第二章 五月
03
* * *
ある日、ナマエはいつになく夢中で執筆していた。
ここ最近は勉強よりも執筆している時間のほうが圧倒的に多い。店内にカタカタというキーボード音が響く。
ナマエのタブレットは某リンゴのマークのブランドで、しかも最新モデルだった。キーボードを接続してノートパソコンの要領で使っている。
――決して安価な物ではない。高校生の小遣いでは買えないはずだ。家庭は比較的裕福なのだろう。
ずっとキーボードを叩いていたナマエの指が止まった。ナマエはふう、と息をつくと、だいぶ前に注文したココアを飲んだ。
「……もう冷めただろう、淹れ直してやる」
俺がそう言ってカウンターから手を伸ばしカップを下げようとすると、ナマエは止めに入る。
「いい、いいです、勿体ない!」
「うるせえな、一杯くらい奢ってるって言ってんだよ」
無理やりカップを下げ、温かいココアを作り直した。
「……すいません、ありがとうございます」
ナマエは素直にそう言って、笑った。
ああ、この笑顔が――この笑顔が見れるから、こいつを突き放せないでいる。
散々告白されて、その度に断って、それでもまだ食い下がってくるこいつを見てどこか安心している。
そしてこんな風に少しだけ、只の客にはしない贔屓をしたりして――
クソだな、俺は。
作り直したココアをナマエの前に置くと、美味しそうに口をつけた。
「てめえ、受験生なんだろう?良いのか?最近勉強しないで物書いてばっかりじゃねえか。
文芸部の活動はいつまでなんだ?」
「本当はもう、部活動は終わって引退しているんです。三年生は先週発行された春の文芸誌に載せる物を提出したら終わり。
今は夏発行の文芸誌用に作品を書いているんです。引退後だから完全に自主的な執筆なんですけど……他にも数人そういう人いるし」
「そうなのか。まあてめえは成績優秀らしいから、心配いらねえか」
「ええ、私全国模試20番落としたことないですから」
「……は!?20番!?」
学年首席とは聞いていたが……何万人も受験する全国模試で20番!?
「いや、それなりに努力しての結果ですけどね。でも勉強は苦手じゃないです」
苦手じゃないどころの話じゃねえな、と俺はため息をついた。
前世では兵士だったが、今世では学者か政治家にでもなるのだろうか。
「でもね、この春入学したばかりの1年生にもっとすごいのがいるんですよ!
この間模試の結果が貼り出された掲示板見ていたら話しかけられて、知り合いになったんですけど……その子この間の全国模試でなんと1番だったんです!
全国で1位ですよ!先生達が我が校始まって以来の快挙だって大騒ぎしてました。
アルミンって子なんですけど」
「……アルミンだって!?」
ナマエは楽しそうにペラペラしゃべっていたが、俺はナマエの口から出てきた名前に反応してしまった。
アルミン――アルミン・アルレルトじゃないだろうか。
全国模試1位というのも、前世のあいつの明晰すぎる頭脳を思い起こせば、納得してしまう。
「何、アルミンのこと知っているんですか?」
ナマエは不思議そうな顔をして頬杖をついた。俺は慌てて取り繕う。
「……いや……珍しい名前だと思っただけだ……」
「そんなに珍しいかな、普通だと思いますけどね」
そう言って、ナマエは俺が淹れ直したココアを飲んだ。幸い、ナマエは俺の苦し紛れの言い訳には食いつかず流してくれたようだ。
この世界で、もう何人も『あの世界』での仲間に会っている。ナマエを含めて。
アルミンが転生していたとしても何も不思議ではない。
エレンはいるのだろうか。104期の他の奴らもいるのだろうか。
そして、記憶は持っているのだろうか。
持っていない可能性の方が高いだろう。どうやら記憶を持っている俺やエルヴィンのほうが少数派らしい。
ミケやナナバ達は全然何も覚えていなかった。そして、ナマエも。
俺は話題を変えた。
「お前のとこの文芸誌はどこに行けば読めるんだ?」
「学校の購買部と食堂で無料配布してます。高校だけじゃなくて、マリア大の購買部と食堂にも置いてありますよ。
あとは……今回発行された春の文芸誌は文化祭でも配布します。
そうだ、ちょうど来週末からうちの学校文化祭なんです。気が向いたら、お友達と来てください」
ナマエはそう言って、鞄の中からチラシを取り出した。
『黎明祭――マリア大付属高校文化祭――』と固い書体で書かれている。真ん中には、青空に翼を広げたツバメが描かれていた。
