番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―後編―
01
それから、俺とナマエさんとディアナちゃんの同居生活が始まった。
「同棲」ではない、「同居」だ。そこははっきり線を引いておく。
俺は、ナマエさんに当面の生活費を渡した。
ナマエさんは恐縮しきりだったが、生活が立て直ったら返してもらうという約束で俺は現金を押しつけた。
その代わり、というのも変かもしれないが、ナマエさんは家事の一切を引き受けてくれた。
掃除、洗濯、食事作り。
すごく散らかっていたというわけではないが、それなりに埃をかぶっていた俺の部屋は清潔で明るくなった。
コンビニ弁当ばかりだった俺の食事は、栄養バランスの整った温かい手作りの食事へと変化した。
ナマエさんは毎日職を探しに行った。住み込みで働ける職だ。
ディアナちゃんを連れて回ることも多かったが、俺も学校の授業が無いときにはディアナちゃんを預かったりもした。
ディアナちゃんは賢く聞き分けの良い子だったから職業安定所で騒ぐようなことはなかっただろうが、それでも子連れで面接に行くことはできない。俺が預かれないときは、母さんに連絡して実家で預かってもらうこともあった。
職が見つからなければ、先に進めない。ナマエさんはディアナちゃんのために必死だった。しかし、なかなか仕事は見つからない。
……それはまあ、想定の範囲内だ。
子持ちの女性が働くというのはそれだけで大変だし、更に言えばディアナちゃんの保育園も見つかっていない。内定を出して、だが保育園が見つかるまで就業は待ってくれるなんて、そんな親切な職場はそうそうない。
父さんにも、三日にあげず連絡していた。
だが、父さんのほうでも住み込みの就職先はなかなか見つからなかった。
家賃の保証会社との折衝は、父さんが上手く取りはからってくれたおかげで上手くことが進んだ。
とりあえず分納でかまわない、少額でも払える額で構わないから毎月滞りなく返済すればそれで良いと、父さんは保証会社からそこまでの言質を取ってきた。
だが、それだってナマエさんの就職先が決まらなければ返済もできないのだ。
* * *
ナマエさんとディアナちゃんが俺の家に住むようになって、3週間が経過した。
未だ就職先の決まらないナマエさんは、ディアナちゃんが寝た後に、俺に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません……まだ、仕事見つからなくて……。
ファーランさんや、お父様に申し訳なくて申し訳なくて……」
「いやいや、俺は全然大丈夫ですから!焦らないでください。
いつまででもいてもらって構わないんですから、ゆっくり探してください。焦ってもいいことないですよ」
俺は二杯のコーヒーを入れて、カップを一つナマエさんに渡しながら言った。
ナマエさんは恐縮してそのカップを受け取り、ローテーブルの上に置くと両手で包む。視線は申し訳なさそうに下を向いたままだ。
実際、いつまででもいてもらって構わないと、本当にそう思っている。
毎食温かい食事を作ってもらって感謝しているし、洗濯も掃除も任せてしまって、俺はとにかく楽で快適な暮らしをさせてもらっている。
「もしファーランさんがお気になさらなければ」というナマエさんの申し出に甘えて、最近では下着も洗ってもらってしまっている始末だ。
一人の時は風呂掃除が面倒くさくて毎日シャワーばかりだったが、今ではぴかぴかの湯船に毎日浸かっている。
――いや、これがナマエさんにいてもらって構わない理由の全てじゃ、ない。
ナマエさんとディアナちゃんと囲む食卓は楽しい。
遅くまでバイトをして帰ってきた時の、ナマエさんの「お帰りなさい」という声にほっとする。
ナマエさんの、ディアナちゃんを見つめる優しい顔とか、夜中に目が覚めたときに偶然見てしまった無防備な寝顔とか……そんな顔を、毎日見ていたいと思うのだ。
そう思っている自分に気づいている。
「良いんです、ずっといてもらっても。俺一生懸命バイトするし、貯金もあるから当面三人で慎ましく暮らす分には困らないはずです。
すぐに……とは流石に約束できないけど、司法試験もなるべく早く合格するようにします。
俺が弁護士としてしっかり働けば、三人食べて行くにも困らないはずだし、ディアナちゃんだって高校にも大学にも不自由なく行かせてあげられるはずです。
だから……ずっと一緒に暮らしませんか?」
そんなことは、もちろん言えない。
こんな、プロポーズのような言葉を軽率に言えるほどの馬鹿では、流石にない。
「……必ず、仕事探しますから。もう少しだけ、置いてください……」
ナマエさんは更に俯き、長い髪がだらりと垂れその顔を隠してしまった。
ああ、顔が見えなくなってしまった。ナマエさんの顔が。
いつまででも見ていたいくらいなのに。
「良いんです、全然!俺、寧ろナマエさんがいてくれて助かってるくらいなんですから!
