第九章 十二月





08




何で……何で、今世のナマエが俺の誕生日を知っている?
俺は今世のナマエに誕生日なんて言ったことはない。それは確かだ。
考えにくいが……エルヴィンか、アルミンあたりから聞いたのだろうか?それとも――



「この世界に生まれてきてくださって……
そして、もう一度私と出会ってくださって……感謝しています、本当に。
ありがとうございます」

「もう一度私と出会って」?
俺の足は僅かに震えた。

ナマエは満面の笑みを携えたままで、その美しい顔には慈愛と慈悲の色が加わっている。

「……ナマエ……?」

声が、掠れた。
足が震えそうで、立っているのがやっとだ。
俺を知っている、前世のナマエなのか?

「……どうしても、……これを伝えなきゃいけないって……
店長が生まれた特別な日に、どうしても伝えなきゃいけないって、思って……
きっと、私の中の『ナマエ』さんが……」

ナマエの笑顔が震え始めた。目には涙がみるみる溜まる。
歪んだ笑顔はとうとう崩れ、ナマエが瞬きをすると目尻から涙の雫がぼろりと落ちた。
雫はナマエの白い頬にまっすぐ線を引き、しかしその弾力のある白い頬は雫を弾き返す。

一度こぼれた涙は止まらなかった。
次から次へと、目尻から頬へ向かって溢れつづける。
頬が弾き返した雫が蒸発する前に新たな水跡が次々に引かれていき、ナマエの頬は涙でぐしょぐしょに濡れた。

「違うの、ごめんなさい……私、『ナマエ』さんになれたわけじゃないの……」

やや下を向いたナマエは、ひっく、ひっくとしゃくり上げながら、それでも嗚咽混じりの声で続けた。

「記憶が……戻ったわけじゃないの。リ、ナマエさんになれたわけじゃ、ひっ……、ないの。
た、誕生日くらいしか……思い出せないの。
兵舎?で……な、なんか、メガネを掛けた女の人とか、大柄の髭の人とか、優男風の人とかと……クリスマスツリーみたいなのを作ってて……」

メガネの女、大柄の髭、優男風。
ハンジ、ミケ、モブリットのことだ。
いつだったか、兵舎の談話室に今でいうクリスマスツリーを作って、誕生日を祝ってもらったことがあるような……よくは覚えていないが、そんなことがあった気がする。

あんなに仲の良かったハンジのことも、「メガネを掛けた女の人」、だ。やはり全てを思い出したわけではない。
ナマエは、ほんの一部の記憶だけを断片的に思い出したのだ。

「て……店長の、誕生日が12月25日だって……冬のお祝いと誕生日祝いと一緒にやろう、ちょうどいいねって……わ、私達……笑って……
ごめんなさい、記憶が蘇りそうになる度に、い、一生懸命、思い出そうと……ひっ……してるんです……
でも……大事なことは何一つ……思い出せない、んですっ……
思い出そうとしてるのに、体が邪魔をするの……」

ナマエは泣きながら訴え、そこで突然言葉が途切れた。嗚咽も止まった。
次の瞬間みるみるナマエの顔色が青ざめていき、ナマエは両手で口を覆った。

「――うっ」

そう呻き、一歩後ろに下がったかと思うと、両手で口を覆ったままぐるりと勢いよく後ろを向いた。
嘔吐を堪えているのだ。

「おい!?大丈夫か!?」

俺の声にナマエは反応しない。全身を震わせて、吐き気に耐えている。



ナマエの書いた小説を読んだ時、俺もそうだった。
あの時、それまで都合よく忘れていたナマエやエルヴィンの最期の姿を思い出し、その衝撃に耐えきれず便所で吐いた。
それも一回じゃない、何度もだ。最後は胃の中が空っぽになって、胆汁を吐いた。

ナマエはここに来るまでにもきっと、こうやって記憶を思い出そうとしてきたのだ。
だがその度に、前世の記憶などという刺激には耐えきれないと肉体に拒否され、嘔吐してきたのだろう。



