番外編 【Spin‐off】俺と彼女と彼女の話 ―前編―
02
俺のアパートは決して広いわけじゃないが、市街地に住む学生にとっては一般的な広さだと思う。
約8畳の部屋に風呂、トイレ、キッチン。所謂1K、風呂トイレ別だ。
女性の腕の中で眠っていた少女は、部屋の壁に沿って置かれている俺のベッドに横たわらせた。置いた瞬間少女は、うーん、と少しだけ身じろぎをしたが、すぐにすやすやと再び眠りについた。
「あの、コーヒーくらいしかないんですけど。飲めますか?」
ホットのコーヒーをマグカップで差し出すと、ローテーブルの前に座っていた女性は恐縮しながらマグカップを受け取った。
やはり身体が冷えていたのだろう、明るいところで見れば唇が紫色だ。
子供のことも考えれば、家に連れてきて良かった。
「……あの、本当にありがとうございます。
私、ナマエ・ミョウジと言います」
女性はそう名乗った。声まで若い。
彼女は本当に細くて小さくて、少女のようだ。
明るいところで見れば幼い顔立ちがよく分かる。整った顔立ちなのだが、美しいというよりは可愛らしいという形容のほうが似合う。
女性というよりはやはり少女にしか見えない、もしかしたら高校生かもしれない。高校生の頃のナマエちゃんよりもまだ幼い顔立ちをしている。
「あの子は、ディアナといいます。4歳で……私の娘です」
もしかしたら姉妹かもしれないと思ったが、やはり親子だった。
この若さで(実年齢はわからないが)4歳の娘、そして野宿者。
「あの……よろしければ、事情を聞かせていただけますか?お住まいがないんですよね?
橋の下では、風邪を引いてしまいます。
ディアナちゃんのためにも、俺ができることはしますから……」
そう促すと、ミョウジさんはゆっくりと自分のこととディアナちゃんのこと、そして野宿するに至った理由をぽつぽつと話し始めた。
* * *
ミョウジさんが自ら話してくれたことと、俺が聞き出したことを合わせると、だいたい現状とその背景が見えてきた。
ミョウジさんは、どうやら両親に恵まれなかったようだ。
父親は幼少期に他界、母親は男を取っ替え引っ替え家に連れ込んでいたらしい。
所謂内縁の夫が定期的に変わって、ある日突然知らない男が家の中にいるというのも珍しいことではなかったようだ。
碌に食事も用意してもらえない、衣食住は生きてゆくための最低限をなんとか頼み込んで用意してもらうような状況だったという。もちろん勉強のことや友人のことなんかは気にかけてもらえない。
これは立派なネグレクトである。
義務教育終了後高校へ進学するという選択肢がなかったミョウジさんは、中学を卒業すると自然と、まああまり素行がよろしいとは言えない若者達と連むようになった。
家に居場所がない15歳の少女が、派手で賑やかな年上のグループに声を掛けられてついて行ってしまうのは、想像に難くない。
そのうち、ミョウジさんはそのグループのうちの一人と関係を持ち、妊娠をする。
16歳の時のことだ。
ミョウジさんは妊娠を機に半ば強制的に実家を出ることになった。
元々母親に邪険にされていた彼女だ、生まれてくる孫の面倒を見ようなどという気は母親にはもちろんなかった。
ミョウジさんは相手の男性と結婚をすることになったが、結婚後の生活は上手くいかなかった。
当時男性方は18歳だったが、碌に働いておらず収入がほとんどない。なんとか借りた安アパートの家賃を支払うため、ミョウジさんは身重の身体で働いたそうだ。
やがてディアナちゃんが生まれたが、その後もご主人が真面目に働くことはなく、ディアナちゃんのおむつ代を工面するにも苦労したらしい。
そのうちご主人は、それまで一応隠れてしていた浮気も隠すことなく堂々とするようになる。その上ミョウジさんとディアナちゃんが邪魔になったのだろう、家庭内暴力を働くようになった。
ミョウジさんはディアナちゃんを守るために離婚を申し出た。
ご主人は、離婚届にあっさりとサインをしたらしい。
親としての責任を果たしてこなかった元ご主人は、まあ予想通りと言えばそうなのだが、今まで養育費という物を払ったことがないとのことだ。
ミョウジさんは16歳でディアナちゃんを妊娠、出産。その後離婚したときには17歳だった。
ディアナちゃんを食べさせるためにミョウジさんは必死に職を探したが、高校を出ていないとなると就ける職はかなり限られてくる。
学歴不問で就ける仕事の中で比較的給料が良かったのが、警備員の仕事だ。
炎天下でも極寒の中でも一日中立ちっぱなしの仕事は、本当に辛く体力勝負で、だからこそ比較的給料は良い。
その仕事柄男性が多い職場だったが、ミョウジさんは意に介さず、地元密着型の小さな人材派遣会社になんとか登録させてもらうと、日払いでその仕事に勤めた。
頼れる身内もいないため、仕事をしている間は、ディアナちゃんは保育園に預けていた。
そうして、慎ましくも二人だけで地に足の着いた生活を送っていたのだ。
「――状況が変わったのは、約半年前です。私が登録していた人材派遣会社が倒産しました。
