番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―前編―
04
* * *
ディアナちゃんを俺の母親に預けたまま、俺とナマエさんは役所へ来た。
予想通りだった。
ナマエさんは、一人親世帯が受けられる手当の多くを受けていなかった。児童扶養手当、医療費助成制度、児童育成手当、エトセトラエトセトラ。
無理も無い、というか……やはり、というか。俺の想定通りだったのだ。
国や地方自治体から受けられる手当というのは、その多くが自己申告制で、黙っていても受け取れるわけではない。自分から役所に申請して初めて受け取れるものが大半だ。
だが往々にして、生活困窮者というのは情報弱者でもある。それに、働けなければ世間との関わりも途絶えがちだ。
ナマエさんは児童手当以外は手当の存在すら知らなかった。
まあ、情報弱者が悪いのか、情報発信が弱い役所が悪いのか、という問題はある。敢えて情報発信を弱くしているというのであれば、それはまた別の問題だが。
とにもかくにも、俺はナマエさんを連れて役所中を歩いて回った。
中学を卒業はしたが、今まで勉学に励む機会に恵まれなかったナマエさんは書類一枚書くにも苦労していた。
一般論で言っても、役所で記入させられる書類の類は分かりにくいし不親切だと言えるだろう。俺は代筆で構わない部分については進んで代筆した。
「ちょっと、休憩しましょうか」
俺たちは役所の中を右へ左へ上へ下へとぐるぐると歩き回り、やっとのことで全ての手続きを終えて出てきた。
ナマエさんは、口には出さないがやはりぐったりと疲れているように見える。
これから俺の実家兼事務所に戻り、母親に預けているディアナちゃんを回収する。
でもその前に、ナマエさんを少し休ませてあげたいと思った。
俺が休みたい、というのももちろん本音だが。
「お茶でも」
そう言って俺は通りに面しているチェーンのコーヒーショップを指さした。
「え、でも……。
ディアナをファーランさんのお母様に預かっていただいているのに、大丈夫でしょうか……なんだか申し訳なくて」
「ああ、大丈夫ですよ全然。あの人子供好きなんです。多分喜んでディアナちゃんの相手しています。
何か問題あれば俺に連絡が来ることになってますし、大丈夫です。
ていうか俺が疲れちゃって休みたいんですよね、腹も減ったし」
「そういうことでしたら、じゃあ……」
ナマエさんのはにかんだ顔を確認して、俺はコーヒーショップへ入った。
二人ともアイスコーヒーを注文した。
俺はいつもアイスコーヒーだが、ナマエさんは見慣れないメニューに狼狽えていたように見えた。なんとかマキアートとかなんとかフラペチーノとか言われても、きっとこんなコーヒーが一杯500円近くするショップなんか行き慣れないナマエさんには、さっぱりだろう。
ナマエさんはコーヒーしか頼まなかったが、俺は勝手にスコーンを二つ頼んだ。
一つはナマエさんに。昼食を食べないままこの時間になってしまった。ナマエさんなんて、朝ご飯だって自分の分をほとんどディアナちゃんに上げていた。絶対に腹が減っているはずだ。
座ってコーヒーを一口飲むと、ナマエさんの口からふう、とため息が漏れた。
少しだけ身体と顔のこわばりが解けたように見える。
今日は朝から移動しっぱなしだったし、役所の中も歩き回った。
俺だって疲れているが、初対面の人間に会った上に、慣れない弁護士事務所や役所に缶詰だったナマエさんはもっと疲れただろう。
半ば無理矢理このコーヒーショップに連れ込んだのも、とにかくナマエさんを一旦休憩させてあげたかったからだ。
スプリングの効いたソファに沈んで、アイスコーヒーをずず、と啜る。
そこで初めて気がついた。
ここ、ナマエちゃんとよく来たコーヒーショップじゃないか。
いや、正確に言えば店舗は違う。
だけどチェーン店だ。全く同じメニュー、似たような内装。座席の配置までなんとなく似ている。チェーン店なのだから至極当然なのだが。
ナマエちゃんが渡米してから、いや、その前――ナマエちゃんに振られてから、このコーヒーショップにはあまり来ていなかった。
以前は一人でも良く入っていたが、自然と足が向かなくなっていたのだ。
ナマエちゃんのことを思い出すと悲しくて悔しくなるくらいには彼女の事を好きだったし、女のことで涙を浮かべそうになる自分に気づいてしまえば、その事実に辟易とさせられたからだ。
いつの間にか、ナマエちゃんのことはすっかり過去として整理できていたのだろう。
今、俺は平気な顔をしてこのコーヒーショップでアイスコーヒーを飲んでいる。それもナマエちゃんじゃない違う女性と一緒に。
時間の流れはいつでも人間の強い味方だが――いやまあ、それだけではないだろう。
昨晩から今までの出来事があまりにも衝撃的すぎて、ナマエちゃんとのことなんて吹っ飛んでしまっていた、というのが正しいかもしれない。
