番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―前編―





03




* * *



良い匂いとトントントンという包丁の音で目が覚めた。

「じゃあ、ディアナはこれを混ぜて?ぐるぐるって」
「うんわかった、ぐるぐる〜」

キッチンの前に、若い女性と幼女が一人ずつ。
料理をしているように見える。

誰だ、これ……?
幻想?俺の願望?

上半身を起こし、ぼーっとした頭のまま見目麗しい二人の女性を眺めていると、そのうちの大人の方が俺に気づいてこちらを振り返った。

「あっ、ファーランさん!おはようございます。
すみません、勝手にキッチンと冷蔵庫の中の物お借りしてしまいました」
「……」

……思い出した。ナマエ・ミョウジさんとその娘のディアナちゃんだった。
昨晩俺が橋の下から保護したのだった。



この家に、女性が入ったのは随分と久しぶりのことだった。
学部生……特に一年生から三年生の間は、女の子をよくこの家に連れ込んだものだった。
それもいつもいつも違う女の子なのだから、我ながらクズだったと思う。

転機は学部四年生の初夏、ナマエちゃんに出会ってからだった。
無意識のうちにナマエちゃんに恋してしまっていた俺は、女の子を自宅に持ち帰ることがなくなった。
関係を持つとしても、ホテルでのみ。家には連れて来ない。

一度だけ、ナマエちゃんを自宅に誘ってみたことがあった。
大雨の降った日。
あの時はまだ、ナマエちゃんへの想いに自分自身気づいていなかったと記憶しているが、やはり好意は抱いていたのだろう。
雨宿りと傘を貸すことを理由に、この部屋に招き入れようとしたのだ。結果はにべもなかったが。思いっきり警戒された苦い記憶が蘇る。



「ディアナ、こちらがファーランさん。
昨日の夜私たちを助けてくれたの。きちんとお礼して」
「ファーランさん、ありがとうございます!」
「え、ああ、いや」

ミョウジさんによく似た女児が、明るい声で言った。確か4歳と言っていたか。
年の離れた妹、イザベラの幼少期を思い出した。
――いや、あいつはこんな風に「ありがとうございます」なんて敬語が使えたか?4歳の時はもちろんダメだっただろうが、確か今年16になる今だって怪しい。

「ファーランです。よろしくね、ディアナちゃん」

俺は警戒心を抱かれないよう精一杯の笑顔をディアナちゃんに向けた。
ディアナちゃんはぱあと大きな目を嬉しそうに見開いた。

「あの……お口に合うか分からないのですが、朝ご飯……よろしければ」

そう言って、ミョウジさんはローテーブルの上に食事を並べ始めた。
トースト、野菜サラダ、ミニトマトの添えられたスクランブルエッグ。
俺の冷蔵庫には米と卵、それと冷凍庫には賞味期限の切れた食パンぐらいしか入っていなかったような気がするが、これはどういう魔法だろうか。

「お野菜が冷蔵庫に無いようでしたので、近くのコンビニでカット野菜を……」

ミョウジさんは俺の表情から疑問を読み取り、はにかみながらそう答えた。

「えっ、あっ、ごめんなさい、お金使わせちゃいましたね!?」

俺は慌てて財布を探そうと、床に投げてあったバッグの中をゴソゴソとかき回した。

「いえいえ!良いんです、わたしが好きで買った物ですし!
こんな……一宿一飯の恩義にしては安すぎるくらいで……」

ミョウジさんは俺の前に膝をついて、鞄をまさぐる俺の手を制止した。

「でも……」

今ミョウジさんは一円すら、一銭すら惜しい状況のはずだ。
顔を曇らせた俺の膝にディアナちゃんが飛び乗ってきた。

「お野菜もちゃんと食べないとだめなんだよー?」
「こらっ、ディアナ!失礼でしょ!」
「いやいや、良いんですよ」

無邪気なディアナちゃんに俺の顔はつい綻んだ。

「嬉しいです、俺、誰かが作った朝ご飯なんて久しぶりだな。ありがたくいただきます。
ミョウジさんも、ディアナちゃんも座ってください、コーヒーは俺が入れますね。ディアナちゃんは牛乳で大丈夫かな?」
「ディアナ、牛乳好き!」

