第十一章 三月 ―前編―





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ナマエの口調と表情はとても穏やかだった。
俺達の会話も、まるで昨年の春に戻ったように穏やかだった。

昨年の春と違うのは、ナマエが少し大人びて見えることだ。
10代の成長は早い。一年も経てば顔つきが変わることなど当たり前だ。
だが、大人びたその視線と穏やかな笑みは、子供だったナマエが、俺が前世から知っている大人のナマエにどんどん近づいているのだと感じさせられた。

穏やかな会話ができて安心している反面、内心ではナマエから何を言われるのか気が気ではなかった。
ナマエがただ茶を飲みに来ただけだとは思えなかった。きっと俺に何か言いに来たのだろう。
ファーランと付き合うことにしたと報告されるのだろうか。
それなら俺は受け入れなくてはいけない。

できれば、その類の報告は聞きたくない。
叶うならこのまま、穏やかで優しい時間だけを過ごしていたい。
――都合の良い願いだ。ナマエの前で正気を保てないのは俺のほうだと言うのに。



俺は黙ってナマエの前にココアを置いた。

「まだ注文してなかったですけど?」

カップから上り立つ湯気の向こうで、ナマエがきょとんとした顔をしたカカオの香りが湯気と共に上る。

「奢りだ。卒業祝いにしては安すぎるがな。
……ココアは嫌か?」

ナマエにコーヒーを注文される前に、勝手に出したのだ。

――俺は、きっとナマエにコーヒーを飲んで欲しくなかったのだと思う。

俺がナマエに「甘ったるいもんしか飲めねえガキが」と言ったところから、少しずつ、まるでロボットの部品が一つずつぽろぽろと落ちていくように、俺達の関係は崩れていったのだ。
ナマエが飲めなかったコーヒーを飲めるように練習をして、そこから少しずつ。

いや、コーヒーなんてただの切っ掛けで、俺がナマエと上手く向き合えずにナマエを傷つけ続けた、というのが真実だ。
だが俺の中では、コーヒーは壊れたナマエの象徴のような気がしていたのだ。

「ううん、嫌じゃないです。嬉しい」

ナマエは素直に笑ってココアのカップを両手で包み、湯気から立ち上るカカオの香りを鼻から堪能した。



今日来店してからのナマエはずっと昨年の春に戻ったように穏やかで、俺達の間の空気もそれに従って穏やかだった。
そんな可能性はないのに、もしかしたら優しくて温い関係をもう一度築けるのではないかと錯覚してしまうくらいに。

自分から散々ナマエを突き放しておいてよくそんなことを思えたものだ。
今世のナマエを愛していながら臆病で向き合えず、ナマエを傷つけ続けた俺が、よくそんなことを。



「今日、私店長にお知らせしたいことがあって。それで今日来たんです」

ものやわらかなナマエから突然発せられた言葉。
思わず眉間に皺が寄る。

俺の不心得な錯覚はやはり幻想だった。
思った通りだ、ナマエが何もなくフライハイトに来るわけがない。以前のようにただ茶を飲むために来るわけがないのだ。
何を報告されるのか。
ファーランか、ジャンか、他の男か。

胸の内の動揺が外に漏れ出ないように必死だった。
外から見ただけでは分からないだろうが、口の中で必死に奥歯を噛みしめている。
ナマエは俺の動揺など知らず、にこにことした笑顔のまま言葉を紡いだ。

「私ね、マリア大に進学するの止めたんです。4月からアメリカに行くことにしました」

予想と全く違う物だった報告に、俺は思わず大声を出した。

「……あ、アメリカ!?」
「はい。4月に渡米して、語学研修を半年間するんです。それで9月から、ジェラルド・マスターズ大学の正規学部生として入学します。向こうは9月が新学期だから」
「オイオイオイオイ待て待て」

