第二章 五月
02
私はココアを飲みながら、エルヴィンさんはコーヒーを飲みながら、店長はカウンターの中で仕事をしながら、三人で会話をした。
「お二人は……いつからご友人なんですか?大昔って?」
「……そうだな……いつからだったかな……」
「もう覚えてねえ」
エルヴィンさんの曖昧な返事の上に、店長のぶっきらぼうな声が乗っかった。
「とにかく古い友人でね。彼は私の勤めている会社にいたこともあるんだよ。
彼が脱サラして、ここを継ぐ前の話だ。すぐそこの証券会社なんだが、なかなか優秀な社員でね。上層部は散々彼の事を引き留めたんだが、一度決めたことは覆さないんだこの男は」
「うるせえな、余計なことをペラペラ喋んじゃねえ」
店長さんの口調はいつも通り荒い物だったが、二人の間の空気はとても親密で温かかった。
多分本当に昔からの、心を許しあった友なのだろう。
「エルヴィンさん、聞いてもいいですか?」
「何だい?」
「店長の名前、教えてください」
「教えてないのか?」
エルヴィンさんは少し驚いたような声色で、店長のほうに顔を向けた。
店長は黙って下を向いたままジャガイモの皮を剥いている。
「……教えて良いのか?」
「だめだ」
戸惑ったようなエルヴィンさんの質問に、店長は即答した。
どうあっても名前は教えてくれないつもりらしい。
「もう、名前だけは絶対教えてくれないんですよ!そんなに変な名前なの?」
「ああ、変な名前だ」
「笑わないから教えてくださいよ」
私の軽口に店長はジャガイモの皮を剥きながら答えていたが、包丁をかたんと置いた。
「良いだろう。覚えられるもんなら覚えてみろ」
私はようやく教えてもらえるのかと胸を高鳴らせ、椅子に座りなおして店長を見つめた。
「――パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ、だ」
「……はあっ?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまった私の隣で、エルヴィンさんがブッと吹きだした。クックッと笑っている。
「……なに、もう一回……」
「ナマエ、それはね」
エルヴィンさんが笑いながら私に顔を向けた。
「画家パブロ・ピカソの本名だよ。
お前、こんなことよく知っていたな。お前にしてはなかなか洒落の効いたジョークだった」
エルヴィンさんは店長のほうを見て笑いながらそう言った。
それを見て店長はくっと笑い、また包丁を持ってジャガイモの皮を剥きはじめた。
「……もう!!馬鹿にして!!」
私が憤然として文句を言うと、店長はカウンターの中から私に意地悪い笑顔を向ける。
「冗談だろ?そんな怒るなよ、ナマエ」
――その笑顔とその声で、私の怒りは腰砕けになってしまった。
そんな笑顔、そんな声、それで私の名前を呼ぶなんて――ずるい。
自分の顔が真っ赤に染まったのが分かった。
隣のエルヴィンさんの視線を感じる。
私の気持ち、ばれているだろうか。ばれている気がしてならない。
その時、私のスマホがブブブと鳴った。見ると、母親からのメッセージだった。
「……今日は帰ります」
赤くなっているであろう顔を、精一杯むっとさせて店長の方を見た。
「なんだ、本当に怒ったのか?そんな拗ねんじゃねえよ」
「違う、ママが……」
うっかり「ママが」なんて言ってしまった。また子供扱いされる。
「……母が、今日は急に仕事早く帰れるようになったって。夕飯カレーにするから早く帰っておいでって……」
「そうか、帰れ帰れ。ガキは暗くなる前に帰った方が良い」
「もう、またガキって言う……」
私は文句を垂れ、カップに少しだけ残っていたココアを飲み干した。
そして500円玉を店長に渡す。
「じゃあナマエ、またな」
エルヴィンさんは紳士的な笑顔を向け、私に声を掛けてくれた。
「はい、エルヴィンさん。また」
私もエルヴィンさんに会釈をし、店を後にした。
「気を付けて帰れよ」
店長は店のドアを開けた私に向かってそう言った。店長の声とカランカランというドアベルの鳴る音が重なる。
――私が帰る時にはいつもそう声を掛けるのだ。
気を付けて帰れだなんて。私の気持ちを本気で受け取ってくれないくせに、そんな優しい事言わないで。
私は振り返り、店長に向かってイーッと歯を見せて嫌な顔をしてやった。
店長はそれを見て、はっ、と笑った。
* * *
「……驚いた。確かにナマエだな」
エルヴィンはナマエが店を出て行ったあと、顎に手をやりながらふうと息をついた。