ディアナちゃんは俺の布団の上で跳ねた。



「いただきます」

ローテーブルの周りに三人で座り、温かい朝食を囲む。

こんな食事は久しぶりだった。
学校にいる時は友人と昼食を取るが、それ以外の食事は基本的にいつも一人。料理はあまりできないし、家でコンビニ弁当を食べることが多い(だから冷蔵庫の中もすっからかんだった)。
女の子達を家に連れ込んでいた時は食事を作ってくれる子もいたが、最近はそんなこともとんとなかった。

温かいスクランブルエッグをフォークで掬った。
口の中に入れるとふんわりとした食感とほどよい塩気が広がる。

「美味しい!」

思わず口から出た。本音だった。

「それなら良かった。出来たてだから……」

ミョウジさんは、美味しいと感じるのは出来たてだからで、まるで自分の料理の腕自体はたいしたことないかのように言うが、多分それは違うと思う。

「ほら、こぼさないでね」
「よく噛んで食べようね」

ミョウジさんは優しい眼差しでディアナちゃんに逐一声を掛けている。ディアナちゃんもミョウジさんに頷いて返事をし、行儀良く食事をしている。
更に、ミョウジさんはディアナちゃんの皿が空くと、「もっと食べる?」と、自分の皿から卵とサラダをディアナちゃんの更に移した。
俺はその光景をじっと眺めてしまった。

「……?」

俺の視線に気づいたミョウジさんは、笑顔のまま俺に向かって首を傾げる。

「ああ、いやいや」

彼女をじっと見つめていたことに気づかれて気まずく、俺は誤魔化すかのように慌てて手を顔の前で振った。

俺よりも3つも年下だが、ディアナちゃんに寄り添いながら食事を取らせるその姿は確かに母親だ。
未だ両親の臑を盛大に囓って生きている自分自身に羞恥を覚えたが、それは口に出さず胸の中だけに留めておいた。



* * *



朝食を食べ終わった俺たちは、三人でまず俺の実家へ向かった。
電車で小一時間。今日ばかりは、実家が気軽に帰れる距離にあって良かったと心から思う。

「チャーチ法律事務所」と看板が掲げられているのは、事務所入り口だ。
自宅入り口はまた別のところにあるが、今日は事務所のほうのインターホンを鳴らした。

「はい、いらっしゃ……」

入り口のドアを開けて出てきた父さんは、俺とミョウジさん、そして視線を下げてディアナちゃんの顔を順番に見た。
目を丸くして俺たちを眺める父さんに、俺は敢えて軽い口調で言う。

「父さん、久しぶり」
「……一体どうしたんだ?」
「ちょっと助けて欲しくてさ」
「……まあ、入りなさい」

冗談の類をほとんど言わない厳格で真面目な父だが、この人は困っている人間を見捨てるということができない人間なのを俺は知っている。
俺は後ろで縮こまっているミョウジさんの背中に手を添え、ディアナちゃんの手を固く握るミョウジさんと共に事務所の中へ入った。



ディアナちゃんは、事務所に隣接している自宅にいた母さんに預けた。
これからミョウジさんは、父さんに細かく現状を説明しなければならない。子供には聞かせたくない話もしなければいけないかもしれないからだ。
母さんは驚いた様子だったが、元来子供好きな人だ。ディアナちゃんもすぐに母さんに懐き、二人は一緒に台所の調理器具を使ってままごとを始めた。

父さんに事の顛末をかいつまんで説明すると、恐らく法律上重要となるであろう点についてのみ詳細を訊ねられた。



父さんは弁護士だが、自身の事務所の客だけを相手に仕事をしているのではない。
法テラスなんかでも相談を受けているし、所謂金銭的に余裕がない人に対してもかなり手厚く対応している。

俺はそういう父さんの姿勢を確かに尊敬している。
だがその一方で、俺にはできない、俺だったらもっと効率良く金になる案件に注力するだろうなとも思っていた。
だが社会的弱者を守ることは、父さんの稔侍のようなものだった。
今回はその稔侍に感謝である。



「――では、連帯保証人は立てずに保証会社を使っていたんですね?」
「ええ……連帯保証人を頼めるような身内がいないんです」
「なるほど。保証会社の督促はかなり厳しいですからね。それで賃貸契約解除を求められ、署名をしてしまったと」
「はい……」
「そうですね……。
半年間も家賃を滞納したという事実がありますし、未だその保証会社に立て替えてもらった家賃の支払いも目処が立っていない、と。そうなると、元の住居に戻るのは難しいでしょう。
同じ保証会社を使うことはもちろんできませんし、それ以前に大家さんの心証が悪すぎる。貸してもらえないでしょう」

