番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―後編―
03
* * *
梅雨が明け、季節はすっかり夏になっていた。
深夜でも肌寒くはないが、安っぽいセーラー服のミニスカートから出ているナマエさんの脚は細すぎて、なんだか寒々しい。
日付も変わった深夜、車通りは少なかった。
幹線道路だが、この時間は流石に時々車が通る以外はシンとしている。
俺は自転車を引いて、ゆっくり歩くナマエさんの半歩後ろをついて行った。
真横に並ぶことが、なんだかできなかった。
ずっと黙っていたナマエさんが口を開いた。顔は上げず、地面を見たまま。
歩みは止めずに、セーラー服と同じく安っぽいローファーは歩道を進み続けた。
「……ごめんなさい、深夜に迷惑掛けちゃいました……お父様にも」
「いや、迷惑だなんて思ってない」
ナマエさんの声に被せるようにして俺は言った。
急いた声色だと自分でも思った。
俺は、何を焦っているんだろう。
「……」
また黙り込んでしまったナマエさんは、俯いたまま歩き続ける。
「ディアナちゃんは、今どこに?」
「……保育園です。店と提携している保育園だから……24時間保育していて深夜も対応しているんです。
これから迎えに行かないと……今日はもうお客が入ることは無いでしょうから」
ナマエさんの声色は、自虐的だった。
俺は堪らず自転車を引いたままナマエさんに駆け寄った。自転車越しに手を伸ばし、ぐっとナマエさんの左腕を掴む。
急に掴まれたナマエさんはびっくりしたのか、足を止めこちらを振り返った。
やっと、顔が見られた。
だがその表情は、俺が望んでいたものからはかけ離れていた。
「……飲食店って、言わなかったっけ?」
「……」
俺の口から出たのは、本当に無意味な質問だった。
2ヶ月も前についた嘘を今咎めても何の意味も無い。そんなことは分かっている。
ナマエさんも質問に答えない。答えたって無駄だと思っているのか、それとも。
「何で……何で言ってくれなかった?正直に相談してくれなかった?」
ナマエさんを掴む腕に力が入る。
ナマエさんの目には、みるみる涙が溜まっていった。
それは初めて見るナマエさんの涙だった。
今まで見たことがなかった。
ディアナちゃんの前ではもちろん、俺の前でも泣いたことなんてなかった。
「……知られたく……」
ナマエさんの口から出た掠れた声は小さすぎて、聞き取りづらかった俺は、え?と間抜けにも聞き返してしまったのだ。
「……ファーランさんには、知られたくなかった……っ!」
ナマエさんは声を荒げ、その瞬間、彼女の目尻に溜まっていた涙がぼろりとこぼれ落ち、頬に線を引く。
ナマエさんは俺の手を振りほどくと、走り出した。
追いかけなければ。こんな夜道は危ないし、あの格好では尚更だ。自転車ならすぐに追いつける。
そう思っているのに、俺の脚は地面にへばりついて動かない。
セーラー服姿のナマエさんはみるみるうちに小さくなって、俺の視界から消えてしまった。
* * *
「飲食店」というのが、嘘だった訳では無い。
最初は確かに飲食店だったのだ。所謂、キャバクラだった。
自身が引っ込み思案で、初対面の男性と楽しくお話しできるようなスキルがないのは分かっていた。
だが、条件が良すぎたのだ。
提携の保育所は24時間運営、店の従業員の子供であればすぐに入園可。提携アパートに住み込み可。敷金礼金なし、保証人不要。家賃は給料から自動的に天引き。
夜の仕事だから、昼間の仕事に比べれば時給も格段に良かったし、今の私にしてみれば、こんなに条件の良い仕事はないと思った。
頑張って接客をしようとしたのだ。
ただ私にはやはり、男性と上手にお話できるスキルが足りなかったようだ。働き始めて三日で店長には見限られた。
「んー、ナマエさんにはこのお仕事向かないかもしれないね」
店長に呼び出されてそう言われ、顔からさーっと血の気が引いた。
「そ、そんな……すみません、頑張りますから、もう少し働かせてください!
私、子供を食べさせていかなければならないんです!!」
思わず、店長にしがみつく。
やっとの思いで手に入れた住処と働き口なのだ。
ディアナをきちんと食べさせて、教育を受けさせなければならない。私は自立しなければならない。
そして、いつか自立できた暁には、会ってきちんとお礼を言いたい人がいる。私とディアナの命の恩人。
お礼をきちんと伝えて――
叶うならば、自立した私と、ディアナと、あなたと、また三人で食事がしたい。
温かい食卓を囲みたい。
あなたが美味しいと言ってくれた料理を、片っ端から作りたい。
「んー……でもね?うちも左団扇ってわけじゃないから、使えないキャバ嬢を雇ってはいられないんだよねえ?」
店長の冷徹な声に、肝が冷える。
どうしよう、ここを追い出されたらまた……住処がなくなる。
働き口も探し直しだ。
「そしたらさ、ナマエさん。この店じゃなくて系列店に移動するのはどう?
勤務内容はちょっと変わるけど、おしゃべりがあんまり得意じゃ無いナマエさんには寧ろ向いているかもしれないし、高収入は間違いないよ?