「うちの高校の文化祭、面白いって毎年評判良いんです。三年は一応受験生だから基本出店とかしないけど、二年と一年はクラスごとに色んなことやってますよ。
文芸部も一応文芸誌の配布と展示してますけど、私達三年はちょっとお手伝いに顔出すくらいかな」
「……気が向いたら行く」
俺はなるべく素っ気なくそう言って、チラシを受け取った。
その実、もうこの時点で文化祭に行くことを決めていた。
理由は2つ。先ほど名前の出た「アルミン」が気になっていること。
そしてもう1つの理由は、文芸誌を手に入れたいということだ。ナマエの書いた文章を読んでみたいと思っていた。
* * *
マリア大付属高校の文化祭は金曜、土曜、日曜の三日間開催で、そのうち一般開放されていたのは土日だけだ。
俺は土曜日を臨時休業にし(どうせ開けていても土曜などほとんど客が来ない)、エルヴィンを誘ってマリア大付属高へ向かった。
おっさんが一人で高校生の巣窟に乗り込む勇気はなかった。
立派な正面玄関には文化祭用アーチ門が建てられ、鮮やかに彩られていた。
学校敷地内に入ると所狭しと出店が並んでいる。呼び込みの生徒達は、ハロウィンパーティーさながらの様々な仮装をしていた。
「……これは盛況だな」
背が高く目立つエルヴィンは、甲高い声を出す女子学生からチラシを押し付けられ客引きにあっている。
ただでさえこの人混みなのに、エルヴィンのせいで女子学生から纏わりつかれ、校内に入るのも一苦労だ。
やっとのことで校内に入ると、校内見取り図を得て文芸部の展示場所へ向かった。
2階奥の視聴覚室。その中の一番手前に文芸部のスペースがあり、隣はコンピューター研究部、その隣は新聞部。視聴覚室を3等分し、それぞれの部活が机や壁面を用い展示していた。
文芸部のスペースにナマエはいないかと探したがいなかった。
別に今日来ると知らせていたわけではないし、三年は手伝いだけだと言っていたので、四六時中ここにいるわけではないのだろう。
俺とエルヴィンは机上に置かれていた若草色の文芸誌を一冊ずつ手に取り、その後は壁に展示されている俳句やら川柳やら短歌やらを鑑賞した。
壁の展示物の中にナマエの物はないようだ。あいつは、短文は書かないのだろうか。
壁の短文は、高校生の生活が映し出されたものが多かった。学校、友人、恋愛。
俺には短文の良し悪しはさっぱりわからないが、瑞々しさのようなものは確かに感じた。
高校生が今の想いを込めて書いたというところには大きな意味があるのだろう。
それにしても、エルヴィンは目立つ。ここでも周りの女子生徒がざわざわしている。
このガタイの良さにこの顔だ。熱っぽい視線を一身に集めなにやらひそひそと噂を立てられているが、まあいつもの事である。
俺が脱サラする前の話だが、社内でもこんな感じだった。エルヴィンも慣れたもので、自身が注目の的であることを承知した上で涼しい顔をしている。
「……あれ?店長!?エルヴィンさんも!」
その時、視聴覚室に入って来て声を出したのはナマエだった。
「……おお、来たぞ」
俺は突然目の前にナマエが現れたことで心臓が跳ねたが、平静を装ってなるべく短く返事をした。
「うそ、本当に来てくれるとは……エルヴィンさんも来てくれたんですか?」
「ああ、こいつに誘われてな。一人で来る勇気はなかったらしいぞ」
余計な事を言ってんじゃねえと、親指で俺を指すエルヴィンの膝の裏を蹴った。
「文芸誌もいただいたよ。ナマエの書いた物、じっくり読ませてもらうよ」
エルヴィンはそう言って、若草色の冊子を掲げた。
「……なんか、自分の書いた文章これから読まれるって思ったら恥ずかしいな……」
「何言ってんだ今更。うちの店で散々書いておいて」
「それはそうなんですけど……」
ナマエは照れくさそうな顔をして、右手で頬をぽりっと掻いた。
「ナマエ、校内をぜひ案内してくれないか?俺達だけではどこから回っていいかわからなくてな……それに、中年の男性二人だけではどうも目立ってしまうようだ」
エルヴィンが良いパスを出した。確かにおっさん二人連れは目立つ。エルヴィンがいれば尚更だ。
「……目立つのは、お二人の年齢ではなく外見だと思いますが」
ナマエは苦笑した。ナマエの目線が文芸部のスペースにいる部員達に向くと、恐らく後輩なのだろう、部員達はどうぞどうぞ行ってきてくださいとジェスチャーでナマエに返事した。
ナマエは片手を挙げて部員達に感謝の意を示すと、くるりと俺達に振り返った。長い金髪が揺れる。
「喉渇きません?お茶しませんか?」
笑顔のナマエは俺達を引き連れて、騒がしい廊下を歩きだした。