第十一章 三月 ―前編―





01




2月の終わりにやっと進路を決めた私は、クラスの中でもかなり進路決定が遅いほうだった。
他大学を受験する者は3月中旬、遅ければ下旬まで進路が決まらない者もいるが、大半がマリア大に内部進学するこの学校においてはかなり少数派である。

私の進路が決まるまでは静かにしてくれていた友人達だが、進路が決まった途端もう遠慮は無用だと、こぞって遊びに誘ってくれた。ショッピング、カラオケ、遊園地。4月に渡米すれば、もう今までのように簡単には会えなくなるというのもあるのだろう。
高校生活最後の春休みを、私は毎日のように友達と遊び歩いた。楽しかった。
夏休みに友人の誘いを全て断ってしまったことが、今となっては本当に悔やまれる。
あの頃、知らない男と身体を重ね合わせてばかりで、高校生らしい遊びを何もしていなかった。夏祭りも、音楽フェスも、全部ふいにした。
私は、その夏休みの分を取り戻すかのように、そして友人たちにしばらく会えなくなる分を先に埋めるかのように、友達と一緒に過ごした。

両親はそんな風に遊び歩く私を見て、寧ろ安心した顔をしていた。
夏から秋にかけての私の変化にはやはり気づいていたのだろう。きっと相当心配していたのだと思う。



友達と一生懸命遊ぶ以外にも、もう一つ。私には春休み中にどうしてもやらなければいけないことがある。

私の進路のことはクラスメイトには自然と伝わったし、仲の良い友達にはもちろん直接報告もした。
だがクラスの友達以外にも、4月に渡米することを、私の口からきちんと報告しなければいけない人がいる。



一人目。
ジャンだ。



ジャンとは、11月に別れてから個人的な交流はない。
校内で時々すれ違えば互いにぎこちない笑顔と挨拶を交わしたりはしたが、会話に繋がることはなかった。
3年生は実質春休み中だが、1年生と2年生は3月の下旬にある終業式の前日まで授業があり、春休みがやってくるのはその後だ。
私は昼休みの時間を狙って、ジャンのいる1年4組を訪れた。

どう声を掛けようか、誰か気づいてくれないかな、と廊下から教室の中を覗いていた私を、アルミンがいち早く見つけてくれた。さっと教室の中から出てきてくれる。

「ナマエ先輩!珍しいですね」
「アルミン、久しぶり」

ジャンと別れてからというもの、ジャンと仲の良いアルミンともなんとなく疎遠になってしまっていた。こんな風に正面切って目を合わせるのはかなり久しぶりだ。

「どうしたんですか?誰かに用事ですか?」
「うん……あのね、アルミン。
一応報告しておくんだけど、私来月から渡米することになったの」
「……えっ!?渡米って、アメリカ!?留学するってことですか?」
「うん、そうなんだよね」
「わあ、進路決定されたんですね!おめでとうございます!」

アルミンはまるで女の子のように大きな目を更に見開いて喜んでくれた。

「でも、僕ナマエ先輩はマリア大に行くものだとばかり思っていました。まさか留学するなんて、びっくりです」
「うん、まあ、私も結構急に決めたことで……秋まで?くらいは、マリア大しか考えてなかったんだけどね。
それでね……ジャンにはきちんと伝えておきたくて」
「ああ……そうですよね……わかりました。ちょっと待っててください、今呼びますから」

アルミンは顎に手を当て頷くと、教室の中に入っていった。
自席にいたジャンに声をかける様子が、ここからも見える。

しばらくするとアルミンと入れ替わりにジャンが廊下にやってきた。
おずおずと、その足取りは軽やかとは言い難い。
私の前で足を止めたジャンに向かって笑顔を向ける。

「久しぶり、ジャン。呼び出してごめんね。直接話しておきたいことがあって」

ジャンはぎこちない笑顔を浮かべ、右手で頬をぽりっと掻いた。

「……ああ、はい……あの、場所変えてもいいっすか?」

そう言って気まずそうな視線を教室のほうに向けた。教室の中からは好奇の目を痛いほど感じる。
そりゃそうだ、クラスメイトの別れた彼女がやってきて、その別れた相手を呼び出したのだ。
うんと頷くと、ジャンはこっち、と言って私の手を引き歩き出した。
教室の中からは、おおお、と冷やかしの声が聞こえてきたが、ジャンはそれを無視してずんずんと廊下を進んだ。



廊下を進み、階段を上り、やってきたのは屋上だ。夏は暑く冬は冷えるので、いつもほとんど人がいない。

「ごめん、こんな寒いところまで連れて来て。教室だとあいつらうるさいんです……」
「ううん、こっちこそ突然呼び出してごめんね」

3月の上旬、まだ風は冬の匂いを多分に含んでいる。
暦の上ではとうに春だが、実際に春の到来を肌で感じられるのは、例年3月の下旬になってからだ。
ジャンの言葉は付き合っていた時にそうであったように、敬語とタメ口が混在していた。

私は、フェンスを背にしたジャンの正面に立った。
冷たい風で髪の毛とスカートが靡く。ジャンのブレザーの裾もぴらぴらと風に靡いている。
私は風で唇に貼りついた自身の髪の毛を剥がしながら言った。

