 出してくれよ、そのほうが盛り上がるからよお」

 男はニヤニヤと黄色く染まった汚い歯を見せて笑った。
 不細工な笑顔に、とんちんかんな台詞。彼女はスッと白けてしまった。もっとも、元々乗り気だったわけでもないのだが。
 我慢なんてしているもんか。こっちは感情も快感も全くないから、出す声もないだけだ。だが声を出すことでさっさと終わらせてくれるなら、そのほうがいくらかマシだろう。
 彼女は興醒めのため息を、取り繕った喘ぎ声に変える。わざとらしい声で啼けば、男は満足したようにニチャリと笑った。
 スカートの中で下着が剥ぎ取られた。
 ああ、もう少し耐えれば。ちょっと痛みを我慢すればそれで終わる。挿入いれるならさっさと挿入いれて欲しい。そして一刻も早くこの家から出て行って欲しい。
 この男が出て行ったら、ダイニングテーブルをピカピカに磨き上げよう。床も全部水拭きしよう。跡形もなく綺麗にして準備をしよう。そう、エルヴィンがいつ雨宿りに来ても良いように。
 彼女はそんなことを考えて、自らを欺きながら目を閉じた。



 その時、
 ガチャリ。
 玄関のドアが開いた。

 施錠の甘かった古い鍵は、ドアが押されることによって開いてしまったのだ。テーブルの上で上下になっていた二人は、思わずバッと顔をドアへ向ける。
 今まさにドアから入ってきた人物と、汚い男と、惨めな女。三者の視線が同時に絡む。
 女の唇が震えた。
 入ってきたのは、エルヴィンだった。



 エルヴィンの手から紙袋がドサリと落ちる。クッキーやらマドレーヌやら、高価な焼き菓子が床にバラバラと転がった。

「……何をしている?」

 玄関で立ち尽くしたままの声は硬く、冷ややかで。彼女が初めて聞く声色だった。

「何って、見てわかんねえか?いいことだろうが」

 汚い男は女に馬乗りになったまま、顔を愉快そうに歪めた。



 エルヴィンの頭にカッと血が上った。猛然と突進し、男の胸ぐらを掴む。
 ガタンガタンと物騒な音がぼろ家やに響き、女は乱れた衣類を胸の前で合わせ、テーブルから飛び退いた。
 まさか、まさかエルヴィンにこんなところを見られるなんて。羞恥と絶望と混乱の中、女は取っ組み合う二人をオロオロと見ているしかできない。
 エルヴィンは右手を固く握り、男の顔を目がけて――

「おっと、待てよ!」

 大きな拳は、男の頬へ当たるすんでのところで止まった。
 胸ぐらを掴み上げられている男は冷や汗を掻きながらも、勝ち誇ったように笑う。

「俺が殴られる謂れはねえぜ。合意の上なんだからな」

 男の視線は、床へ。そこには、金貨の入った布袋が転がっていた。
 エルヴィンはその布袋の意味を理解し、女はエルヴィンが理解したことを悟った。
 知られたくなかったことを知られた。彼女は両手で顔を覆い、声にならない声と共に崩れ落ちる。皮肉なことだが、彼女のその姿を見て、エルヴィンは自分の理解が真実であると確信してしまった。
 この男が殴られる謂れはない。これは合意の上の行為。対価のある取引。
 ――それでも。

 バキッ!!
 剣呑な音が響き、次の瞬間、男は吹っ飛んで床に叩きつけられていた。
 エルヴィンは、男を殴り飛ばしたのだ。

「……!!」

 顔を覆っていた彼女は、思わず目を見開く。床には、さっきまで自分を暴こうとしていた男が伸びていた。
 声は出なかった。ただ瞠目したまま、エルヴィンと伸びた男を交互に見やる。
 この男に、殴られる謂れは確かにないのかもしれない。だがエルヴィンは殴らずにはいられなかった。
殴らなければ気がすまなかったのだ。
 この汚い男が憎くて、この聡明で美しい女が憐れで、そしてどこかで気が付いていたのに目を背けていた自分が許せなくて。



「地上へ来るんだ。私と一緒に」

 エルヴィンは、憐れな女へと手を伸ばした。
 白く、逞しく、骨張った手。清潔で紳士的なその手は、今まで彼女に触れてきた男の手とは全く違う。

「で、でも」

 今までの手とは全然違うから、余計に戸惑ってしまうのだ。こんな手が彼女に差し出されたことは、今まで一度だってなかった。男の手というのは、もっと爪が汚くて、垢まみれで、黒ずんでいて、不躾で無遠慮で……。

「私が地上に出るなんて……やっぱり、あの、待って」
「待たない」

 差し出された手にもう遠慮はない。エルヴィンが細腕をぐいっと掴むと、彼女の瞳は揺れた。溢れんばかりの動揺と、一縷の希望。

「もう待たない。君を今すぐ連れて行く」

 エルヴィンは、彼女の腕を掴んだまま玄関を飛び出した。

 彼女の足取りは戸惑いに満ちていて、だがエルヴィンと一緒に走っているうちに、その足取りは確かなものへと変わってゆく。
 いつの間にか女は、自らの意志で走っていた。


* * *


 暗い階段の先にある、地上への光。その光を飛び抜けたのは生まれて初めてだった。
 初めて地上に降り立った彼女は、目を瞠った。
 天に敷き詰められているのは、銀色の雲。降りしきるのは、霧のような細かい水の粒。
 雨を見たのは初めてではない。だが地上で見た雨は初めてで、彼女には聖水のように清らかに映った。
 まるで、自らが纏った汚れを落としてくれるような。そんな気さえしたのだ。

「これが、本当の雨なのね」

 女は、地下街の出口から小さく一歩踏み出す。
 水はけの少々悪い石畳の歩道、しっとりとした鬣たてがみと共に走る馬、濡れて色の濃くなった青銅の像。彼女が見る初めてを、全て雨が洗い流してゆく。

「雨って、こんなに美しいのね……」
「それは良かった。梅雨は始まったばかりだ、まだまだ雨は降り続くだろう。だがこのままでは濡れてしまうから」

 歩道で感動に佇む彼女の肩に、緑の外套がそっと掛けられる。
 彼女が見上げると、雨よりももっと美しいセレストブルー天空色の瞳がそこにあった。

「まずは雨宿りをしよう。今度は、私の元で」

 エルヴィンが小さな肩にそっと手を添えると、彼女はこくりと頷いた。



 雨は降り続く。静かに、絶え間なく、二人を清める。
 梅雨が明けるのは、もう少し先の話だ。





【月を導く Fin.】

   

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