社畜の恋
03
* * *
次に気づいた時には、私は病室のベッドで横たわっていた。
「……目が覚めたか」
隣を見ると、リヴァイ課長がベッド横の椅子に座っていた。
「課長……」
「医者を呼んでくる」
そう言って、すぐに席を立ってしまった。
倒れる前の記憶が戻ってくる。課長が部長に言われている私を庇ってくれて、確か病院に連れてきてくれたのだ。
腹部の痛みはなくなっていた。
課長が連れてきた医師は、私に病状を説明した。
「急性虫垂炎です。所謂、盲腸ですね。良くある病気なのですが、ミョウジさんの場合炎症がひどく、虫垂の壁に孔(あな)が開いた状態で、そこから膿が腹部に広がっていたんですよ。放っておいたら危なかったです。緊急手術をしましたよ」
盲腸……?思いもよらなかった。自分がそんな病気にかかるなんて。
「虫垂炎の原因はまだよくわかっていないんです。ですが、暴飲暴食や過労が誘発することもありますから、まずは安静に。
今はまだ麻酔が効いているから痛くないかと思います。麻酔が切れたら多少は痛みますよ。術後の経過に問題なければ、一週間で退院できます」
ぽかんとしている私に、医師はお大事にと言って去って行った。慌てて、ありがとうございましたとお礼の言葉を述べた。
「……だとさ」
リヴァイ課長はベッド横のスツール椅子に座ったまま、私を見る。
「お前の実家に連絡しておいた。勝手に人事部に実家の連絡先問い合わせたぞ。
それから、商談にはダミアンの他に、エルドとグンタをつけておいた。俺も電話でフォローしておくから絶対大丈夫だ。契約は落とさせねえ」
エルドとグンタというのは、他の係長の下についている者だから直接私の部下ではないが、かなり優秀な営業マンだ。彼らがついているなら確かに安心だ。
「すみません、課長……何から何まで」
「おい、終わりじゃねえ。ここからは説教の時間だ」
課長はギロリと私を見て足を組む。
「絶対過労だ、お前は。一体何徹した?見てりゃわかる、その隈」
はあ、と大きなため息をつかれて、私は縮こまる。
「……申し訳ありません……」
「お前、自宅に仕事持ち帰ってやってただろう?俺が残業するなって言ったことを気にしたんだろうが、必要な残業は会社でやれ。で、残業代はきっちりもらえ。
それよりも何よりも、まず前提としてお前の業務量がおかしいな」
課長は椅子に座り直し、両手を膝の上に置くと私に頭を下げた。
「俺の管理不行き届きだ、すまなかった」
「ちょ、止めてください!課長!」
説教と言ったくせに、その説教はほんの数十秒で終わり、自分が頭を下げて謝るなんて。
課長が私の業務量を調整しようとしてくれていたのは知っていた。
ただ、課長をすっ飛ばして部長から無理難題を直接投げられたり、なぜか他部署の応援に駆り出されたりということも多かったのだ。
「だがな、お前はもっと断ることと、部下を上手に使うことを覚えろ。人に任せられるようになれば、お前の仕事は格段に減る」
私はうっと詰まった。もごもごと言い訳する。
「……だって……自分でやったほうが確実で早いんです……」
「それはわかる、お前は優秀だからな。だが、部下を育てるのも仕事だ。わかるな?」
黙って課長を見ていた私に、課長はふっと優しい笑みを一瞬、ほんの一瞬だけこぼした。こんな顔、多分社内で見たことない。
課長は、私の頬に手をやってふわりと撫でる。
「ゆっくり休め」
言うと、課長は頬からそっと手を外し、じゃあなと言って病室から出て行った。
課長が出て行った途端、私の顔はまるで火山が噴火したかのように熱を帯び真っ赤になった。
頬って、頬って!!あんな撫で方!!