やっと吐き気をやり過ごしたナマエははあ、と肩で息を大きく一つ吐いた。
後ろを向いたまま、落胆した小さな声を出した。

「ごめんなさい……また……何にも思い出せないまま、記憶が通り過ぎちゃった……」



俺よりも一回り小さな背中が肩を落としているのを見て、耐えられなくなった。



俺は後ろからナマエを力いっぱい抱きしめた。

「え、て、店長!?」

突然俺の腕に身体の自由を奪われたナマエが、慌てた声を出す。俺は腕を緩めることなく、無言のままナマエを抱きしめ続けた。

「待って店長、汚れちゃう……私のコート汚いから」

俺の腕が、自身の吐瀉物で汚れたコートに当たっていることを言っているのだろう。
そんなことは一向に構わない。そんなことは、今、どうでもいい。

「もういい……思い出すな、ナマエ」
「……え?……どうしてそんなこと言うんですか……」

俺の消え入りそうな懇願に、ナマエは戸惑った声を返す。

前世の記憶があれば良かったと、記憶を取り戻して俺の事を思い出してくれないかと、確かにそう思ったことがある。
どうしてそんなことを一瞬でも願ったりしたのだろう。
こんな風に、嘔吐に耐えて震えるナマエを見れば、そんな願いは瞬時に消え去る。
前世の記憶を取り戻して、前世のように俺を愛してほしいなど、浅はかなエゴイズムだ。

決して愉快な記憶ではないのだ。
さっきまで隣を馬で駆けていた仲間が、巨人に喰い散らかされる日常だ。この平和な世界しか知らない人間が突然思い出して、苦しまないわけがない。
俺だって、記憶が蘇った当初は自分の気が触れたかと思い、精神科や心療内科を訪れたのだ。
ナマエを苦しめる記憶なんて、無くて良い。無いほうが良い。俺のことも思い出さなくて良い。

「お前はもう、苦しむな」
「思い出そうとしても、思い出せないんです。
私、なんか……もっと大事な事を忘れているんです……へ、ヘキガイ?とか……」
「もういい!ナマエ止めろ!」

「壁外」という、あの時代の象徴であるかのような具体的な単語が、ナマエの口から出て来たことに慌てた。俺は大声を出して制止したが、ナマエの口は止まらない。

「店長のことも……何も思い出せないんです……
せめて、せめて名前くらいと思って……一生懸命思い出そうとしているんです」

ナマエは喋っているうちに、その声色が再び涙に滲み始めた。徐々に嗚咽が混じる。

「ど……どうしても思い出せないんです。でも、きっと……っ、大切な人だったってのは、なんとなく、ひっ……わかります……」
「止めろって言ってんだ!」

碧い瞳からこぼれた涙がばたばたと俺の腕に落ちてくる。ナマエは再びしゃくり上げて泣いた。

「きっと……っ、今世で私が店長に会えて、前世の『ナマエ』さんは、す、すごく喜んでます。
だって私……今日突然、店長の誕生日の今日……前世の記憶を……っ、垣間見ることができて……な、何かに突き動かされるように、ここに、来たんです……っ!どうしても、……っ、きょ、今日中に店長に伝えなきゃって……!」
「……ナマエ……」

自分と、前世のナマエは別だ。お前はそう言うんだな。

だが、それももうどうでも良いんだ。
お前の前世はナマエで、今のお前もナマエだ。それは誰がなんと言おうと変わらない。
少なくとも、俺はその事実を知っている。

「店長……わ、私、『ナマエ』さんになれなくて……本当に、……っ、ごめんなさい」

後ろから抱きしめているから、ナマエの顔は見えない。
だが、その悔しそうな声色を聞けば、そして腕にばたばたと落ち続ける涙を見れば。
ナマエがどんな顔をして泣いているかは想像がつく。