「あのね、私進路決まって。ジャンには直接報告しておきたくって」
「え……進路って、マリア大文学部ですよね?ナマエ先輩なら間違いなく合格だから、何にも心配していませんでした」

ジャンはそう言ってハハハッと笑う。
彼の屈託のない笑顔は素敵だ。
ジャンは優しくて、人の機微に敏くて、視野が広い。贔屓目なしに見ても本当に素敵な男性だ。

「ううん、違うの。私、マリア大にはいかないんだ」
「えっ!?」

私の報告に、ジャンは笑顔から一転、ぎょっとした顔をする。

「私、アメリカに行くの。来月渡米して半年間語学研修をしてね、9月から正式に大学生になるんだ。向こうの新学期は9月からだから」
「ア、 アメリカ!?向こうの大学に進学するってことですか!?」
「そう」
「……」

ジャンはそこで黙ってしまい、私達の間には沈黙が流れた。
冷たい風は吹き続け、相変わらず私の髪とスカートを揺らし続けている。私はスカートの下から出た脚が冷えてきたのを感じていた。

「……そっか……アメリカか。アメリカかあ……」

漸く声を出したジャンは空を仰いでそう呟く。
しばらくそうやって空を見上げていたが、急にくっと顎を下げ、笑顔で私を見据えた。

「ナマエ先輩、進路決定おめでとうございます。
でも、どうして急にアメリカに留学することにしたんですか?」
「うん……私ね、真剣に自分の進路考えた時に、もっと視野を広げたいと思ったんだ。
外国に住むって、絶対間違いなく視野広がるじゃない。私、英語だって受験英語しかできないしさ……。
完全に大人になっちゃう前の今、チャンスだと思ったの。12月くらいかな、思いついて。それからすぐ資料請求して調べて、結構直近なんだ、決めたの」
「……そっか……ははっ」

ジャンは笑って、ぐるりと後ろを向き私に背を向けた。
冷たい空気に晒されて冷えているコンクリートの上を一歩、また一歩と、フェンスに向かってゆっくりと歩き出す。

ジャンの足がフェンスに到達した。
両手を針金でできたフェンスに掛ける。ガシャンと古びたフェンスが鳴る。

ジャンはフェンスの向こうに広がる街並みを眺めながら言った。

「ナマエ先輩って、何て言うか……あれですよね、行動力ありますよね。良くも悪くも」
「ええ?」

褒めているのか貶しているのかわからないジャンの背中に、私は笑いながらそう返す。

「だって、いきなりアメリカですよ。俺びっくりしたよ……。
他にも色々あるけど。好きな人のためにナンパで処女捨てちゃうとかさ」

私は返す言葉が無く、ただハハハと苦笑するだけだ。

「……ナマエ先輩、あの……」

ジャンはもう一度こちらを振り向き、フェンスを背にする。

「うん?」
「先輩、今は……その、ナンパに付いて行ったりは?」

ジャンのその目に一抹の不安が垣間見られた。

きっとこの人は本気で私のことを心配してくれている。
優しくて、お人好しのジャン。

「してないよ。全然してない」

今度は苦笑ではなくはっきりとした笑みで答えた。
ジャンを不安にさせないように。

「そっか、良かった」

ジャンも白い歯を出してにっこりと笑った。

もう行きましょうか、とジャンは出入り口に向かって歩き出す。
その時一際強く風が吹いた。ジャンはズボンのポケットに両手を突っ込み、いかにも寒そうに肩を竦める。

「ジャン、あのね」

私の呼び掛けに、ジャンの足が止まる。
ポケットに手を入れたまま、ゆっくりとこちらを向いた。

そのまま視線がぶつかる。
私達の耳に入るのは、風の音だけ。

「……私を好きになってくれてありがとう。
私、自分自身のことをきちんと考えないまま安易にジャンと付き合って、ジャンを余計に傷つけた事、今でも申し訳なく思ってる。
……でも、ジャンが私を本気で好きになってくれて、私に本気で向き合ってくれたから……私は、私の気持ちと本気で向き合うことができたんだと思う。
ジャンのおかげです。……感謝してる」

ジャンは、今度は歯を見せることなく、ほんの少しだけ口角を上げた。

「ナマエ先輩」
「うん?」



「ナマエ先輩は今、幸せですか?」

彼の口から発せられたのは、思いがけない質問だった。



幸せか?
――改めて聞かれて、そう言えば考えたことがないと思い至った。

考えたことがない。だから、今考えた。
答えはすぐに出る。



「その『幸せ』っていうのが、好きな人と付き合っているかって意味だったら、それはないよ。きっと未来永劫ない。
私の想いは受け入れてもらえることはないって分かっているから」

それは私の口から自然に出た言葉だったが、こうやって声に出して自分の耳で聞いてみると、思っていた以上に辛辣なものだった。

「でもね」

これは、強がりじゃない。
心が温かいと、きっと人間は自然と笑顔になるのだ。

「私、幸せなんだ。
今、自分の気持ちが自分ではっきり分かるし、もうぶれることはないから。
幸せだよ」

私は最高の笑顔で笑えるのだ。本当に幸せだから。

「……そっか。良かった」

ジャンも笑顔を浮かべる。
その口元からは、再び白い歯が覗いていた。




   

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