番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―後編―
05
「……わた、私は」
私の口から出た声はで震えていた。
「私は、私はだめな母親です、娘を幸せにできない。
学もない、お金もない、この世を生き抜く術を知らない……」
涙がどんどんと目尻に溜まっていく。
「私ではディアナを幸せにできない」
「それは違う!逆だ!
ディアナちゃんが、あなたなしでどうやって幸せになれるって言うんですか!?
大好きなお母さんがいなくなったディアナちゃんが、幸せに生きていけるとでも!?」
ファーランさんは怒鳴った。
温厚な彼の怒鳴り声を聞いたのは、今日が初めてだ。こんなに怒った、険しい顔を見たのも初めてだ。
見れば、額には大粒の汗をたくさん光らせている。頬には水滴も流れている。
この暑い中、本気で私を探してくれて、そして本気で怒っているのだ。
なんだか、なんだかこれじゃまるで。
何か口を開けば泣き出してしまいそうで私は黙りこくっていたが、はあ、と息を整えたファーランさんは、怒り顔を引っ込めて穏やかな笑顔になる。
「……帰ろう、ナマエさん」
ファーランさんは私の腕を放さない。目線も放さない。
私の視界はどんどん歪み、ファーランさんの顔は滲んでよく見えなくなった。
「……家も、仕事も、なくなったんです。帰る場所がないんです」
「ある」
彼の声は、私の言葉を遮った。
「ナマエさんの帰る場所は、俺の家だ。
あなたは、俺のところに帰ってくるんです。今日も、明日も、明後日も。その先も、ずっと。
俺のところに帰ってくるんです」
その優しい声に、私の目尻はとうとう涙を溜めておけなくなった。ぼろっと大粒の水が頬を伝ったのが自分で分かる。
涙がこぼれたその瞬間、瞳に溜まっていた水が無くなったことで滲んでいた視界が一瞬だけ元に戻り、その時ファーランさんの顔が見えた。
――笑顔を向けないで。
そんな優しい顔をしないで。
捨てたはずの生への執着が、また頭を擡げてきてしまうじゃない。
「ディアナちゃんも待ってます。
今日は、ナマエさんが飯作ってくださいよ。俺、ナマエさんのご飯が食べたい。今日は三人で夕食食べましょう」
ね?とファーランさんが私の顔を覗き込む。
涙でぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて、私は顔を背けた。
だが、ぐいと左手で顎を掴まれむりやり目線を合わせられる。
「カレー。カレーが良いな。俺、カレーが食べたいです」
目をがっちりと合わせてそんなことを言うのだ。
「〜〜っ、うあっ、ああああ……っ」
耐えきれなくなった。
私の口からは、嗚咽とも悲鳴とも取れない、よくわからない獣のような声が出た。
涙と鼻水で顔中めちゃくちゃだ。こんな汚い泣き顔と泣き声、恥ずかしすぎる。
だがファーランさんは、ふはっと破顔するとぎゅっと私を抱きしめた。
身長があまり高くない私は、背の高い彼にすっぽりと埋まってしまう。
彼のTシャツに涙と鼻水がついてしまうと思ったが、彼は私を胸の中に抱きすくめたまま放さない。
「これからディアナちゃん迎えに行って、その後スーパー寄ってから帰りましょう。
夕食まで時間はたっぷりあるから、じっくり煮込めますね」
彼の胸の中で、私は泣き続けた。
彼はそんな私の泣き声はまるで意に介していないように、カレーはチキンカレーにしましょうだとか、まだ時間があるからディアナちゃんも連れて公園で遊びましょうかとか、そんな事を言っていた。
私の獣のような泣き声がやっと収まってきた。ふと、ファーランさんからほんのりと汗の匂いがすることに気づく。
暑い中走って探してくれたのだと、そう思い至れば嬉しくて愛しくて、私の手は自然と彼の背中に回った。
彼は私の腕に驚いたようだったが、拒否はしなかった。
私を抱きすくめたまま、右手で私の後頭部をゆっくりと何度も何度も撫でた。
* * *
チャーチ法律事務所へディアナを迎えに行くと、ディアナは大泣きして抱きついてきた。
ディアナは聞き分けが良く滅多に泣かない子だった。
そのディアナが、火がついたように泣いているのを見て、私は正気に戻った。
一体私は何をしていたんだろう。何を考えていたのだろう。
極めつけは、ファーランさんのお母様だった。
温厚そのものに見えていた彼のお母様だが、お母様はディアナにしがみつかれている私を見るなり――
パアンッ!!