俺が前世の話なんてしたせいだ。
ナマエは中途半端に前世を思い出し、記憶を完全に取り戻すこともなく、俺のことも思い出すこともなくただただ……徒らに苦しんだだけだ。

「……もう止めろ……」

俺の掠れるような声はナマエの耳に届いただろうが、今となってはもう意味のない物だった。



しばらく、二人の間には言葉がなかった。
ただただナマエの嗚咽だけがしばらく玄関に響いていたが、やがて、その嗚咽も徐々に収まってくる。
最後に、ずっ、と鼻をすする音がして、ナマエはそっと胸前の俺の腕を解いた。俺の腕は所在無く、ゆっくりと身体の横に垂れた。

「……日付変わっちゃった。こんな深夜にごめんなさい」

ナマエは明るい声色でそう言うと、くるりとこちらに振り向いた。
ナマエのその目からは、もう涙はこぼれていない。だが目は真っ赤に充血し、頬には涙の跡がくっきりと残っていた。

「それと、これは『ナマエ』さんからじゃなくて、私からの分です。
ちょっと……私の分は日付越えちゃって、当日中に言えなかったのが悔やまれますけど」

そう言うと、ナマエは赤く腫れた目を細め、再び満面の笑みを浮かべる。

「店長、お誕生日おめでとうございました」

美しく邪気の無い、泣き顔の混じった笑顔に、俺は言葉を失くした。
――こんな、こんな誕生日が来るなんて、思ってもいなかった。

「じゃあ私、帰りますね」
「……ああ?帰るだと?
おい……すぐに風呂に湯を溜めるから、入っていけ」

突然あっけらかんとした声で帰宅を宣言したナマエに、俺は呆気にとられ、とんちんかんな返答をした。
まあどちらにしろ、この濡れた身体をそのまま帰して風邪を引かせるわけにはいかない。内部受験とはいえナマエは受験生だ。
しかし、俺の返答にナマエは小さく首を振った。

「帰ります」

それははっきりとした声だった。本当に俺の家に上がる気がないのだと理解した。

「じゃあ車で送る。今車のキー持ってくるから……」
「それもいい!大丈夫です!」

ナマエは上り框に上がろうとした俺をやはり制止した。だがこればかりは俺も譲れない。

「こんな時間に、しかもこんな天気だ。高校生を一人で帰すわけにはいかねえんだよ、常識的にな」

そう言って室内へ上がろうとしたが、ナマエは俺の袖をくんっと引っ張る。そして苦笑を浮かべて言った。

「ご心配ありがとうございます。でも、本当に大丈夫なんです。
私、前の路地にタクシー待たせてて。まだメーター回っているから、早く行かないと」
「……あ!?メーター回ってるだと!?」

俺の家に来てから数十分が経過している。
どこからタクシーに乗ってここまで来たのか知らねえが、ここまでの運賃と、更にここに着いてからの数十分間分運賃がかかっているということだ。そして更に、ここから自宅までの運賃も必要になる。

「おいおいおいおい、待て待て、いくらかかってるんだよ……ちょっと待ってろ、財布……」

俺は袖を引っ張っていたナマエの手を振りほどき、慌てて室内に上がる。
リビングの引き出しから財布を取り出し中身を確認した。万札が5枚。これだけあれば取り敢えずは足りるだろうと、財布を持って玄関に戻った。
だが、もうそこにはナマエの姿はなかった。

「……ナマエ!?」

玄関の三和土には濡れたブーツの足跡だけが残っている。
その足跡の主は残り香を漂わせて消えてしまった。

俺は急いで玄関のドアを開け、階段を駆け下りた。
辺りは一面雪だ。深夜だが、降り積もった雪は僅かな街灯の光を反射し、普段の夜よりいくらか明るい。
しかし辺りを見回しても、ナマエの影も、泊めていたというタクシーの影も、もう見えなかった。

「……」

ナマエ、と小さく呟いた俺の声は、雪の中に吸い込まれて消えて行った。




   

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