ペラペラと説明を進めるナマエを遮る。
右手を額に当て懸命に状況を整理しようとするが、思考が全く付いてこなかった。



「笑わないで聞いてくれますか、店長」

俺は額に手を当て混乱したまま、莞爾として笑うナマエを見た。

笑っているのはナマエ、お前だろ。
恐ろしく整った顔で女神のような笑みを浮かべやがって。
俺はお前の言うことを、絶対に笑ったりしない。

ナマエのその美しい笑顔は優しくて、温かくて、甘酸っぱくて、見る者の目を奪う。
キラキラした顔だ、眩しいくらいに。
瞳は、最近ぐっと春めいてきた日差しにも負けないくらいに煌めいている。
夏の頃の、あの生気がない顔を知っているから、余計に今の笑顔を愛しく感じる。
こんなに優しい、それでいて生き生きとした笑顔をしているナマエを、とても喜ばしく思うのだ。

それなのに、混乱している脳内は素直に状況を受け入れられない。
俺は声も出ずただその場に立ち尽くしていただけだった。
俺の無言を了承の意と受け取ったのか、ナマエは話し始めた。



「私ね……将来作家になりたいんです。文章を書くことを生業としたいの。
夢みたいな話だって思いますよね、物書くことで成功している人間なんて一握りしかいないんですから。でも、私は本気でそう思っているんです。もう両親にも言いました」

窓から入り込む冬と春の中間の日差しが、ナマエの顔を照らす。
ナマエの頬は桃色に染まっている。生気に満ち溢れた、若者の顔。

「私、書くことが好きなんです。でもこの冬くらいからかな……書けば書くほど、書きたいだけじゃ駄目なんだ、足りないんだって痛感していました。今の私じゃ見聞も経験も足りな過ぎて……。
私、一人暮らししたこともないし、バイトすらしたことないんです。私の知っている世界は小さすぎるんです。書いていて、自分の知識と経験のなさを思い知らされました。
だから若いうちに広い世界でいっぱい勉強して、いっぱい人生経験積もうって思ったんです。
外国で生活すれば、嫌でも今まで知らなかった世界を見れるでしょ。私アメリカに行って、新しくて厳しい環境に身を置いて一人で頑張ってみようと思って。英語も喋れるようになりたいし。きっと大学を卒業してこの国に帰ってくるころには、今の私にはない知識と経験を得られているはずです。
知識も経験も、書くことの直接的な糧になります。
作家を目指す上で、今の私にとっては留学がベストな進路だと思ったんです」

そこまで言うと、ナマエはふふっと声を出して笑った。

「……何か語っちゃった。やっぱ笑っても良いですよ」

はにかんだ顔をして、カウンターの中で立ち尽くす無言の俺を上目で見る。



俺は調理台に手を置いたまま、声が出なかった。

ナマエの背中を押して応援してやればいい、そうするべきだ、簡単な事じゃねえか。
そう思っているのに喉が開かない。舌も動かない。
声を出すのに、こんなに不自由するなんて。

「……アメリカか」

絞り出した台詞はなんとも間抜けで、短く、応援にも激励にもならない物だった。

「はい、アメリカです」

それでもナマエは笑顔のまま返す。

「……遠いな」
「遠いですよね。私の行く予定の大学、最寄りの空港はワシントン・ダレス空港って言うんですけど、直行便でも12時間以上かかるんですよ」
「……そうか」

そこで、とうとう言葉が尽きてしまった。
何とか会話を繋げようと、何か喋ろうと、口を開く。だが俺の喉からは何も言葉が出てこない。
なんでこんなに口下手なんだ。どうにかして気のきいた言葉を言えないのか、エルヴィンのように。
手前にイライラしながら、結局俺はただ腕を組んでいただけだった。

ナマエは少し俯くとテーブルの上のココアを見つめ、カップを両手で包む。
そっと持ち上げて、ゆっくりと口を付けた。

「……美味しい……」

果実のように瑞々しい唇から、まるでひとり言のようにこぼれたのは、ココアを褒める言葉だった。
――ナマエが初めてこの店に来たとき、やはりココアを飲んで「美味しい」と口からこぼしたのだ。
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。今世のお前にやっと会えたあの日のことを、忘れられるわけがない。

「やっぱり私はコーヒーより紅茶より、ココアが一番好きだな。
ふふふ、意地を張らないでずっとココアを飲んでいれば良かった。店長の淹れるココア、大好きでした」

そう言って顔を上げにっこりと俺に向かって笑顔を見せると、もう一度カップを煽る。
ナマエはココアを飲み干した。



『店長の淹れるココア、大好きでした』

「でした」って、なんだ?
もう俺はお前にココアを淹れられないということか?




   

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