第九章 十二月





07




* * *



それから約20分後。
私は、はあ、はあ、と肩で息をしながら、立ち尽くしていた。
ここは、フライハイトの前だ。



あれから、もう一回前世の記憶がやって来た。今までと同様に頭痛と吐き気を催した。
私はまた道路に嘔吐してしまったのだが、もう胃の中の物はほとんど残っておらず、吐いたのは僅かな胃液と胆汁だった。私は今日だけで、計5回前世の記憶を垣間見たことになる。
だが、その5回ともひどく断片的な物で、私や店長の前世の詳細を知るには情報が足りなかった。

スマホで時刻を確かめる。
現在時刻、23時51分。結局フライハイトに着いたのは、日付が変わるギリギリになってしまった。



フライハイトは、当然だが閉店している。窓全てにカーテンが閉められ、店内は消灯されており、灯りは一切漏れ出ていない。
私は上を見上げた。フライハイトの2階が店長の住まいだ。こちらは電気がついている。
――起きている。中にいる。



私は突然、怖気づいてしまった。

今日は、クリスマスだ。そして店長の誕生日だ。
……中で、女性と一緒だったらどうしよう。



店長はきっと『ナマエ』さん以外を愛することはないのだろうが、例えばもしかしたら、私よりもっと『ナマエ』さんに似ている女性を連れ込んでいる可能性は捨てきれない。
私と『ナマエ』さんは顔はそっくりだろうが、年齢的に大きな差があるようだし、性格もきっと違うのだろう。私が子供な分、余計に『ナマエ』さんとはかけ離れているのかもしれない。
もっと大人で店長に釣り合う女性が中にいる可能性は、十分にある。

――でも、いいじゃないかそんなことは。
何の為にここまで来たのか、私は忘れてしまったのか?

今日中に、店長におめでとうを言って……今世でも私と出会ってくれてありがとうって伝えるためだ。
私の中の『ナマエ』さんがそうしろと言っているのだ。『ナマエ』さんは店長に会いたがっている。

自分自身の中の『ナマエ』さんに嫉妬を覚えないかと言ったらそれは違う。やはり嫉妬している部分はあるのだろう。
だが、『ナマエ』さんが店長に会うのならば、悔しい反面、嬉しい、幸せだ、良かったと思う気持ちも確かにあるのだ。
それはきっと、私の中の『ナマエ』さんが思っているのだ。

中に誰か女性がいて、二人の仲をお邪魔してしまったら申し訳ないけれど……その時は私と私の中の『ナマエ』さんが傷つくだけだ。
傷つくのには慣れっこだったはずだ。
傷つくのを覚悟でここに来たはずだ。



走りすぎのためか、怖気づいているためか。私の膝はがくがくと笑っていた。
両手を両膝に当て、ぐっと力を入れる。膝の震えを落ち着かせるのだ。そして手を膝に当てたまま、大きく数回深呼吸をする。
膝の震えが止まったのを確認し、私は姿勢を正した。
店長の自宅玄関へと続く階段を見上げ、一歩踏み出す。

トン、トン、と足音が立つ。
ゆっくりと私は階段を上った。

トン。

最後の一段を上りきり、玄関のドアの前に立つ。
膝はもう震えていない。
膝は震えていないが、全身が恐怖と緊張でガタガタと震えていた。

インターホンを鳴らそうと、震える人差し指を出す。
しかし、なかなかインターホンを押すことができずにいた。

私はドアの前で人差し指を立てたまま、身体を震わせて、立ち尽くしていた。



* * *



階段を上ってくる足音には、すぐに気づいた。
昼間はともかく、夜分であれば自宅玄関へと続く階段の足音が聞こえやすいため、誰かが訪ねてくると大抵いつもすぐに気づく。
この通りは古い店ばかりだ。夜分に営業しているような店もなく、クリスマスといえども夜は静かなものだ。自宅内でテレビや音楽を大音量でかける習慣も、俺にはない。

こんな夜更けに誰だ。
思い当たる人間もいない。

こんな時間に宗教の勧誘は考えにくいし、セールスだってそうだろう。どの家に訪問したって、こんな夜更けなら迷惑がられて追い返されるに決まっている。
残された可能性は、個人的に俺に会いに来た人間がいるということだ。

今日は自分の誕生日であることはもちろん知っている。だが母親も亡くなった今、自宅にやって来てまで俺の誕生日を祝うような人間はほとんどいない。
いや、母親だってわざわざこんな夜更けにやってくるようなことはしなかった。せいぜいスマホにメッセージが届くくらいのもんだった。



エルヴィンかと一瞬思ったが、あいつは今日の夕方店に来て顔を出していった。毎年律儀に誕生日プレゼントを置いていきやがる。
今年は高級ブランドの皮手袋だった。去年は同じく高級ブランドのティーカップ、一昨年は、この先絶対忘れることはねえだろうが、なんとシャトー・ル・パンだった。いくら誕生日とはいえ、一本30万円のワインをただ貰うということはどうしてもできず、頼み込んで一緒に飲んでもらった。「お前のために買ったのに」と言うエルヴィンの顔はこれ以上ないと言うほど嬉しそうだったのをよく覚えている。
毎年毎年よくもまあこんなに高級なプレゼントが続くもんだと思うが、エルヴィンの気持ちは理解できないわけではない。

あいつは、俺が今世で無事に誕生日を迎えられていることが嬉しいのだ。それは俺だって同じだからわかる。
俺だって、エルヴィンが誕生日を迎えるたびに、ああまた一年無事に生きてくれたという喜びが腹の底から沸きあがる。
それはエルヴィンに対してだけではなく、ミケやナナバ、ゲルガー、今世で再び出会った仲間に対しては等しくそうだ。アルミン達104期の誕生日が今世も前世と同じなのかどうかは知らないが、誕生日知りそしてその日を迎えれば、きっと同じように、大きな喜びを抱くだろう。