系列店だから、住居と保育園は今のままで構わないし」
「は、はい……!ありがとうございます!」
店長の提案に二つ返事で頷いた私は、やはり世間の常識を何も知らなかったのだろう。
浅はかだった。
それにもしかしたら、これは最初から仕組まれていたのかもしれない。いくらなんでも三日で見限るというのは、少し早すぎやしないだろうか。
そんなことに後から気がついてももう遅い。
どっちにしろ、この状態に陥った時点で私に選択肢は無かった。
系列店というのはキャバクラでは無かった。所謂デリヘルという、出張型の風俗業だ。
気づいたときにはもう遅かった。
後戻りできないところまできていた。
客に触られ、客に舐められ、客を触り、客を舐めた。
挿入は無いというのが、唯一の拠り所だった。
職業に貴賎はない。
そんなことはわかっているし、デリヘル嬢という職業を蔑む気持ちは全くない。
だが自分がやるには辛すぎる仕事だった。
愛していない男に触られるというのは、私にとっては拷問に等しかった。
いつか、いつか自立する。
ディアナをきちんと育てる。
お金が貯まったらこんな仕事は辞めて、狭くてもいい、普通のアパートに引っ越そう。
真っ当な仕事に……ファーランさんに堂々と言える仕事に就こう。
そう思って、私は客のペニスをしゃぶり続けたのだ。
デリヘル嬢として働き始めてから知った知識だが、ファーランさんのお父様が言っていた通り、この国では売春防止法という法律がある。
金銭の授受を前提とした性行為、つまり挿入行為は違法である。
挿入以外だと「性行為」とは見なされないということで、例えばキス、ペッティング、オーラルセックスとか、そういうものがデリヘル嬢の仕事だった。
所謂本番行為、挿入をしたいのであれば、一般的にはソープランドへ行くのが普通だ。
ソープ嬢は個人事業主である。建前としては客の入浴介助を行っており、その中で恋愛感情が互いに発生した上での性行為だと……つまりそういうことにされているらしい。
かなり苦しい建前だと思うが、これがまかり通っているのだから法律というのは不可思議な物である。
そんなことは知らずにデリヘル嬢として働き始めたわけだが、契約書には一応「挿入行為は禁止」の文字があり、それが契約書への署名を後押しした一因でもある。
もちろん私はもう処女じゃないし、4歳の子供だっている。今更かまととぶるつもりなんて毛頭無い。
だが、好きじゃない相手の性器が自分に侵入するというのは私にはやはり耐えられなかった。
挿入がないだけで、今私がやっていることはそんなに変わらないというのは百も承知しているのだが。
* * *
客に怪我をさせ騒ぎを起こしてしまった私は、クビになった。
当然といえば当然、である。あの客は店にとってかなりロイヤリティの高いヘビーユーザーだった。
「……そういうわけだから、もう出勤しなくて良いから。客とトラブル起こす子なんてうちでは扱いきれないし。
ったく、子供もいるんだろ?挿入れるのがなんだってんだよ……」
「……」
病院から戻った翌朝、責任者がアパートにやってきて玄関口で解雇を告げられた。
私は黙るしかなかった。
「ま、すぐに保育園に子供引き取りにいって。あの保育園はうちの会社と提携している保育園だから、うちを辞めたら入園資格ないから。
あとここ、このアパートも。今日はまあ良いけど、明日には出て行ってよ。このアパートだってうちの寮なんだから」
「……えっ、こま……困ります……。そんな、急に追い出されても住むところが……」
「従業員でもない人間をうちの寮に置いておくほど儲かってないんだよ、うちは」
責任者はそう吐き捨てると、チッと舌打ちをしてバタンと玄関のドアを乱暴に閉めると去って行った。
私は、一人粗末なアパートの玄関先でへなへなとへたり込んだ。
住処を無くした。
働き口を無くした。
保育園を無くした。
全て振り出しに戻った。
大丈夫、頑張ろう。ディアナがいるんだから、私が音を上げちゃダメだ。
住むところは今日にでも探しに行こう。今からディアナを保育園に迎えに行って、その足で不動産屋を回ろう。
ああそれより先に職探しだろうか、とにかく早く仕事を――
そう思い、立ち上がろうとした。
だが、できなかった。
膝に力が入らない。
職の無い私を入居させてくれるアパートがどこにある?貯金だって、何もない。
まだ働き始めてやっと2ヶ月といったところだったのだ。給料は生活費と保証会社への返済でほぼ全額消えた。
それでも、やっとディアナにおなかいっぱいご飯を食べさせられ始めたところだったのに。
また、あの橋の下へ?
それとも……?
頭に思い浮かんだのは、優しい優しい彼の顔だった。
私とディアナを助けてくれた、お人好しの彼の顔だった。
だめだ。ファーランさんには頼れない。これ以上彼に迷惑をかけたくない。
それに……デリヘル嬢として働いていた事がバレた以上、私はもう彼には会えない。
ファーランさんにはどうしても知られたくなかった。
好きな男性に、デリヘル嬢として働いていると知られるなんて……でもそれもしかたがなかったのかもしれない。
私とファーランさんでは、多分住んでいる世界が違う。
私には学が無さ過ぎた。お金も無さ過ぎた。親の愛も知らなすぎた。
全てを持っているファーランさんには、私はふさわしくないだろう。
ほんのりと心に灯っていた恋心の火が、吹き消された瞬間だった。
私は薄暗い玄関に一人座り込み続けていた。