第十一章 三月 ―前編―





05




ココアを飲み終わったナマエは、突然「んーっ」と声を出し両手を組んで上に上げ、椅子に座ったまま伸びをした。
数秒伸びた後ふっと力を抜くと、伸びきったナマエの上半身が緩む。一瞬首は下を向き俯いたような状態になったが、ナマエはすぐにぱっと顔を上げた。
上がった顔を見れば、瞳は活力に溢れていた。

「これから忙しくなります、私も!
明日は卒業式でしょ、終わった後は友達と朝までカラオケなんです。高校生活最後だから、親も特別に夜遊びを許してくれるって。
明後日からは、本格的に渡米の準備をしないと。私スーツケースも大型の物は持ってなくて、そこから買い揃えないとなんですよ。この先長く使うことになるだろうしやっぱり良い物が欲しいから、サムソナイトかなって。それにしても、外国って何持ってったら良いんですかね?胃薬と歯ブラシと……あと故郷の味を何か?」

ペラペラと言いながら、ナマエは悪戯っぽい目で笑った。
ナマエはずっと笑顔で、俺はずっと強張った顔をしていた。

きっともう、本当に最後になる。最後くらい笑顔を向けてやらなければならない。
頭の中では確かにそう思っているのに、顔の筋肉が言うことを聞かない。結果として俺の顔は強張ったままだった。

「明日の卒業式が終われば、きっと準備にバタバタです。本当に急に決めた留学だったから、何にも準備してなくて。
でももう来月から新生活ですから、急がないと」

そうだな、とかなんとか言ったのだろうか。
何か口から声が漏れ出た気もするが、何と言ったのか自分でもよくわからない。

「だから……」

ナマエは姿勢を正して俺に向き合った。



空気を舞うわずかな埃が、窓から入り込む日差しに反射してキラキラと光る。
その光の中で微笑むナマエはやはり美しく、聖母のようであり女神のようであった。



「……これでこのお店に来るのも最後です。
最後に店長のココア飲めて良かった。美味しかったです、ごちそうさまでした。

いっぱい押しかけて困らせてごめんなさい。
私……本当に店長の言う通り、ガキなんです。
ガキだから、自分の気持ちを伝えるしかできなかった。

店長にはいっぱい迷惑かけちゃいましたけど、でも、私は店長に会えて良かったです。
ありがとうございました。
……店長、お元気でいてくださいね」



その凜とした声が、空気に溶けて消えていく。
ナマエは優しい笑顔のままゆっくりと席を立った。立ち上がるとカウンターの中の俺に小さく会釈して、ドアのほうへ歩いて行く。

あのドアベルが鳴ったら本当に最後だ。
ナマエは明日高校を卒業して、来月渡米する。
ここへはもう二度と来ない。



これで良いのか。
これで良いじゃねえか。
俺の望むようになったじゃねえか。
これからナマエの世界が広がるんだ。
これからナマエは外の世界に飛び出て、たくさんの知識を吸収し、
今まで以上に聡明になり、
もっと大人になって更に美しくなり、
俺なんかよりずっといい男と出会って、
ナマエは幸せになるんだ。

これは、俺が望んだ結果だ。

これで良い。
だから、最後に笑え。はなむけの言葉の一つでも言ってみろ。
そう思っているのに、俺の顔は強張ったまま動かない。
身体も動かない。声も出ない。



ナマエが出入り口のドアノブに手をかけようと、腕を伸ばした。
ああ、ドアベルが鳴る。
そう思った瞬間ナマエはぴたりと動きを止め、もう一度こちらを振り返った。

待て!
行くな、ナマエ!

最後のチャンスに口から出かかった言葉はそれだった。
違う、これじゃねえ。咄嗟にそう思い、出かかった言葉をぐっと飲み込む。

「店長」

何も言わない俺に、ドアの前で振り向いたナマエは、穏やかな声と表情で紡ぐ。



「私はきっと……命が尽きるまで、店長のことを愛しています。
命が尽きても、あの世でも店長の事を愛しています」



思わず、息を飲んだ。
聞き覚えのある台詞に、胸が射抜かれたようだった。

――それは、前世で俺がお前に贈った言葉だ。何千年経ったか知らねえが、俺は今でも覚えている。
その台詞を、どうして今世のお前が知っている?



