第十一章 三月 ―前編―





03




「スマホはそのまま使えるんでしょ?連絡先変わったりしないよね?」

駅に着いたところで、ファーランさんが訪ねてきた。
現地用に新しくスマホを買うかもしれないが、今使用している物もそのまま使えるはずである。

「うん、それは大丈夫」
「じゃあまあ、いつでも連絡は取れるわけだ」

雑踏の中で微笑む彼には、人混みの中でも目立ってしまう華がある。
スラリとしたモデル体型に端正な顔。
こんなに素敵な男性、私には勿体なさすぎる。

「……いつかきっと、アメリカに遊びに行くから。ナマエちゃんの友達として。その時まで、待ってて」

ファーランさんは形の良い右手を差し出した。
白い肌に青い血管が少しだけ透けて見える。

「うん。……ありがとう、ファーランさん」

右手を重ね、私達は固く握手を交わした。
ファーランさんの骨と血管でごつごつした手は、とても温かかった。



ファーランさんは最後まで、私よりも私のことを理解していた。
私が、自身の奥にしまい込んで見ないように目を背けていた事を、あの人はいとも容易く見抜いてしまう。



私はその晩、ベッドの中で、ファーランさんとの日々を反芻した。
彼のことを恋愛の対象として好きになることはできない。今後も、ずっと。
そして私は、彼の事を傷つけた。きっととても深く。

それでも、彼と過ごした時間は確かに楽しかった。
他愛もないおしゃべりをして、一緒にお茶を飲んで、ご飯を食べて。
それはきっと、ファーランさんが私のことをとても理解してくれていたからだろう。



店長と離れることに、何も思っていないわけではない。
何も思わないわけがない。

この国とアメリカはそう簡単に行き来ができる距離じゃない。
店長にはもう本当に会えなくなるだろう。会おうと思っても、それが簡単に叶う距離じゃなくなるのだから。もちろん、寂しいに決まっている。

寂しい。それは間違いない。だが寂しさは、私の感情の半分にすぎない。もう半分は違う感情だ。

――もう半分は、安堵だ。

国外に行って視野を広げたい、将来に生かしたいというのは本当だ。
両親と一緒に、本当にその道がベストなのかと何度も何度も考えた。だが何度考えても、最後には「留学」というその選択に辿り着く。
それが私の将来を考える上でベストな選択である何よりの証拠だ。

だが、もう一つ。
私が心の奥で考慮していることがあった。
それが、店長の存在だった。

この町で、フライハイトのあるこの町で。あの人とどこかですれ違うかもしれないこの町で。
報われない思いを抱えたまま生活していくのは、やはりしんどい。
店長やフライハイトと物理的に離れて、どうやっても会えない距離に自分を置こうと、そしてまったく新しい生活環境に自分を置いて、心機一転再出発を図ろうと、どこかでそう思っていたのだろう。
自分自身でもはっきりと認識するのを避けていたのだと思う。だがファーランさんは見抜いていたのだ。



ベッドの中から天井を見上げる。
天井が低い。私の家は他の住宅と比較してそう小さな物ではないと思うが、それでも天井が低いと感じる。
実際に見たことがないからよくは分からないが、他の先進国の住宅はもっと天井が高いそうだ。

狭いこの部屋から飛び出して、
狭いこの国から飛び出して、
いっぱい、いっぱい世の中を見て、全部自分の血肉にするのだ。

私はきっと大丈夫だ。
この先、もうこんなに人を好きになることはないと思う。

この叶わない想いを綺麗な結晶に変えて、心の中の宝物箱に大切にしまおう。
しまった宝物を心の糧にして、私は自分の人生を自分の足で歩いて行けるようになろう。
自分一人の足で立って、自分一人の目でたくさんの物を見て、
時々倒れてしまいそうになったら、そっと宝物に触れよう。
きっとまた力が湧いてくるはずだ。
そうして私は、自分の夢を自分の力で叶えるのだ。

私の未来は、こんなにも希望に溢れている。
本当に心からそう思える。



渡米を報告しなければならない人、最後の一人。
想いを結晶にする前に、きちんと報告する。
それが彼と、自分の想いに対するけじめになるだろう。

明日フライハイトに行こう。

そう決心して、私はベッドサイドのライトを消した。



* * *



午前10時。フライハイトの開店の時刻だ。
シャッターを開け、カーテンを開け、店内の照明のスイッチを入れる。
まあ10時に開店したところでそんなにすぐに客は来ない。
モーニングはやっていないし、午前中は本当にぽつぽつと数人客が入るくらいだ。全く入らない日もある。
ランチタイムがやってくるまでは大抵いつも暇にしていた。