父さんは真剣な表情でミョウジさんの目を見据えた。
ミョウジさんは改めて突きつけられた現実と向かい合っているせいだろうか、顔色が悪い。
だが父さんは弱者を見捨てないのだ。

「まず今ミョウジさんが解決しなければいけないのは、3つ。
1つ目は当面の住居です。
一般の賃貸住宅は、仕事に就いていないと入居は難しいでしょう。
そこでです、最近数は少ないですが住み込みで働かせてもらえる職場もあるにはあります。私のほうでも少し伝手を当たってみます。
職種は……この際、選んでいられないかと思いますが、それでよろしいですか?」
「は、はい、もちろんです……何でも、何でも働きます」

ミョウジさんの目は切羽詰まっていた。

「わかりました。
2つ目は、お嬢さんの保育園ですね。以前通っていた保育園は退園になってしまった、と」
「はい……職を失って、2ヶ月以内に再就職できればそのまま継続して通園出来たのですが、それが叶わなかったので……。
保護者が働いていないのであれば、保育園に通う資格を満たさない、と……」
「うん、まあ保護者が求職中というのも保育園へ通園する立派な理由なんですけどね。
ただ求職中というのはどうしても、既に職に就いていたり就職が決定している保護者に比べて優先度が低いと判断されてしまう。
いずれにしろ、一度退園してしまったのでまた新しく入園申請を出さなければいけません。役所へ行って入園を申請する書類を一式もらってきてください。
求職中というのは確かに既に就業している保護者よりも入園優先度としては落ちますが、ひとり親家庭というのは入園を優先させるファクターの一つです。通りやすいように書類を書くのをお手伝いしますから、一緒に書きましょう」
「は、はい」
「そして、3つ目。
今滞納した家賃を立て替えた状態の保証会社との折衝です。
これは私が代行しましょう。お嬢さんを連れてしたくない話でしょうし、ミョウジさんは直接保証会社ともう話さない方が良い。
私が完全に代行し、折衝結果のみをミョウジさんにお伝えします」
「……わかりました。すみません、そのほうが助かります……」

ミョウジさんは、俯いて伏し目がちになる。
彼女は、交渉事が得意なタイプにはとても見えない。
どちらかというと自分の主張をするのは苦手そうだし、何というか優しすぎるタイプのように見えた。

「ご安心ください。ミョウジさんの生活を再建させ、お嬢さんと二人で安定した生活を送れるよう、全力を尽くしますから」
「ありがとうございます、先生。
ですが、私この通りお金が無くて……費用が払えるか……」
「ああ、それは良いですよ」

ミョウジさんが申し訳なさそうに俯いていた顔を更に俯かせて言うと、父さんはミョウジさんの隣に座っていた俺の肩をバンと叩いた。

「息子に払わせますから」
「ああ!?」

急に振られた俺は思わず立ち上がって父さんに噛みついた。
父さんはにこにこと俺を見ている。
この場で食い下がることもできず、仕方なく俺は黙って、もう一度ソファに腰を下ろすしかなかった。

――まあ、乗りかかった船だ。
ミョウジさんとディアナちゃんのためなら、弁護士費用くらい肩代わりしてやる。
幸い最近女の子と遊んでいないから、パチンコ屋でバイトした給料はたんまりと口座に入っているのだ。

「ところでミョウジさん」

父さんは再びミョウジさんに視線を戻す。

「その、少し年寄りには呼びにくい名字ですな……口が回らないというか。
差し支えなければ、下の名前でお呼びしても?」
「ええ、もちろんです先生」

ミョウジさんは笑顔で父さんに返す。

「では、ナマエさん、ですな。
お嬢さんのためにもここは踏ん張り時です、頑張りましょう。
倅のことは存分に使ってやってください。これでも弁護士の卵です、私の手足くらいにはなりましょう」

ミョウジさん――もとい、ナマエさんは俺の方を見た。
俺もナマエさんを見て、視線が合った瞬間、俺たちは同時にふっと笑みをこぼしたのだった。




   

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