「……でも、もう望みがない事はわかってます。
だから安心してください、きちんと諦められますから。
物理的にも離れるし……向こうに行けば新しい生活環境と英語の勉強に必死で、きっとそれで頭いっぱいになると思うから。
最後にもう一度だけ、私の気持ちを伝えたかっただけなんです。
聞いてくれてありがとうございました」

言い終わるとナマエはドアに向き直る。
取っ手に手を掛けようとした瞬間。



「……ナマエ!!」

俺はカウンターから飛び出した。
ドアの前のナマエの腕をがっと勢いよく掴む。ナマエは驚き目を丸くして、掴まれた腕と俺の顔を交互に見つめた。

言うんだ、頑張れよ応援している、と
いや違う、待って欲しい、行って欲しくねえんだ、本当は
どの口がそれを言う?ナマエを拒絶したのは俺だ
やっとナマエは笑顔に戻った、自分で自分の歩く道を決めた、
それを邪魔するようなことを言うんじゃねえ
いや、でも――

俺の脳内に無数の感情が飛び交う。
もはや俺は何を言うべきなのか、いや、自分が何を言いたいのかがわからなくなった。

「……記憶が……」
「……えっ?」

俺の口から出た掠れた声に、ナマエが疑問で返す。

「……記憶が戻ったのか?ナマエ……?」

――こんなことを言いたいわけじゃない。
もっと他に伝えたいことはたくさんあるのに、混乱した俺の口からは、こんな陳腐な言葉が出た。

ナマエは悲しそうに微笑み、首をふるふると横に振る。

「……やっぱり戻りませんでした。12月25日以来、前世の記憶が全然何も見えないんです。
結局、大事なことは何も……私達が何と戦ってたのかも、私が何者なのかも、……あと、店長の名前も。
大事なことは何もわからないままなんです。
ごめんなさい、店長。私どうしても『ナマエ』さんにはなれなかった」

ナマエはそう言うとゆっくりとドアの方へ身体を向け、再び店を出て行こうとする。

「待て!!」

俺はもう一度ナマエの腕をぐっと握った。ドアに向いていたナマエの身体は、俺の腕にぐんっと引っ張られ制止させられる。
今度は「待て」と明確にナマエを引き止めた。
ナマエがもう一度俺を見て――

二人の視線が交わった。



ナマエの視線に、わずかに、だが確かに熱を感じた。
この熱が俺に向けられることはもう無いのだろうか。
この熱は海を越えいつか俺の知らない男に向けられることになるのだろうか。

この時俺は一体どんな顔をしていたのだろう。



数秒視線を交わした後、ナマエは笑顔のまま、腕を掴んでいる俺の腕にそっと自身の手を乗せた。
そしてゆっくりと俺の腕を剥がす。

俺は腕を剥がされたことにショックを受けていた。
ナマエからの優しい、だが明らかな拒絶だ。
もう俺には会わず、自分の道を歩むと決めたナマエからの。



「さようなら、店長」



ナマエは迷いなくドアを開け、カランカランというドアベルの音が鳴り響く。
ドアの向こうは日差しに満ちた明るい世界で――
ナマエは今度こそフライハイトの外へと足を踏み出した。
バタン、と乾いた音を立ててドアが閉まった。



ナマエのいなくなったフライハイトは静かだった。
店内に一人残された俺は、のそりとカウンターに戻りスツールに腰掛ける。

「……良かったじゃねえか……」

全て丸く収まった。俺の願った通りになったのだ。
ナマエの世界はこれから広がり、俺なんかに囚われずに幸せに過ごす。ナマエはきっと幸せになる。

『命が尽きるまで、店長のことを愛しています。
命が尽きても、あの世でも店長の事を愛しています』

ナマエの声が脳内で木霊した。

『本当に大切な物を得るためには、何かを捨てなければならないだろう。
傷つかないという保障か。自身に巣食う恐怖心か。
――リヴァイ、お前には何が捨てられるだろうな?』

次に木霊したのはエルヴィンの声だった。



「――っ!!クソがっ!!」

俺は立ち上がり自身の座っていたスツールを蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされたスツールは、ガシャーンと剣呑な音を立ててキッチンの壁にぶつかる。静かな店内に、乱暴な衝撃音が響いた。

俺はさっき、最後のチャンスを逃したのだ。ナマエとこれからも繋がっていられる最後のチャンスを。
俺は、ナマエを騙し、自分を騙し、本当の願いから目を背け続けてきた。
願うことで、欲することで、傷つくのが怖かった。

本当に欲しい物はもうどうやっても手に入らない状態になった。
そうなって初めて、自分を欺き続けてきた代償を思い知る。

今この世界は平和だ。前世とは全く違う世界だ。
俺は人類最強ではないし、もちろんもう空も飛べない。
兵士長でもないし、子供から声援を浴びることもない。
人より多少腕っぷしは強いかもしれないが、巨人を目の前にして戦える力は当然ない。

だが、俺はリヴァイだ。あいつは、ナマエだ。
前世だって、今世だって、きっと来世だって。
俺はどうやったってあいつから離れられるわけがないのだ。



「……捨ててやろうじゃねえか、なんでもな」

傷つかないと言う保障も、自身に巣食う恐怖心も。
見栄も、プライドも、全部だ。





   

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