まさか現代のこの国で、ホームレスの母子を拾って世話することになるなんて。
「……美味しい!」
ナマエさんはスコーンを小さく一口囓ると、いたく感動した声を上げた。
「あまりこういうの……食べる機会が今までなくて。初めて食べました。美味しいんですね」
そう言うと嬉しそうに屈託のない笑顔を俺に向ける。
花が咲いたようとはこのことだ。それも、可憐な花。スミレとか、なんかそういう類の。
幼い顔立ちの彼女が笑えば、本当に少女のように見える。
だが、次の瞬間思い知る。
ナマエさんは少女じゃない。
「ディアナにも、食べさせてあげたかったな」
少しだけ残念そうにそう言うナマエさんの顔から少女の面影は無くなっていた。
「お母さん、ですね。ナマエさん」
俺がつい口にした言葉に、ナマエさんは、え?と顔を上げる。
「いや、はは……お母さんだなって、思って」
いつでもナマエさんの最優先はディアナちゃんだ。それは昨晩から今までの短い期間でよく分かった。
ナマエさんは自分のことは二の次で、ディアナちゃんのことが何よりも一番大切なのだ。
「ふふ……そうです。私、お母さんなんです」
ナマエさんはそういうと、少しだけ曇った笑顔を俺に見せた。
店の大きな窓にはスクリーンロールがかかっていて西日を防いでいるが、しかしその隙間から入り込む午後の黄みがかった日差しが、ナマエさんの首から下を照らした。
アイスコーヒーのカップは汗を掻き、テーブルに水をしたたらせている。
「お母さんなのに……子供に満足に衣食住を用意してあげられないなんて。
お母さん、失格ですよね……ディアナには私しかいないのに。
私……ディアナに申し訳なくて」
悲しそうな笑顔が下を向く。
先ほどまでスコーンを持っていた小さな手は、テーブルの上で固く組まれた。まるで自身を恥じているかのように。
ギリギリと音が鳴りそうなほど、爪が食い込むほど、手は固く組まれていた。
それを見て、多分ほとんど反射だったのだと思う。
俺は無意識に両手を彼女の手の上に添えた。
自責の念で押しつぶされそうな小さな両手を、二回りは大きい俺の両手で包む。
「ナマエさん」
声が、勝手に出た。
この親子にこれ以上入り込んで大丈夫なんだろうか、という自己保身が、頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。
俺は今まで、要領よく生きてきた。
この親子に入り込むことは、要領が良いとか悪いとかそういう次元を飛び越える。
とんでもなく面倒なことに俺は頭を突っ込もうとしている、いやもう突っ込んでいる。そんなことは分かっている。
だが、俺は彼女の手を取らずにはいられなかったのだ。
「大丈夫です。立て直しましょう、生活を。俺、俺の持てる力を全部使って助けますから。
ナマエさんとディアナちゃんが、不自由ない生活ができるようになるまで……俺も、俺の父も投げ出しません。
俺の父、そういうところでは信頼できる人間なんです。弁護士としての実績もあります。だから、大丈夫です」
ナマエさんの曇っていた顔が、ゆっくりと晴れていく。
目が細くなり、目尻が下がる。口角は上がる。
頬はほんのりと桃色に色づいた。
「……はい」
憂いの晴れたその笑顔は、やはり少女のようだった。
* * *
1 住み込みで働ける仕事を見つけること
2 ディアナちゃんを預けられる保育園を見つけること
3 滞納した家賃を立て替えている保証会社との折衝
これが、ナマエさんが解決しなければならない問題だ。
3は全て父さんに任せているが、1と2についてはナマエさん自身にも動いてもらわねばならない。もちろん、俺も力になる。
一先ずナマエさんには、俺のアパートに住んでもらうことにした。住所不定のままじゃ仕事も探せない。
父さんは当面のナマエさんの住処について何にも触れなかったが、俺が自分のアパートにナマエさんを住まわせていることに、恐らく気づいている。だが母さんには余計なことは言わないでおいてくれるつもりらしい。
俺の母さんはかなり寛大な方だし、今までだって何かを口うるさく言われたことはほとんどない。
だが普通に考えれば、やはり学生である息子が子連れの女性を自分のアパートに住まわせていると知ったら、そりゃ面白くはないだろう。
父さんは、当面の生活費の補助として、数万円を俺のズボンのポケットにねじ込んできた。
「進捗があったらすぐに連絡する。
お前は、乗りかかった船を途中で降りるようなことはするなよ。最後までやり遂げろ」
「……わかってるよ」
なんだかんだ言って、俺はこの父親の臑を囓って生きている。
そして、この件でも父親の力を借りなければ、俺一人では解決できないだろう。
今まではそういう親の庇護を当然のように享受していたのだが、ナマエさんと出会って、俺は急に脛齧りの自分が情けなくなった。
しかし、背に腹は代えられない。
今一番大事なのは、ナマエさんとディアナちゃんの生活なんだ。