今世のナマエは、6月が誕生日だった。前世のナマエの誕生日とは一致していなかった。
俺は今世のナマエの誕生日を知らなかった上に、まあ当日は色々あって――ナマエの誕生日にはあいつを大きく傷つけて泣かせてしまった。今でも、悪いことをしたと思っている。
だが、来年またあいつの誕生日が巡ってくれば、俺はきっとエルヴィンや他の奴らに対するのと同じように――いや、もしかしたらもっと強く、ナマエが一年無事に生きてくれたことを感謝するのだと思う。
もっとも、来年の6月、ナマエの誕生日に俺達が会うことなどないだろうから、きっと俺は心の中でナマエの誕生日を祝っているのだろう。

一般的な話、今世でも誕生日は祝ったり祝われたり大きな行事ではあるが、前世のそれとは比較にならない。俺やエルヴィンにとっての誕生日は、今世の一般的な尺度からは外れている。
それほどまでに、前世では生きることが難しかった。
いつ死ぬかわからない世界。誕生日は、今世とは比べ物にならないほど重要な物で、生きてその日を迎えられることは尊いことだった。
団内でも、誰かの誕生日の度に盛大に宴を催したものだ。全てをはっきりと覚えているわけではないが、俺も盛大に祝ってもらった記憶がある。



だが、やはりこの足音の主は俺の誕生日を祝いに来たわけではないらしい。
階段を上りきりドアの前で止まった足音は、インターホンを鳴らすわけでもなく、ドアをノックするわけでもなく、しかしそこから一歩も動く気配がない。
泥棒だろうか。――いや、泥棒であるならモタモタしないで、ピッキングなりなんなりして侵入を図るだろう。

不審に思った俺は、スリッパを脱ぎ足音を消して玄関のドアに近づいた。
音を立てずにドアスコープから外を覗いたが、外は暗く、良く見えない。
誰がいるのかはわからないが誰かはいる、それは確かだ。気配がある。

万が一のことを考え、傘立てに差してあった傘を右手に握る。
息を殺してドアに貼りつき、ふっと息を吐いた次の瞬間。
俺は素早く解錠し、派手に音を立てて勢いよくドアを大きく開いた。

「きゃあっ!?」

ドアの向こうにいた人物は悲鳴を上げ、その場に尻餅をついた。
その人物を見れば思いがけず女で、いや、性別が予想外だったわけじゃない。

「……ナマエ!?」

ドアの外にいたのは、この場にいることを全く予想できなかった人物――ナマエだった。



「おいどうした!?こんな時間に……」

尻餅をついているナマエに手を差し出すと、ナマエは一瞬戸惑った顔を見せたが、素直に俺の手を取った。ぐいと引っ張り立たせてやり、玄関の中に引きずり込む。

「すみません、夜遅くに突然来て」

ナマエは三和土の上で尻を払いながらそう言った。
顔色は悪くないように見える。目にもしっかり生気が宿っている。以前ショッピングセンターで見た時のナマエと大差ないように思えた。

だが、その頭には雪が積もっていた。コートの肩にもだ。転んだのか膝をついたのか知らないが、ジーンズの膝も濡れている。
そして何より、コートの前身頃が盛大に汚れていた。見れば、恐らくこれは吐瀉物だ。
吐いたのだろうか。高校生が褒められたものではないが、クリスマスだから羽目を外して飲酒でもしたのだろうか?いや、それにしては酔っている様子は微塵もない。

「なんだお前、具合悪いのか?吐いたんだな?」
「えっ!?……えっ、わっ!?」

ナマエは俺の言葉に驚き、その時初めてコートの前身頃の汚れに気が付いたようだった。

「ご、ごめんなさい!汚い格好で来て!
ちょっと……服に付いているなんて気づかなかったんです……私、必死過ぎ……」

はは、と失笑したナマエは、バッグからティッシュを取り出しコートを拭き始めた。

「取り敢えず上がれ。お前頭も雪で濡れてるじゃねえか。ちょっと待ってろ、今風呂に湯を溜めるから……」
「いい!!ここで!!上がりません、すぐに帰るから!」

ナマエは声を張り上げ俺を引き留めた。
コートを粗方拭き終わったのか、ティッシュをバッグにしまう。だが、コートにはやはりシミができていた。

「でもお前、そのままってわけにもいかねえだろ」

このままじゃ風邪を引くし、嘔吐したということはいずれにしろ体調が悪いはずだ。
だが、室内に上がろうとした俺をナマエは再び制止し、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。

「……上がったら、また……私、きっと店長を困らせちゃう。
もう我儘言って店長を困らせたくないんです。伝えることだけ伝えたらすぐに帰りますから、安心して」
「……」

安心して、と微笑まれて、俺は声が出なかった。

「どうしても今日中に伝えたいことがあって来たんです。もう少し早く来れば良かったんですけど……気づいた時にはもう夜で。
急いで来たんですけど、色々あってこんな時間になっちゃいました」

ナマエは穏やかな笑顔を浮かべたまま、優しい、だがはっきりした声色でそう言った。

――なんだかナマエは、急に大人になったような気がする。
以前のような拗らせた変貌ではない。随分落ち着いて、しっかりした様子だ。

「……何だ?」

俺の声は上擦っていなかっただろうか。
俺は、大人びたナマエの様子に少し圧倒されていた。
ナマエは満面の笑みを浮かべ、言った。

「店長、お誕生日おめでとうございます」

瞬間、俺の目はこれ以上ないというほど見開かれたと思う。




   

目次へ

小説TOPへ




- ナノ -