本当に、焦らなくて大丈夫ですから」
今の俺には、その言葉が精一杯だ。
ナマエさんは俺の言葉には返事をせず、下を向いたままだった。
静かな部屋に、ディアナちゃんの寝息だけが響いていた。
ナマエさんが仕事を見つけてきたのは、その三日後だった。
「……え?マジですか?」
「はい、なんとか!」
ディアナちゃんと自宅で遊んでいた俺は、面接から帰ってきたナマエさんの合格の報告を受けて、惚けた声を出してしまった。
とうとう見つかってしまったのか。
――見つかって「しまった」ってなんだ。
見つかって良かったじゃないか。当初の目的を忘れるな。
「ママ、お仕事見つかったの?」
「そうなの、ディアナ!ママお仕事見つかったの」
ナマエさんは駆け寄ってきたディアナちゃんを抱き上げ、頬ずりする。
ああ、この暮らしも終わるんだな。
――自分がどう感じたのかは、わかっている。
だが俺は、その感情には蓋をした。
ディアナちゃんが寝た後に、詳しくナマエさんから話を聞いた。
「えっと……飲食店なんです。住み込み可で……」
「飲食店か……ってことは、賄いとかも出るのかな。ナマエさん、少しでも楽できると良いですね」
ナマエさんは曖昧に笑った。賄いは出ないのかもしれない。
「次は、ディアナちゃんの保育園ですね。仕事決まったっていうなら、入園条件に加点されるはずです。求職中よりだいぶ入園しやすくなるはず……」
「あ、保育園は……」
ナマエさんが珍しく口を挟む。
「あの、勤め先と提携している保育園があって。認可外なんですけど、そこに入れてもらえるみたいなんです」
「え?社内託児所みたいな?」
「……いえ……そういう訳じゃ無いんですけど……」
ナマエさんは歯切れが悪い。
もしかしたら、ナマエさん自身も詳細はまだよく分かっていないのかもしれない。
ナマエさんは地頭は悪くないようだが、きちんと教育を受けてこなかったためか、一般常識に疎いところがあった。
「とにかく、これで職場と保育園が揃ったって事か」
「はい。ファーランさんのお父様お母様にもご報告と、お礼に伺わないと」
ナマエさんは、笑顔をこぼした。
俺も笑顔で返した。
笑顔は、上手く作れていたと思う。
この生活は間もなく終わる。
そう宣告を受けた俺の胸は、確かに疼いていた。
* * *
ほどなくして、ナマエさんとディアナちゃんは俺のアパートを出て行った。
良かった、のだ。これで。
彼女が自立をする。結構なことだ。
父親に聞けば、保証会社との折衝も無事終わり、ナマエさんは少額ずつではあるが毎月保証会社に決まった額を返済していくことで決着がついたらしい。
俺の家を出てもうすぐ二ヶ月になるが、この二ヶ月は滞りなく保証会社に返済をしているとのことだ。
ナマエさんとディアナちゃんの自立への道は順調な滑り出しなのだろう。
一つ面白くなかったのは、俺の家を出て行った途端にナマエさんとディアナちゃんと疎遠になったことだ。
ナマエさんとはなかなか連絡がつかなくなった。
俺の父親の仕事は、彼女が仕事と保育園を見つけて、また保証会社との折衝も終わったことで、ほぼ終了したと言える。だから父親と連絡はとらなくてもまあ理解できる。
だが、俺から電話をかけても、彼女はなかなか出てくれなかった。
忙しいのだとは思う。
子供を育てるというのは大変なことだとナマエさんを近くで見ていて心からそう思ったし、ましてや彼女はシングルマザーだ。
一般的な家庭が二馬力でやっていることを、彼女は一馬力でやっているのだ。忙しいのも頷ける。
だが電話にはほとんど出ないし、珍しく電話に出た時も、その態度がなんだかよそよそしいように感じるのは気のせいだろうか。
俺が助けてやったんだ、もっと恩を感じろなんて言うつもりは毛頭無い。
ただ忙しいなら俺が授業のない時にディアナちゃんを見てあげることもできると思うし、もしやはり金銭的に苦しいなら時々食事でもごちそうしたかったし――
いや、詭弁を言うのはやめよう。
俺は、せっかく繋がった縁が消えそうで寂しかったのだ。
ナマエさんに会いたかったのだ。
あの少女のような笑顔を見たいのだ。
がらんと広くなって久しい俺のアパート。
パチンコ屋のバイトを終えて帰ってきた深夜、ただいまを言うこともなく暗い部屋のベッドにダイブする。
二ヶ月前なら、ナマエさんが出迎えてくれた。あの笑顔で。
ディアナちゃんはもうこのベッドで寝ていて、俺たちは薄暗い部屋の中ディアナちゃんが起きないよう小声で笑いあった。
俺はローテーブルでナマエさんが作ってくれた食事を食べる。「旨い」と言えば、ナマエさんは心底嬉しそうに「良かった」と微笑む。
そんな日々が、本当に愛しかった。
ふと、何故かナマエちゃんのことを久しぶりに思い出した。
ナマエちゃんと過ごした日々も確かに愛しかった。だが、愛しかっただけではなかった。
どちらかというと切なくて、苦しい感情のほうが大きかったかもしれない。特に最後のほうは。
しかし俺は、今の今までそんなことすっかり忘れていたのだ。
以前はナマエちゃんのことを度々思い出しては切なくなったり、あのおにーさんに嫉妬したりしていたものだが、今は全くそんな気にはならない。
本当はもう気づいている。とっくに。
今俺には、ナマエちゃんよりももっと気になることがある。
つまりまあ、俺はナマエさんが気になっているのだ。
元気でいるのだろうか。
上手くやっているのだろうか。
ナマエさんには笑顔でいてもらいたい。
そのために俺が手伝えることはなんでもやってあげたいんだ。
薄暗い部屋の中、俺は飯も食わずに静かに目を閉じる。
そうして、この部屋の中にほんのかすかに残っている彼女の面影を味わっていた。