番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―後編―
04
* * *
「お母さんがいない」
そうディアナちゃんが泣きながらチャーチ法律事務所に電話してきたのは、病院の帰りにナマエさんと別れて、翌々日の午前中のことだった。
母さんから連絡を受けて、俺は実家に駆けつけた。
平日だったが、たまたま高校の創立記念日で休みのため家にいた妹のイザベラが、電話の発信元へディアナちゃんを迎えに行った。
電話の発信元、つまりディアナちゃんが電話を借りたのは、児童養護施設だった。
母さんは機転を利かせ仕事で外へ出ていた父さんをすぐに呼び戻した。俺が実家に到着した時には、父さんは既に事務所へ戻ってきていた。
「ディアナちゃん!!」
俺がバンと自宅のリビングのドアを開けると、そこには一緒にドーナツを食べていたディアナちゃんと妹のイザベラの姿があった。
「ファーラン」
イザベラがドーナツを頬張りながら俺を見る。
イザベラは俺と7つも歳が離れている。
学校の成績はあまり良くない。兄の事も呼び捨てにするほど口が悪く男勝りだ。
だが、情に厚い奴なのだ。こいつが家にいて本当に良かった。
「……ふぁ……」
ディアナちゃんは俺の姿を見ると、ドーナツを放りだして駆け寄って俺に抱きついた。
恐らくファーランさんと言おうとしたのだろう。だがディアナちゃんの目には涙がみるみる浮かび、最後まで俺の名前を言い切ることは出来なかった。
ディアナちゃんはうわああんと大声を上げて、俺にしがみついて泣きじゃくる。聞き分けの良いディアナちゃんが、こんなに大泣きするのを見たのは初めてだ。
俺は腰を落として、ディアナちゃんを抱きしめ頭を撫で続けた。
「その子、今まで泣くのずっと我慢してたんだぜ。ファーランが来るの待ってたんだ」
イザベラはドーナツを飲み込むと、後頭部で両手を組んだ。
電話を受けた母さん、ディアナちゃんを迎えに行ったイザベラ、そして俺より一足先に家に戻ってきていた父さんから話を聞いて、事態を把握した。
今朝ディアナちゃんが目覚めたら、そこはナマエさんとディアナちゃんが住んでいたアパートではなかった。
ディアナちゃんがいたのは、児童養護施設の一室だった。もっとも、目覚めたばかりのディアナちゃんがそれを把握する術はなかったのだが。
施設の職員は、朝方4時半頃に突如鳴ったインターホンの音で目覚めたそうだ。
不審に思って玄関のドアを開けると、毛布にくるまれたディアナちゃんが玄関の前に横たわっていた、ということらしい。
ディアナちゃんは目覚めると、事態を把握した。
お母さんがいないこと。
自分はどこか知らない場所へ連れてこられたこと。
ディアナちゃんは賢かった。
お母さんの携帯電話に掛けてもきっとそれは無駄だと幼い頭で理解していたのだろう、施設の人間には「チャーチほうりつじむしょへでんわしてください」と伝えたらしい。
児童養護施設からの電話を受けた母親が事態を察知し、すぐに父親と俺に電話を寄越したというわけだ。
「ファーランさん、お母さんを助けて」
涙と鼻水をだらだらと流しながら、ディアナちゃんは俺に訴えた。
ディアナちゃんは、どこまで理解しているか分からないが、恐らく本能で察知している。
お母さんが危ないことを。
あんなにディアナちゃんを愛しているナマエさんが、ディアナちゃんを施設の前に置き去りにする訳がないのだ。ただ一つの可能性を除いて。
ただ一つの可能性、それは、ディアナちゃんは自分の元では幸せになれないと判断した可能性だ。
そしてナマエさんがそう判断を下したとしたら、次に取る行動は一つしか思い浮かばない。ディアナちゃんと離れて暮らすなんて、ナマエさんにはできる訳がないのだから。
俺はざっと全身から血の気が引いた。
思わず父さんを見る。父さんの顔も険しかった。俺たちが考えていることは一緒だ。
「母さん、イザベラ、ディアナちゃんを見ていてくれ」
俺は今開けたばかりの玄関のドアを再び開けて、飛び出した。
* * *
夜が明ける直前に、ディアナを児童養護施設の玄関にそっと置いてきた。
