二つ目の指輪







王都ミットラスの憲兵団本部。そこから程近い古ぼけたバーのカウンターに、私達三人は並んで腰掛けていた。
エルヴィン、私、ナイル。
私達三人は、訓練兵団で同期だった。



三兵団合同の会議に出席するため、私は団長であるエルヴィンと一緒に、遙々トロスト区から馬車に揺られてやってきたのだった。
会議が終わったのはもう夜に片足を突っ込んだくらいの時刻だったので、トロストに戻らず一泊することになった。そこでナイルを誘い、旧友三人で親睦を深め合おうという話になったのである。
……まあ親睦を深めるなんて言葉は、私達には他人行儀過ぎる。
私達三人は何と言うか……腐れ縁だ。

同期ではあるが、彼ら二人は私よりも二つ年上だ。私達は何故かウマが合い、行動を共にすることが多かった。
同性の友達がいなかったわけではない。でも女の子達がする洋服や化粧の話よりも、エルヴィンがする巨人や壁に対する考察の方が、荒唐無稽ではあるが、楽しかった。私はふんふんと相づちを打ちながら聞き、ナイルは呆れ顔で、それでも聞いていた。

エルヴィンと私が調査兵になり、ナイルが憲兵になった辺りから、私達の関係――特にエルヴィンとナイルの関係――は微妙に変化した。
それでも彼らには特別な繋がりがまだ存在していると、私はそう思っている。



* * *


「はぁ、飲み過ぎたな。ちょっと失礼」

三人での会話を楽しんで30分以上が経過した頃、エルヴィンがウイスキーの入っていたグラスを置いた。氷がからりと鳴る。
席を立つと、店奥へ消えていった。手洗いだろう。
バーのカウンターは、私とナイル二人きりになった。年老いたバーテンダーはいるが、ベテランだけあって心得ている。話しかけてこない。

「……家族は元気?単身赴任も気ままだろうけど、マリーと子供達に会いたくならない?」
「そりゃなるさ、毎週末帰っている。単身赴任は確かに気ままだが、まあ寂しいもんだ」
「そう」

私はウイスキーに口をつけた。

昔三人で飲む時はビールなんかが多かったし、それに私はもっと甘い酒が好みだった。
今は三人揃ってウイスキーを飲むようになった。年月は人の味覚を変える。

「……お前は……家族とか、その……結婚とかはしないのか?」

グラスから口を離し、プハッと吹き出した。ナイルの口から有り得ない言葉が出たからだ。

「止めてよ、私のこといくつだと思っているの?こんな年増をもらってくれる奇特な殿方は、私の周りにはいないわね」

口元を拭きながら言うと、ナイルは微妙な顔をする。

「良いのよ、私は。一人でも楽しく生きてるし、こんな仕事だから家族はいないほうが身軽っちゃ身軽」

グラスの氷がカラカラと涼しげな音を立てた。
強がりでもいじけているわけでもない。本音だ。

「お前……エルヴィンとは、どうなんだ?」
「……はぁ!?」

今度は遠慮会釈のない大声をバーに響かせてしまった。ナイルはさっきから有り得ないことばかり言っている。

「いや……俺は、てっきり……
お前は今でもずっとエルヴィンのことが好きなんだと思っていたが」
「冗談は止めてよ。15年前のこと覚えてる?」

ナイルの動きがピタリと止まり、視線だけ私に寄越す。

「ナイルは忘れたかもしれないけど、私は絶対忘れない」
「……」

ナイルは私に向けていた視線を、ゆっくりとカウンターの上のグラスに戻した。彼のグラスも、もう空に近い。

「……尊敬してるわ、エルヴィンのことは。今までにない功績を立ててきた団長よ。
誇りに思ってるし、勿論好きよ……友人として」
「……そうか」

ナイルはそれ以上、何も言わなかった。



* * *



15年前、エルヴィンとナイルが二十歳と少しだった頃。
彼ら二人は、マリーという酒場の娘に惚れていた。二人ともそれを表明はしないが、一番近くにいた私は察していた。
二人がマリーを取り合うような、決闘やら喧嘩やらをしたわけではない。お互いの気持ちを確認しあったわけでもない。
だが結論としてマリーはナイルを選んだ。それとほぼ同時に、ナイルは憲兵団への入団を決めたのだ。

