番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―後編―
06
私の瞳は決壊し、涙がボロボロと溢れ出た。
涙が止まらず両手で顔を覆う。
ファーランさんと、一緒に生きる。
ファーランさんと支え合って生きる。
そんなことを……そんなことを望んで良いのだろうか。
「……私には、……過ぎた……」
嗚咽と共に絞り出した声はそこで止まってしまった。
「え?」
ファーランさんは、しゃくり上げている私の背中をさすりながらそう聞き返す。
「……私には、私には……分不相応な……幸せです……。
私が、ひっ、そんな……ことを望んで……罰が当たりそう……」
しゃくり上げながらやっとの思いでそう言うと、ファーランさんは私の背中に手を置いたまま、ふはっと噴き出して笑った。
「『分不相応』ってなんですか。望んじゃいけない願いなんて、この世には無いはずですよ。
それに、『俺が』ナマエさんとディアナちゃんと一緒に暮らしたいって言ってるのに」
そう言うとファーランさんは私の背中から手を放す。
背中に感じていた彼の体温が離れただけで、あ、と、ほんの少しだけ寂しさを感じた。
自分がそれに気づいた瞬間、ああ私はもう既に望んでしまっているんじゃないかと思い知った。
大きな胸板が私の眼前を覆った。
彼に抱きしめられたと気づいたのは後からだ。
「俺……多分変わったんです。
前の俺なら絶対こんなこと言わないんですけど……聞いてください」
彼はぎゅっと私を包んでいた身体を離すと、私の両肩に手を置いて、まっすぐな目で私を見つめる。
「ナマエさん、俺と結婚して家族になってください」
私の目からは涙があふれ続け、頬を伝っていくつもの雫を床に落とした。
もう、しゃくり上げる以外の声も出ない。
ひっくひっくとまるで子供のように、私は両手で顔を覆ったまま泣き続けた。
「……こんなこと言うの、おかしいって思いますか?前の俺なら絶対思ってた。
だって俺とナマエさんは、エッチしたこともないし、キスだってしたことないし、なんなら付き合ってすらいないのに、いきなり結婚なんて。
でも俺、今……あなたとディアナちゃんを守りたくて守りたくてしょうがないんだ。
多分それが一番自然にできるのが、俺がナマエさんとディアナちゃんの家族になることなんだ。
俺、在学中に司法試験に合格できるように頑張る。一日も早く弁護士になるから、だから……」
私には、学が無い。
お金も無い。
両親からも愛されない。
一人娘すら守れない、駄目な人間。
そう思っていた。
あなたが、私の足りないところを埋めてくれる?
「俺と一緒に生きてくれますか?」
そう言った彼の声に、私は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
必死に首を振って頷く。
生まれてきて、確かに幸せだと思った瞬間が二回ある。
一回は、ディアナの産声を聞いて、生まれたばかりのディアナが腕の中に来た時。
そしてもう一回は、今だ。
その日、私は初めてディアナと一緒の布団で寝なかった。
ディアナがファーランさんのシングルベッドで深い眠りについている間、私とファーランさんは床に敷かれた布団で、ぴったりとくっついて眠った。
ファーランさんは私の眠りにつくまでの間、ずっと頭を撫で背中をさすってくれた。
男性と同じ布団に入ってセックスしなかったのは、多分これが初めてだ。
私は一晩中ファーランさんの腕の中で、子供のように慈しまれながら眠った。
* * *
ナマエちゃんが渡米してから三年。
今日、一時帰国するナマエちゃんと会うことになっている。
俺のほうから「久しぶりに会いたい」と言った。
それはつまり、俺のほうが会うことができる状態になったという事で、「もうナマエちゃんのことは友達として見れる」という意味だ。
ナマエちゃんが渡米するとき、「友達としてやっていける自信がついたら、お邪魔するよ、アメリカ」と言っていたのだ。アメリカに俺がお邪魔するのではなく、今回はナマエちゃんのほうがこの国に帰ってきてくれたわけだが。
『大事な人ができたから、紹介したいんだ』