鋭い音が部屋の中に響いた。
ファーランさんのお母様が、右手で私の頬を平手打ちしたのだ。
「あなた、自分が何をしたかわかっているわね?」
硬い声だった。
ファーランさんのお母様の怒りは尤もで、至極真っ当だった。
そしてこの怒りは、この方が愛情深いことの何よりの証だ。きっと、私の実母なら同じような状況になってもこんな風には怒ってくれない。
泣きじゃくるディアナを見て、自分が何をしたかは思い知った。
私はファーランさんのお母様の質問に、こくりと頷く。
「……はい……申し訳ありませんでし、」
言い切る前に、抱きしめられた。
ファーランさんのお母様に、だ。
私の腰の下あたりにしがみついていたディアナは、ファーランさんのお母様が自分よりも遙か上の方で私を抱きしめたことに驚き、泣き止んだ。
「……良かった、無事で……本当に……」
私を抱きしめるファーランさんのお母様の声は、震えている。
実母にも、こんな風に抱きしめられた覚えがないのに。
私の涙腺は再び緩んだ。
止まっていたはずの涙がまたあふれ出して頬を伝う。
その様子を、ファーランさんとファーランさんのお父様は少し離れたところから黙って見ていたのだった。
* * *
私とディアナは、ファーランさんのアパートへ「帰った」。
……本当に「帰った」という言葉を用いて良いのかどうかは、よくわからない。少なくともここは私とディアナの家ではないし、住民票はあの追い出されたデリヘルと提携しているアパートで登録してある。
だが、ファーランさんは「おかえり」と言ってくれて、ディアナは「ただいま」と言った。
私は何も言えずに、ただ黙って上がり込んだ。
台所を借りて、カレーを作る。サラダもだ。
ディアナはその間ずっとはしゃいでいて、「お手伝いするー!」と大騒ぎしながら台所をちょこまかと走り回っていた。
危ないよと諫める私の声を全然聞かないディアナを、ファーランさんが肩車をする。そうして二人は、台所の少し後方からカレーが出来るまでずっと、おしゃべりしながら鍋の様子を眺めていた。
久しぶりに三人で囲んだ食卓は、温かくて美味しかった。
こんなにはしゃいだ、こんな笑顔のディアナを久しぶりに見た。
昼間、死のうとしていたことを思わず忘れてしまうくらい、楽しい食卓だった。
以前この家に住まわせてもらっていたときと同じように、私とディアナはお風呂をいただき、21時を回る前にディアナは眠りについた。
同じように、ファーランさんのシングルベッドを借りて。
「ナマエさん、少し話しませんか」
ディアナが寝付いた後、ファーランさんはこれもまた以前と同じように、コーヒーの入ったマグカップを私に手渡しながらそう言った。
話さなければならないだろう。こんなに迷惑を掛けたのだから。
好きな人に迷惑なんて掛けたくないのに、私が駄目なばっかりに、彼の手を煩わせてばかりいる。
私たちは薄暗い部屋の中、ローテーブルにマグカップを二つ並べて隣り合って座った。
ファーランさんはまだ学生なのだ。
勉強もしたいだろうし、好きなテレビ番組も見たいだろう。部屋の中で音楽だって聴きたいかもしれない。
なのに、ディアナが寝ているから部屋はベッドサイドランプのみで、テレビもつけないでいてくれる。
「……今日は、本当にごめんなさい。ご迷惑をお掛けして。
家と仕事……ちゃんと見つけますから。あの、明日にでも出て行きますから」
「待って待って待って、明日にでも出て行かなくて良いから」
ファーランさんは、口にしていたコーヒーを咽せながら飲み込むと、慌てた様子でマグカップをローテーブルに置いた。
「迷惑なんて、一つも思ってないです。
俺は今日、ナマエさんの飯をディアナちゃんとナマエさんと一緒に食べられて、すごく美味しかったし嬉しかった」
彼の手が、マグカップから離れた。
膝の上に乗っていた私の手に、そっと彼の手が触れる。
「俺は、明日も明後日も、その先もずっと……
ナマエさんとディアナちゃんと一緒にいたいと思っているんだけど、それは駄目かな」
「だ、だ……め、です」
「どうして?」
「ファーランさんは……ファーランさんには未来があります」
「は?」
私の言っていることが的を射なかったのか、ファーランさんはきょとんと目を丸くする。
上手く説明できる気はしなかったが、私は一生懸命言葉を選んで、なるべく自分の気持ちそのままに説明をした。
「ファーランさんは、前途ある学生です。これから弁護士になる人です。
それに愛情深いご家族に囲まれて、ファーランさん自身もとても……とても情に厚くて愛情深い方です。ファーランさんの将来は明るいです、とっても。
私なんかと関わって、ご迷惑をかけるようなことをしたくないし……私では、ファーランさんに釣り合わない」
「釣り合わない?釣り合わないって、どういうこと」
「私は……学もないし、お金もない。親にすら愛されなかった人間です。
私とファーランさんじゃ、住む世界が違いすぎます」
「……」
彼は言葉を発さない。私は言葉を選びながら話し続けた。
「私は本当に駄目で……自分一人を食べさせることも満足にできなくて、学校も碌に出ていないから、働こうとすれば風俗業くらいしか雇ってくれません。
……なんとか、ディアナにきちんと食べさせて、ディアナに人並みの生活を送らせてあげたいのに。
親なのにそれすらもできない、私は駄目な人間です」
「駄目なんかじゃない」
ファーランさんの鋭い声が私の言葉を遮った。
膝の上に置いていた私の手を包む彼の手に、ぐっと力が入る。
「駄目なんかじゃ無いです。それは、一人で生きようとするからだ。
人間はみんな、一人でなんて生きられっこない。
ナマエさんだけじゃない、みんな一緒だ」
ファーランさんはじっと私を見据える。
私も彼の真剣な眼差しから、目が離せなくなった。
ふう、と、湿った吐息が彼の唇から漏れる。
「――今から、ぶっ飛んだこと言いますよ。
引かないでくださいね」
彼の口からその言葉が出た瞬間、彼の瞳が不安と緊張の色を映したのがわかった。
私は、彼の言葉を待った。
「ナマエさん、俺がナマエさんとディアナちゃんと一緒に生きます。
一緒に生きたいんです。
俺と助けあって、三人で生きてくれませんか?」
私の喉からは何の音も発されなかった。
驚きすぎて声が出ないのだ。
「俺は……ナマエさんよりも三歳も年上なのに、未だに親の臑を囓っている甘ちゃんの大学院生です。でも、ナマエさんの知らないことを多分知っている。
ナマエさんは俺よりも3つも年下なのに、もう既に人の親だ。ナマエさんは自分に学が無いって言うけれど、あなたも俺の知らないことを多分知っている。
俺は……俺たち二人で、自分に足りないものを互いに埋め合って生きていきたい」
私の手を包んでいるファーランさんの手が、汗でしっとりと湿っているのに気がついた。