完全にパーソナルスペースに割り込んだ接触を課長がしてくるのはもちろん初めてで、ドキドキした。
私は沸騰した頭を冷やそうと、ベッド横に置いてあった冷えたミネラルウォーターを額に当てた。ペットボトルごと蒸発してしまいそうなほど、額は熱かった。
* * *
一週間後、無事に退院した私は菓子折りを持って出社した。迷惑をかけた部署の皆に、お詫びと復帰の挨拶をして回るのである。
もちろん営業部のトップである部長の席には、一番に向かった。
どんな嫌味を言われるかと構えていたのだが。
「ああ、うん、まあ体調には気を付けてくれたまえ」
意外なことに、そんな嫌味にもならないような無難な一言だけで終わってしまったのである。
肩透かしを食らった私は、不思議に思いながらも部署全体を回った。皆からは労わりの声と復帰歓迎の声をかけてもらった。ありがたいことである。
部署を回り終え自席についた私に、隣の席のダミアンがそっと耳打ちした。
「部長、幹部会議でコテンパンだったそうですよ。
緊急手術案件の部下を無理やり商談に行かせようとしたって、けちょんけちょんに言われたとのことで。コンプライアンスがどうとかって、エルヴィン・スミス常務を筆頭に複数の役員からかなりやられたらしいです」
「……そうなの、それであんなにおとなしいのね?」
「はい」
ダミアンはにやっと笑った。
納得した。多分リヴァイ課長の差し金だ。エルヴィン常務とリヴァイ課長は旧知の間柄らしく、プライベートでも仲が良い。
リヴァイ課長が席から立ち廊下へ出たのを見た私は、後を追いかけた。
先ほど部署内を回るときにもちろん課長にも挨拶したが、あれだけお世話になったので、個人的にきちんとお礼をしなければと思っていた。
「リヴァイ課長!」
休憩スペースの自販機の前に立っていた課長に声をかける。
駆け足で追いついた私は、課長以外に人がいないことを確認してから課長に頭を下げた。
「ありがとうございました。課長のお陰で無事退院できました。それと……部長の件も」
課長はこちらを見てにやりと笑った。
やはり部長が幹部会議でやられたのは、課長が噛んでいるのだ。
「あの、課長。お礼をさせていただきたいのですが、なになら喜んでいただけるか迷ってしまって……何かご所望のものはないですか?紅茶ならお好きかと思ったんですが、好みがあるかと思いまして」
「あ?いらねえよ。大したことしてねえしな」
「いいえ、そんなことはありません!というか、私の気が済まないので!」
私が強く言うと、課長はそうか、と言って身体ごとこちらに向けた。
「じゃあ、これでいい」
急に課長が近づき、私の後頭部に右手をやった。
私の眼前が課長の顔で覆われたかと思うと、唇に柔らかい感触が押し付けられる。
「……」
私が無言でいる間に、課長の身体は私から離れ、私の視界にはまたいつも通りの課長の姿が映った。
「……は?」
あっけにとられた私の口からは、間抜けな声が漏れた。
今、何?
キスされた?
「……はああああ!?」
「うるせえな」
どういう状況かまったく理解できず大声を出した私を課長は一蹴し、何事もなかったかのように自販機に向き直りボタンを押す。ガコン、ガコンと缶が出口に落ちてくる音が響いた。
何、なに?なになになに?
混乱して目を白黒させている私に対し、課長は全く通常営業だ。
え?私の勘違い?もしかして妄想?
アイスティーの缶を二つ買ったらしい課長は、一つを私に手渡しながら言った。
「ナマエ、今夜空けとけ」
「……へ?」
「今度こそ家まで送ってやるよ」
そう言って課長は、また私の頬をふわりと撫でる。
そして何事もなかったかのように、すたすたと廊下を戻って行った。
煙草と石鹸の香りが混じった課長の香りだけがそこに残っている。
「…………………………………………っっ!」
顔を真っ赤にした私は、アイスティーの缶を持ったまま思わずしゃがみ込んだ。
勘違いじゃない。キスされた。
虫垂炎の次は、心臓が危ない。
そう思うくらい、私の心臓はこれ以上ないほど高速で脈打った。
とりあえず課長ファンクラブの会員には知られないようにしないといけない。それにこの真っ赤な顔では自席にも戻れない。
私が顔の熱を冷まし部署に戻るには、まだまだ時間がかかりそうだった。
【社畜の恋 Fin.】