「お前からナマエを見つけた、しかも今は高校生だと聞いた時は驚いたが……実際にミニスカートの制服姿を目にすると、なかなか扇情的じゃないか。ブレザー、似合っていたな」
俺はカウンターの中からギロリとエルヴィンを睨み付けた。冗談だ、とエルヴィンは肩をすくめる。
エルヴィンは今世でも厭味なくらい男前に転生しやがって、更に金持ちエリートサラリーマンときている。
胸糞悪いが、まあ前世でこいつが辿った凄惨な運命を考えれば、今世でどんなに高い下駄を履かせたって足りないくらいだ。
絶対に口にはしないが、こいつには今世こそは自分のために……自分のためだけの幸せを求めて生きて欲しいと願っている。
「名前も教えずに……手を出していないのか」
エルヴィンはコーヒーを啜りながら聞いた。
「出せねえ」
俺は皮剥きを終え水に晒していたジャガイモを蒸し始めた。明日のランチのポテトサラダにする。
「ナマエには記憶がない。前世での俺との関係は忘れちまってる」
「……だが、ナマエのほうは少なからずお前に好意を抱いているように見えたが。真っ赤な顔して可愛いかったじゃないか。
こんな、高校生が通いそうにない古びた喫茶店に一人で通い詰めてるんだろう?友達も連れてこずに」
「……」
シュンシュンと蒸し器が音を立てる。
俺はエルヴィンの問いには答えずに、今度はキュウリを切り始めた。
トトトト……という包丁がまな板を叩く音が店内に響く。こんな静かな店内に俺達二人だけでは、包丁の小さな音も拾うのだ。
「もしかして、もう彼女から好意を打ち明けられたか?」
「……あいつは17歳だぞ。条例に引っかかる」
「時間の問題だ。今高校3年生だろう?今年18歳ってことじゃないか」
「エルヴィン」
俺はキュウリを切り終え、コトリと包丁をまな板の上に置いた。
「今のあいつはガキだ。若く、未来のあるガキだ」
俺は視線を調理台の上から逸らさず、声だけエルヴィンに向けた。
切ったキュウリを密封容器に入れて冷蔵庫に突っ込む。
仕込みはこれで一旦止めることにした。
エルヴィンがいる間はもう、明日の仕込みは諦めたほうが良い。なんだかナマエの話をしながら包丁を動かすと、うっかり指を切ってしまいそうな気がする。
俺は自分用の紅茶を淹れた。
カウンターの中に一脚置いてあるスツールに腰掛ける。
「……ガキ、か?」
たっぷりと間を置いてから発せられたエルヴィンの問いに、俺は紅茶を啜りながら頷く。
「ああ、ガキだ。
これから大学にも行って、そして社会に出る。あいつの世界は今と比べ物にならないほど広がる。
あの見目だ、前世同様あいつに言い寄るやつはごまんといるだろうな」
俺はごくりと紅茶を飲みこむと、ふうと温かい吐息を出した。
エルヴィンは黙ってコーヒーを啜るのみだ。
「記憶も何もない今世のあいつが、俺と同じ重さで俺の事を想えると思うか?
もし、仮にだ。あいつの好意を受け止めたとして、その好意が若さ故の一過性の物でない保証なんてどこにある?
一時の気の迷いである可能性のほうがずっと高い。
今のあいつの周りには俺みたいなおっさんがいねえから、物珍しさを恋愛と勘違いしているだけだ」
「……お前は、今世でもナマエを以前と同じ重さで愛しているということだな」
「……」
エルヴィンはコーヒーカップを片手にふっと笑った。
笑った時の息でコーヒーカップから漂う湯気が揺れた。
「今のナマエは高校生だ、紛うことなきガキだ。年相応の、健全なガキだ。
ガキほど怖いもんはねえ、この後どんどん成長するんだからな。
あいつが成長して『目が覚めて』捨てられてみろ。ダメージがでかすぎるだろうが」
「ははは、死ぬまで引きずりそうだな」
「笑い事じゃねえ」
これが俺の本音だ。
つまり俺は自分が可愛いわけだ。傷つくのが怖いだけだ。
だが、一度想いを通じあわせたナマエに振られでもしたら、今世を正気で生きていける自信はない。
――前世ではナマエの愛を疑うことなどなかった。
だが今世、この状況下では、この先何十年と続く未来を盲目的に信じることなど、俺には恐ろしくてできなかった。
「リヴァイ、なぜナマエに名前を教えない?」
「……教えるなよ」
「お前がそう言うなら言わないが……何故だ?」
エルヴィンの問いに俺は答えず、スツールに座ったまま紅茶を飲み干した。
ナマエのあの声で名前を呼ばれることを想像しただけで、鼓動が早まる。
きっと実際に呼ばれたら、俺の理性はきっと崩壊するだろう。