俺はカウンターの中に座って、一人紅茶を飲んでいた。
自分で選んだ茶葉で自分のためだけに淹れた紅茶を飲みながら、窓の外の春の気配を眺める。



3月上旬、まだうすら寒くコートは手放せないが、「冬」と呼ぶのが適当な季節ではなくなった。寒いながらも空気は確かに次の季節の匂いを含んでいる。
空気というか外気温そのものもそうだが、人々の気配も春のそれだった。

3月は年度末でもある。
忙しい時期を迎えている企業も多いだろうし、年度の入れ替わりは異動なども多く別れの季節でもある。
学生においては卒業シーズンだ。近隣の高校3年生は卒業を間近にしてもう春休みに入っているのか、最近は日中でも高校生らしき少年少女が堂々と街中を闊歩していたりもする。
春の到来に、なんとなく街並みがそわそわしているように感じられた。

ナマエももう高校卒業だ。
マリア大は間違いなく受かっているはずだ、もうきっと結果は出ているだろう。

あいつは文学部に進学するらしいから学部は違うが、薬学部のハンジと出会えることはあるだろうか。
アルミンの話では、ハンジも前世の記憶はないらしい。だが、前世であれだけ仲の良かったナマエとハンジだ。きっと今世でも良い仲間になれるのではないだろうか。
大きなお世話だと分かってはいたが、そんなことをぼんやりと考えていた。



俺のおせっかいな思考を遮るように、カランカランとドアベルが鳴った。
珍しいことだ、まだ開店して10分と経たない。こんな早い時間からお客が入ることはそうそうない。

「いらっしゃい」

そう言いながらカウンターから出て行く。

息を呑んだ。
そこに立っていたのは、はにかんだような笑顔のナマエだった。

「……こんにちは」
「……ああ……」

思いも寄らない客だった。
こんにちは、と言われたんだから返せば良いのに、声は喉にへばりついてスムーズに出ない。
やっとのことで返した返事は、いつも以上にひどく無愛想な声だった。

「あの……座っても良いですか?」

俺の無愛想な声色に怖気づいたのか、自身を招かれざる客と思ったのか。ナマエは、笑顔を曇らせて遠慮がちに言った。

「何言ってる、良いに決まってるだろ。客だろお前は」

慌てて言葉を紡いだが、やはりぶっきらぼうな声になってしまう。
愛敬の一つも振りまけない自分に心の中で舌打ちをする。
ナマエの来訪には驚いたが、決して拒んでいるわけではないのだ。
寧ろ、もう会えないと思っていた顔が見られて嬉しいと思ってしまっている。

ナマエはやはり遠慮がちに笑って、いつも座っていたカウンターの席に腰かけた。
上に着ていたベージュのダッフルコートを脱ぐと、中から春色のニットが現れた。ああ春なんだな、とこんなところでも妙に季節を実感してしまう。



12月25日に俺の家に来て以来、ナマエに会うことはなかった。
ナマエがフライハイトにやってこなければ、俺との接点などない。連絡先の交換すらしていないから、あの後ナマエがきちんと家に帰ったのか確かめる術も無かった。



「久しぶりだな、元気だったか」

俺は精一杯の愛想を込めて、カウンターの中からナマエに声を掛ける。

「はい、元気でした」

俺の声にナマエは曇っていた顔をぱあっと晴らせ、華のような笑顔を浮かべて答えた。



――ああ、美人だ。

お前はなんでこんなに見目が良いんだろうな。前世からそうだった。
前世で初めてお前を見た時に、兵士なんかじゃなくて女優のようだと思った。
今世では少しぐらい顔が崩れて転生してくれりゃ良いのに、そうはいかなかった。
前世と全く同じ顔で転生しやがって、結果高校で3年連続ミスに選ばれるくらいの有名人になっている。その顔で男を寄せ付けて、ジャンやらファーランやらに好かれている。
もちろん、ナマエの魅力は顔だけじゃない。そんなことは分かっているが、もう少しナマエの美貌が曇っていれば必要以上に男を寄せ付けないだろうに。
そんなことを女々しく思っていた。

「高校の卒業式は終わったのか?まだか?」

俺は平静を装って、至って当たり障りのない会話を振る。
まさかナマエがまたこの店に来てくれるとは思っていなかったから動揺していたが、必死にそれを悟られないようにした。

「明日です。明日が卒業式で、明後日から春休み。まあ3月の頭からもう授業はなくて、今既に実質春休みなんですけどね」
「そうか」

俺は棚から小鍋を、冷蔵庫からミルクとバター、生クリームを取り出しながら答えた。




   

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