ナイルとマリーが交際を始めたことを知ったエルヴィンは、笑顔で二人を祝った。
だが実際にはエルヴィンはマリーに失恋をしていることを、私は知っていたわけだ。



私は、彼の部屋を尋ねた。

「ねえ……大丈夫?」

決して、弱っているところにつけ込もうとか、そういう魂胆があったわけではない。ただ、失恋の痛みを知っている者として、放ってはおけなかったのだ。

私だって、失恋しているから。あなたに。

「……お前か……」

ベッドに腰掛け項垂れたエルヴィンは、私の前では落ち込みを隠さなかった。
夕暮れの陽が粗末な窓から入り込み、男子寮の一室は橙に染まっている。

「俺の机の……上から二番目の引き出しに、紺色の箱がある。取ってくれ」

私は言われるがまま、引き出しを開ける。その箱を見て目を見開いた。
ベルベットに包まれた特徴的な立方体。女性ならば、中に何が入っているかすぐにわかるものだ。

「エルヴィン、これ……」

腰掛けたままのエルヴィンに差し出すが、受け取らない。

「いつか渡せたらと思って買ったのが一年前だ……もう使い道がない」

彼が受け取らないので、私が箱の蓋を開けた。
中に収まっていたのは、華奢なシルバーの指輪だった。マリーを想って、少ない給金から遣り繰りして買ったのだろう。

「俺が持っていても仕方のないものだ……良ければ、受け取ってくれないか」



かっと頭に血が上った。



ぱん、と乾いた音。
気づいたら、私はエルヴィンを平手打ちしていた。
指輪は箱ごと、ベッドの上に投げ捨てられた。

「最低」

頬を涙が流れる。

あの時の、目を見開いたエルヴィンの顔が忘れられない。



私はその日、ナイルに泣きつき一部始終を説明し、「ナイルのせいでこんなことになった」と八つ当たりをした。だが私よりも、そしてエルヴィンよりも大人なナイルは、私の八つ当たりを受け止めてくれた。

私は傷口に粗塩をすり込まれたわけだが、エルヴィンは何故友人から平手打ちをされたのか、本当にわからなかったのだろう。
翌朝、食堂で鉢合わせた彼は私を見て、心底どうしたら良いかわからないという顔でもたもたしていた。仕方がないから私は何も無かったことにして、「おはよう、エルヴィン」と彼の隣に腰掛けたのである。
エルヴィンはパッと晴れた顔をし、ナイルは、それはそれは哀れんだ目で私を見たのだった。



* * *



会議の翌朝、私とエルヴィンは馬車に揺られ、トロスト区の兵舎へ戻ってきた。

「じゃあ、報告書は今日中にまとめておくから」
「少し待ってくれ。話がある」

玄関で別れ自室へ戻ろうとした私を、エルヴィンは後ろから引き留めた。彼に促されるまま、団長室へ入る。

「……何?必要なら、リヴァイやミケ、ハンジ達も集めた方が良い?呼んでこようか」

彼を纏う空気がいつもとは違う。内々で大事な話をされるのだと思った私は、幹部の名前を挙げた。

「いや、お前にだけ伝えたいことがある」

エルヴィンは、執務机の引き出しを開けた。
私も彼について机の前まで進む。

彼が引き出しから取り出したのは、忘れもしない、あの箱だった。
紺色のベルベットに包まれた、マリーへの指輪が入っている箱。15年ぶりに見た忌々しいそれに、思わず顔が引きつった。
彼は私の前に立つと、左手の掌の上にその箱を水平に持つ。



「受け取ってくれないか」



私の平手が咄嗟に前に出たが、すんでのところで彼の頬を叩くことは我慢した。団長の頬に女の掌の痕がつくようなことがあっては調査兵団の沽券に関わる。
ただ、私のこの15年――いやその前からエルヴィンのことが好きだったのだからそれ以上――の恋心が再び嘲笑われたかのようで、悔しくて悲しくて、年甲斐もなく目に涙が溜まった。

