第十一章 三月 ―前編―





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* * *



渡米をきちんと報告しなければいけない人、二人目。
ファーランさんだ。



ファーランさんと最後に会ったのは12月25日、あのクリスマスの日。
翌日の12月26日、ファーランさんから「ごめんね」とメッセージが来た。
たった一言「ごめんね」。それだけだ。

ファーランさんが何に謝っているのかはよくわからない。だってファーランさんは謝るようなことをしていないのだから。
思い当たる節があるとしたら、一つだけ。
私とファーランさんは「友人」としての関係だったのに、彼から「好きなんだ」と恋愛感情を告白された。
結果として私達の友人関係は壊れたわけだが、そのことを指しているのだろうか。
だとしたら、謝るべきは私のほうだ。
私はファーランさんとの心地よい友人関係に胡坐をかいて、彼の真意にこれっぽっちも気づかなかった。超鈍感な大馬鹿野郎だ。結局彼を傷つけている。

ファーランさんには「こちらこそごめんなさい」と、やはり一言だけを返信していた。
それ以来、私達二人は連絡を一切取り合っていない。
以前はファーランさんから定期的にメッセージが来ていたが、それもパタリと来なくなった。友人関係が壊れたのだから当然と言えば当然だ。



私は久しぶりに、ファーランさんにメッセージを送った。スマホを弄る指が気まずがっている。

『お久しぶりです。ご報告したいことがあります。できれば会ってお話ししたいのですが、お会いできますか?』

送信してすぐに既読が付き、三分もしないうちに返信が来た。

『久しぶり。大丈夫です』

私達のメッセージは、随分と他人行儀な物になっていた。



ファーランさんと待ち合わせたのは、何度も一緒に来たコーヒーショップだ。
ここで何回お茶をしただろう。
窓際のソファ。座るのはいつも決まってこの席だ。
飲むものもいつも決まっていた。ファーランさんはコーヒー、私はキャラメルフラペチーノ。
煙草を吸う習慣のあるファーランさんに、喫煙スペースでも構いませんよと何度も提案したが、ファーランさんは頑なにそれを受け入れなかった。



「ナマエちゃんに呼び出されたのは、これで二回目かあ」

ここに座る時はいつもそうであったように、ファーランさんはソファにどっかりと座り、背中を背もたれに深く預ける。

二回目、というのに疑問を抱いた。ファーランさんとはしばしば会っていたし、ここのコーヒーショップでお茶をしたことも何度もある。
私から呼び出したのがたった二回だなんて、そんなに少なかったのだろうか。
疑問が顔に出てしまっていたのだろう。ファーランさんは私の顔を見てハハハと苦笑した。

「いや、本当に二回目なんだよ。やっと二回目。
ナマエちゃんは気にもしてなかっただろうからピンとこないんだろうけど、俺は君に呼び出されるのを心待ちにしてたんだから」

眉をハの字にして笑うファーランさんの顔。私は何と言って良いかわからず黙っていた。

「ナマエちゃんが初めて俺を呼び出したの、いつだったか覚えてる?
同じ高校の男の子と付き合うって報告された時だよ。もう会えないって言われて、俺がどんなに気落ちしたか。
ナマエちゃんのほうから呼び出されたのって、今日を除けばその一回だけなんだ。ナマエちゃんとは何回も一緒に出掛けたけど、いつも俺から誘うばっかりだったからさ」

ファーランさんの口調は、カラカラと明るい物だった。
だが、私は自身の無神経さと鈍感さを突き付けられているようで居た堪れなくなる。何も言えないまま小さくなり、最後には俯いてしまった。
私の顔が下を向いたのに気付いたファーランさんは、慌てて弁解する。

「そんな下向かないでよ!責めたくて言ったわけじゃないんだ、ごめん!
もう笑い話にできるくらいには、俺も回復してるって言いたかっただけ」

ね?と下を向く私をファーランさんの端正な顔が覗き込む。
うん、と私は言って、もう俯くのを止めた。

「……で、今日は何の報告?言いたいことがあるから俺を呼び出したんでしょ?
とうとうあのおにーさんと付き合うことになった?」
「いえ……それはないんですけど」

コーヒーを啜りながら尋ねたファーランさんに私は苦笑して答えた。

「私、来月渡米することになったので、その報告とご挨拶をと思って」
「――はあっ!?」

ファーランさんはゲホゲホッと派手にコーヒーで咽せて、右手に持っていたカップをテーブルに置いた。

「ト、トベイって……渡米?アメリカってこと!?」
「はい」
「え、旅行とかの話じゃないよね?向こうに住むってことだろ?留学?」
「はい、そうです。アメリカの大学に進学することにしました」

矢継ぎ早に尋ねてくるファーランさんに私は一つ一つ答えた。

「マリア大文学部に行くんじゃなかったの?」
「12月までそのつもりだったんですけど、真剣に将来のこと考えて、両親とも相談して、このタイミングで留学することに決めたんです。
私今までぬるい環境で生きてきて、世間のこと本当に何にも知らない子供だから……大人になる前に、今までと違った環境に身を置いて視野を拡げたいと思って。
マリア大は合格していたんですけど、蹴りました」
「……あんな偏差値高い大学を蹴っただって?君ねえ、今まだ進路の決まっていない全国の受験生を全員敵に回したからね」