地域に根付いていた会社だったのですが、規模が小さくて……大手の派遣会社がこの街にも進出してきて、煽りを受けたようでした。
私は職を失いました。貯金もほとんどなくて……家賃が払えなくなったんです。
大家さんにはお願いしてしばらく置いていただいていましたが、家賃を滞納して半年になり、もう置いておけないと……出て行ってくれと、とうとう今日追い出されました。
もちろん、仕事は探しましたし今でも探しています。
でも、中卒の私では派遣会社に登録することも難しくて……仕事が無くなったので、保育園も退園になってしまって……。
もう、もうどうしたら良いのか……ディアナに寒い思い、ひもじい思いをさせていることが、辛くて……」
ミョウジさんの目に涙が浮かんだ。
しかし、彼女は涙をこぼさなかった。
じっと堪え、目の奥に熱い物が引っ込んでいくのを待っていた。
20歳、俺よりも3歳も年下だ。
彼女は、不運だった。生まれ育った環境が良くなかった。
多分違う親の元へ生まれていれば十分な庇護の元、健やかに育つことができたのだろうし、そうすればきっと今とは違う人生を歩んでいたのだろう。
彼女の口から語られたのは、俺や俺の周りの人間とはかけ離れた暮らしである。
一般的な親の元に生まれて、愛情をかけられて育ち、衣食住の心配をすることもない環境で教育を受けさせてもらう。
俺だってもちろんそのことに感謝してはいるが、親というものは子供を生んだからには養育する義務があるのだから、それは当然のことだとも思っていた。
だが、世の中には生んだ子供を上手く愛せない、上手く育てられない親が一定数いるらしい。そういった親がいることの子供への影響は甚大で、結果がこれだ。
経済的に豊かなこの先進国において、橋の下で夜を越そうとする憐れな母子を生んでしまったのだ。
「ミョウジさん」
俺は彼女に声を掛けた。
「今夜は、ゆっくり休んでください。ディアナちゃんと一緒に、たくさん寝てください。
明日俺学校の講義ありませんから、一緒に役所と弁護士事務所に行きましょう」
彼女は大きな瞳を丸く見開く。
「……役所……弁護士事務所……?」
「そうです。
あの、ひとり親世帯が受けられる手当や助成金はすべて受け取ってらっしゃいますか?恐らくなんですが、受け取っていらっしゃらない物もあるんじゃないですか?もらえる助成は全て活用するべきです。
それと、今住居がないとのことなので……俺の父親に、大家さんと交渉してもらうよう頼んでみます。俺の父親、弁護士なんです」
「べ、弁護士さん?」
「はい。俺も、シーナ大の法科大学院の学生で。
まだ司法試験も受かっていないですが、まあ法律が専門の学生なので……お役に立てることがあるかもしれません」
そう言うと、ミョウジさんは安心したような顔を見せた。目尻が下がり、少しだけ口角があがっている。
控えめな笑顔は彼女の顔を更に幼く見せた。
「嬉しい……本当に、ありがとうございます。なんとお礼を言えば良いのか……」
「はい、まあ、あの……落ち着くまではここにいていただいて構いませんから」
俺はぼりぼりと後頭部を掻いた。
もうディアナちゃんが俺のベッドでぐっすりと寝付いてしまっているので、ベッドはディアナちゃんとミョウジさんで寝てもらうことにした。シングルベッドだから二人で寝るには少し狭いだろうが、野宿よりはだいぶましだろう。
俺は友人が泊まりに来たときに出す客用の布団をクローゼットから引っ張り出す。
女性と同じ部屋で寝るのは申し訳ないかと思い、あるいは下心があるように思われたらそれも損だと思い、俺はキッチンに布団を敷こうとした。が、頼むから止めてくれとミョウジさんに懇願された。
結局、ミョウジさん親子が眠るのと同じ部屋に布団を敷くことになったわけだが、俺は気まずくて、ベッドからなるべく離れようと、反対側の壁に布団をくっつけて敷いた。
寝る支度をしベッドに横になったミョウジさんから、おやすみなさい、と小さく聞こえた。
俺も、おやすみなさいと小声で返す。
豆電球をつけた部屋で俺たち三人は横になった。
ベッドから聞こえていた寝息は、すぐに二人分になった。きっと疲れていたのだろう。
今日家を追い出されて、夜を越せる場所を方々探したのだろうし、結局橋の下で縮こまるしかなくて、二人で寒さをしのいでいたのだ。
ゆっくり眠ったら良い。
反対に、俺は全く寝付けなかった。
20歳。
俺より3つ下。
4歳の娘。
ネグレクト。
ドメスティックバイオレンス。
離婚。
ミョウジさんは、小柄なナマエちゃんよりもまだ小さい。顔立ちもナマエちゃんよりも幼い。
まあナマエちゃんが美人過ぎたっていうのはあるが、そもそもの顔の系統が違う。ナマエちゃんがキャバリアだとしたら、ミョウジさんはポメラニアンだ。
あの小さな身体で、壮絶な人生を受け止めてきたのだ。
俺やナマエちゃんとは全然違う人生を。
寝付けないと思っていたのに俺も流石に疲れていたのか、急にぐっと睡魔が襲ってきた。
これ幸いと睡魔に寄りかかり、俺は急速に意識を手放していった。