「……なんなの?どういうつもり?15年前に私にぶたれたこと、あなたは覚えてない?
そんなに要らないなら、勝手に捨てれば良いじゃない。後生大事に15年も持っているくらいなら、ナイルから奪えば良いじゃない!?」

冷静に、冷静に話そうと、懸命に自分を落ち着かせようとしていたが無理だった。
最後の方は、ヒステリックな女の嫌な声が出た。

「違う。勘違いだ。これはあの時の指輪じゃない。……確かに、箱はこんな感じだったかもしれないが」

エルヴィンは興奮している私とは対照的に、落ち着き払った声だ。
そのまま右手でゆっくりと蓋を開ける。

中に収まっていたのは、やはり指輪だった。
ただ、15年前に見たものとは別物だ。あの時と同じく銀色のリングだったが、デザインが違う。控えめな石も埋め込まれていた。

「これは、俺がお前に買ったものだ。……マリーではなく、お前のために」

15年前は私に頬を叩かれたエルヴィンが目を見開いていたが、今度は私が目を見開く番である。

「……何で?」

私の口から出た声は、掠れていた。

「……何で、か。男性が女性に指輪を送る理由なんて、そうあるものじゃないと思うが。察してくれないか?」

エルヴィンは伏し目がちのまま、控え目に苦笑する。

「……エルヴィン、あなたは……常識が通用する人じゃないから、聞いてるのよ……」

現に、15年前は有り得ない理由で私に指輪を送ろうとした男だ。
私の掠れ声にエルヴィンは、はは、乾いたと声を出して笑った。

「……もう、何年も前から机の中にあったんだ。10年くらいか……。ずっと渡せなかった。
団長に就任してからは、もっと渡しづらくなった。
俺もお前もいつ死ぬかわからないし、俺が殺してきた数えきれない命を思えば……俺が幸せになるなんて、有り得ないだろう?お前には生きていて欲しいし、幸せになって欲しいとも思っているが」

私は彼の口から出る言葉を一字一句逃さないように、じっと耳をそばだてていた。

「だが、今回ナイルに言われたんだ。『悔いのないように生きろ』と。
あいつは、俺の気持ちを多分知っていた。
15年前にマリーを想っていたことも……その後、お前を想うようになってからも」

ずっと何も言わずただエルヴィンを見つめるだけの私に、エルヴィンは苦笑する。

「俺に幸せになる権利は無いだろうが、気持ちを伝えずに死んだら悔いそうだったから伝えただけだ。
驚かせてすまない。忘れてくれ」

そう言って、ベルベットの蓋を閉じようとする。

「ま、待って!!」

私はガッとエルヴィンの腕を掴み、蓋を閉じるのを遮った。

「……ほ、欲しい……です。……指輪……」

何と言って良いかわからず絞り出した声は、まるで動物が唸っているかのようだ。

「その前にもう一つ、許可を得なければならないことがある」

エルヴィンは苦々しく笑ったまま、ケースからゆっくりと指輪を引き抜くと、私の右手を取った。

「……こちらの指でも、構わないか」

右手なのだ。左手には嵌めない。

こんな年増に指輪を送っておいて左手では無いなんて、無責任だいい加減だと指差す者もいるのかもしれない。
だが、私はきっとこういうエルヴィンだから好きだし、こういうエルヴィンだから側で少しでも支えたいと思う。

「わかってる。あなたがぐちゃぐちゃ色んなこと考えてて、左手の薬指に指輪を嵌めることができないなんてことくらい。
そんなの、ずーっと前から承知してる」

そう言うと、エルヴィンの顔からようやく不安と余所余所しさが払拭され、碧の瞳は穏やかに微笑んだ。



私の右手薬指に銀の輪が嵌る。
右手を掲げ、上を向いた。顎を上に上げていないと、涙がこぼれそうだったから。



「もう遅いかと思った」

エルヴィンは私の右手を取ると、その立派な体躯の中に私を抱きしめた。嗅ぎ慣れた彼の香りが、フワリと私を包む。
温かくて、懐かしくて、安心して、愛おしい。

「遅すぎるよ。もう15年以上……
待ちくたびれてた」

呟く私を、彼は一層力を入れて抱きしめた。





【二つ目の指輪 fin.】




   

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