ファーランさんは額に手を当て苦笑している。
私も笑って、キャラメルフラペチーノを一口飲んだ。蓋も開けて、クリームをストローで掬って舐める。美味しかった。

この店に来る時はいつも、ファーランさんがこのキャラメルフラペチーノをごちそうしてくれた。
奢られるのがあまり得意ではなかったから何度も遠慮したけど、「食事は奢らせないんだからお茶くらいは奢らせてよ、俺のカッコがつかないから」とファーランさんにいつも押し切られていた。

きっともう、ファーランさんとこの店でこうしてお茶をすることもない。
これが最後かもしれない。

「……そっか〜〜アメリカかあ〜〜。
ナマエちゃんってさあ、行動力あるよね。良くも悪くも」

ファーランさんのその言葉を聞いて、思わずブッと噴き出してしまった。

「それ、つい最近おんなじこと言われました」
「誰に?」
「元彼に」
「そっか、そいつもナマエちゃんのこと良く分かってるな」

ファーランさんは歯を見せて笑った。私もつられて笑顔になる。

「もうどこの大学に行くかは決まってるんでしょ?」
「はい。ジェラルド・マスターズ大学です」
「……どこ?それ」
「ヴァージニア州。ワシントンの近く、って言ったらわかりやすいかな」

へえー、とファーランさんはソファの背もたれに再び深く背を預けた。

「俺遊びに行こっかな、アメリカ。ナマエちゃんとこに」
「是非来てくださいよ!私、案内できるようになっておきますから!」

私はキャラメルフラペチーノのカップをテーブルに置いて、前のめりになった。
浅はかなことに、ファーランさんのその言葉を聞いた瞬間、崩れてしまった彼との友人関係が再び築けるかと思ったのだ。
だが、ファーランさんはまた眉毛をハの字にして苦笑する。

「……すぐには行けないよ。流石に俺でもね」

え、と私の眉毛もハの字になる。

「俺がちゃんと、ナマエちゃんを友達として見れるようになったら。友達としてやっていける自信がついたら、お邪魔するよ、アメリカ」
「……」

また無神経なことを言ってしまった。私は申し訳なさと情けなさで再び俯いてしまう。

「そんな顔しないで。顔上げてよ。ナマエちゃんにそんな顔させたいわけじゃない」

ファーランさんは明るく言う。

「ただ、事実としてさ。ナマエちゃんのことを今すぐ完全に友達として見ろって、それは無理な話だよ。そんな中途半端な気持ちで、ナマエちゃんのこと好きだったわけじゃないから。
こういう気持ちって、あのおにーさんのことをずーっとずーっと好きでいるナマエちゃんが一番良くわかってるんじゃないの?」

わかる。良くわかる。
すぐに恋愛感情を、それを含まないただの親愛の情に差し替えることができるなら、きっとそれは恋愛感情ではない。
そういう器用なことができなくなるのが恋なのだと知っている。

「……それでもさ」

ファーランさんはテーブルの上のカップを手にすると、一口コーヒーを啜った。
カタリ、とカップをテーブルに置いて私に笑顔を向ける。

この優しい笑顔が大好きだ。
この人も優しい人だ。

「俺達、一緒にいて楽しかったじゃん。少なくとも俺はそう思ってる。
だから、またナマエちゃんと友達になれるように努力はするからさ。
ナマエちゃんが大学に在学している間に、アメリカに遊びに行けたらいいな」
「……うん……」

私が頷いたのを見て、ファーランさんは満足そうな顔をした。

決して褒められた出会い方じゃなかったけど、この人に会えて本当に良かった。
心からそう思う。



「ナマエちゃん、アメリカに行くのはもちろん自分の将来のためなんだろうけど……本当にそれだけかな?」
「え?」

その質問は唐突過ぎて意味が一瞬理解できず、私の口からは間抜けな声が出た。

「あのおにーさんのことは関係ない?」

ファーランさんは少しだけ意地悪い顔をした。
まるで子供の嘘を見透かして、その上で甚振るような。

「……」

突然店長のことを出され、私は声を失った。

ファーランさんは優しい人だ。それは間違いない。ただ、聡すぎる。
自分でも知らず知らずのうちに見て見ぬふりをしてきたことを、この人は逃してはくれないらしい。

私は一回、ふう、と小さく深呼吸し、自らの呼吸を整えた。

「――本当に、将来を真剣に考えました。留学は自分にとってベストの選択だと思っています。
もし『この世』にあの人がいなかったとして……自分の将来と真剣に向き合ったならば、私はやっぱりこの進路を選択していたと思います」

そう、とファーランさんは言った。

私が言った『この世』の本当の意味を、彼は多分わかっていない。
ファーランさんは恐らく単純に「この世界」の意味に取ったのだと思う。もちろん、それでも意味は通るし間違っていない。

私の言っていることは嘘じゃない。
本心から言っている。
ただ、これが私の感情の全てでもない。

「これは紛れもない私の本心です。でも……。
ファーランさんには敵わない。きっと、私のことなんて全部お見通しなのかもしれない」

はは、と私の口から笑いがこぼれる。

「あの人から物理的に離れることに、何も感じていないって言ったら……それは、嘘です」

私はそこで口を閉じた。
私を想ってくれているファーランさんの前でそれ以上言う気にはなれなかった。

「そっか……そっか。……そうだよな」

ファーランさんの穏やかな声が、コーヒーの香りと共に空気に溶ける。

しばらくそのまま向き合ったままソファに腰掛けていたが、そのうちに互いのカップが空になった。
多分ファーランさんから先に立ち上がったのだと思う。
私達はコーヒーショップを後にした。




   

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