電話でそう告げたときのナマエちゃんの声の上擦り方は、思い出すと今でも笑える。
『へっ!?あっ!?えっと、えっ!?やった!?良かったね!?』
最後の「やった、良かったね」が疑問系になっていたのが、彼女の動転っぷりを良く表している。
だが、喜んでいるのは良く伝わった。
俺は、法科大学院を修了してすぐ司法試験に合格した。
今は市街地の法律事務所に雇われ弁護士として勤めている。
父さんの法律事務所で使ってもらうことを考えなかったわけじゃない。というか、以前の俺は寧ろそちらの方をより具体的にイメージしていた。身内の事務所で使ってもらえるなら、それは恐らく他に勤めるより楽だろうと。そう思っていたのだ。
だが、今の俺にはその選択肢はなかった。
必死に勉強して弁護士になった、だがまだ新米も新米。弁護士としては生まれたての赤ん坊と同じである。
今の俺に必要なのは、一刻も早く弁護士として一人前になって確固たる足場を築くことだ。それには、身内の甘えは邪魔になる。
もちろん、将来的に父さんの事務所を継ぐことがあればそれはやぶさかでは無い。だがそれはもっと将来の話だ。
父さんはまだまだ現役で弁護士として辣腕を振るっているし、こんな未熟な俺では父さんが築いた足場を継ぐことはできない。
今俺が勤めている事務所は都会に立地しているだけあって、扱う案件数も多いし多忙だ。だが、この厳しい環境が自分を鍛え上げていてくれているのはよく分かっていた。
ほんの二、三年前だろうか、ナマエちゃんとよく来たチェーンのコーヒーショップに、今日はナマエとディアナと来た。
「ディアナ、何を飲む?お前はまだコーヒー飲めないけど、ジュースは一通りあるぞ」
「じゃあオレンジジュース」
ディアナは小学生になった。
ランドセルは俺が買おうとしたら、父さんと母さんがしゃしゃり出てきた。「孫のランドセルを買うのは老人の夢だ」とのことである。
ナマエは祖父母の申し出を有り難がっていたが、娘に父親の威厳を見せたかった俺は、ほんの少しだけがっかりしていた。だが、年長者には花を持たせるべきである。
たった二、三年前には、ナマエちゃんのことで頭がいっぱいだったはずだ。
ナマエちゃんが欲しくて欲しくて、喉から手が出るほど欲しかった。
いつだって俺を見ていない、俺に抱かれている時でさえあのおにーさんのことしか考えていないナマエちゃんに苛立ち、焦れ、随分傷ついたものだった。
だが、今となってはそれも必然だったのだと思える。
あの時ナマエちゃんと結ばれていれば、今俺の横にはきっとナマエもディアナもいない。
ナマエちゃんの運命の人は俺じゃなくて、俺の運命の人はナマエちゃんじゃなかった。
そして、俺は運命の人を見つけた。
それだけの話だ。
カランカランとドアベルが鳴り、小柄な女の子が入ってきた。
髪と背丈だけですぐにわかる、ナマエちゃんだ。
あの頃、ナマエちゃんだけを思っていた。ナマエちゃんをずっと見ていた。だからナマエちゃんの形は覚えている。
だが、きっとこの記憶も塗り替えられてしまうのだろう。
今俺にはナマエちゃんよりも大切なものができてしまったのだから。それも、二つも。
「ナマエちゃん!」
椅子に座ったまま、片手を上げて声を掛ける。
ナマエちゃんは俺を見つけると、注文もせずに席までまっしぐらに向かってきた。
「ファーランさん、久しぶり……」
走ってきたのか、頬は赤らみうっすらと汗を掻いている。
俺の「大事な人」を見ようと楽しみに来てくれたのだというのはすぐに分かった。だって約束の時間まではまだ5分以上あるのだから。それにちらちらとナマエのほうを見ている。
ナマエはともかく、ディアナについては不思議に思っていることだろう。
まだナマエちゃんには「大事な人ができた」としか言っておらず、詳細を何も教えていないのだ。
驚いてくれ、ナマエちゃん。
俺、今、君に負けないくらい幸せなんだ。
「ナマエちゃん、紹介するね。ナマエと、ディアナ。
俺の、嫁さんと娘!」
えええええーーーーー!?という素っ頓狂な叫び声が、午後のコーヒーショップの中にこだました。
俺は慌ててナマエちゃんの口を押さえ、周囲の客に愛想笑いで詫びたのだった。
【俺と彼女と彼女の話 Fin.】