ぐっすり眠っているディアナは、毛布にくるんだままそっとドアの前に置いても、身じろぎをほんの少ししただけで、眠りから目覚めることはなかった。
そのままインターホンを何回も押す。誰かが気づいてくれるように。
インターホンを5回ほど押したところで、がたがたと施設の中から物音がした。廊下だろうか、玄関だろうか、電気のスイッチがパチリとつく音もした。
その音を確認すると私はすぐに駆けだした。
施設の門をくぐり、大通りまで走る。
後ろは振り返らなかった。
振り返って、誰かがディアナを抱き上げるところを見たら、きっと私の決意は鈍ってしまう。施設に戻ってしまう。
ごめんなさいディアナは私の娘なんです、やっぱり二人で生きさせて、と縋ってしまう。
私は住処を失った。仕事を失った。
貯金はない。頼れる親族もいない。
自分が橋の下でホームレスをするのは一向に構わない。自分が食べられないのは一向に構わない。
そんなもの、全然問題ない。
だが、ディアナを住処のないホームレスにはさせられない。
ディアナにはお腹いっぱい食べさせてあげたい。心ゆくまで教育を受けて欲しい。
本気でそう願っているのに、今の私にはそれができないのだ。
私の元にディアナを置いていては、ディアナを不幸にしてしまう。
ディアナだけは、幸せにしなくてはいけない。何が何でも。
そう思ったのだ。
少なくとも、養護施設にいれば雨ざらしになることはないし、三食食べさせてもらえるだろう。
義務教育はもちろん受けさせてもらえるだろうし、ランドセルなんかの高価な学童用品もきっと用意してもらえるはずだ。
これでディアナは幸せになれる。
走り出したものの、私には行く当てがなかった。
気づけば、いつかディアナと一緒に潜った橋の下へ来ていた。
ここで、ファーランさんに助けてもらったのだ。
ホームレスなんて見て見ぬ振りをする人がほとんどだ。
我が家に見知らぬ人を上げるわけにはいかないし、声を掛けたところで助けてあげられはしない。だからそれが当然だ。
だが、あの人は私たちに声を掛けた。
……お人好しで、優しすぎるのだろう、あの人は。
病院に来た時の、彼の顔を思い出す。
似合わないセーラー服を着た私を見て、顔が歪んでいた。
私が何をしているのかを知って引いたのだろう。
「……ああ……」
思わず、そんなため息のような声が出た。
ゆっくりと立ち上がり、階段を上って橋の上に上がる。
大きな橋は幹線道路でもあり、まだ日の高いこの時間車が激しく行き来する。
しかしこの幹線道路は、車道は立派だが歩道はほんの少しの幅しかとられておらず、歩行者や自転車はほとんどいなかった。大型トラックなんかもよく往来するのにこの幅の狭い歩道では少し危ないのだ。
歩行者や自転車の往来がほとんどないのは、好都合だった。
私が橋の上から川を見下ろしていても、高速で過ぎ去っていく車は気づかないか、気づいても私の様子をじっくり見ることはない。
ここから飛び降りたら、死ねるのだろうか。
川底かどこかにぶつかって即死できればきっと楽だ。
高いところから飛び降りるときは、地面にぶつかる前に落ちている途中で意識を失ってそのまま死ねると聞いたこともあるが本当だろうか。それならもっと楽だ。
死ねなかったら……まあ、びしょ濡れになるだけだ。
その時は他の方法を考えよう。
不思議と心は穏やかだった。
ディアナ、幸せになってね。
ファーランさん、助けてくれたのにごめんなさい。
「……最後にもう一度、三人で一緒にご飯を食べたかったな」
ぽつりと呟き、私は欄干の外に出ようと足を上げよじ登ろうとした。
瞬間、私の腕はぐっと強く掴まれる。
「最後!?最後なんて……言うなよっ!!」
ぜえ、ぜえという整わない呼吸と共に怒鳴ったのは、ファーランさんだった。
彼の右腕は私の右腕をぎっちりと掴んで離さない。
あまりに強く掴まれて、欄干に置いていた私の右手は浮いた。
「……」
私は、声が出なかった。
代わりに涙がじわりと出てきた。
何で。何で今、ここに来るの。
死のうとしたところに来るの。
どうして助けるの。
あなたの顔を見たら、死にたくなくなっちゃうじゃない。