第九章 十二月
06
緑色の外套がはためく。外套に刺繍されているのは翼を模した紋章だ。
『進めええええっ!!!』
その喊声に従って、雄叫びを上げる兵士達。
馬に乗り、隊列を作って、私達は駆けた。壁外を駆けたのだ。
「……ヘキガイって……なによぉ……っ!?」
私はタクシーの車内で一人呻っていた。この時は記憶に縋るのに必死で気づかなかったが、運転手は私に怪訝な視線を向けていたに違いない。
ヘキガイ、ヘキガイ……脳内で漢字に変換することができない。
私は激しい頭痛と戦いながら、更に記憶にしがみつきながらも、頭を回した。
どこかの地名か?それとも……?
ヘキ……癖?ガイ……害?
僻?街?
壁?外?
……壁外?
「――うっ!!」
また吐き気を催した。思わず手を口で押さえ、咄嗟にパワーウインドウのスイッチを押した。
窓がウイーンと小さな音を立てながら下に開いて行き、ある程度開いたところで私は窓から首を出す。
「ちょっとお客さん、危ないから止めてください!」
運転手の声が聞こえたが、構ってはいられなかった。
「――うええっ」
私は車窓から派手に嘔吐した。
せっかくファーランさんがご馳走してくれたのに、胃の中の物はびちゃびちゃっと音を立て、雪が積もり始めた道路に散っていった。
「……ちょっと……大丈夫ですか?」
私が嘔吐したのに気付いた運転手は、窓から首を出したことを諌めるのを止めた。車内で吐かれたらたまったもんじゃないだろう。
ごめんなさい、と声に出そうとするが、声は出なかった。私はただこくこくと頷いて、バッグから震える手でハンカチを取り出し、口元に当てた。
また前世の記憶を手放してしまった。
頭痛と吐き気は、まるで引波のように去っていった。
もう一度来るだろうか。また来てくれないと困る。
あの人の……名前を知るまでは。
私、前世で何をしていたのだろう。
私とあの人の前世を知りたい。どうしてもだ。
それなのに、記憶はとにかく断片的で、私に真実の全てを見せようとはしないのだ。
タクシーはしばらく法定速度を守った速度で、しかし順調に進んでいた。だが運転手が言っていた幹線道路に入ってしばらくすると急に進みが悪くなる。
「やっぱり混み始めちゃいましたねえ」
のんきな声で運転手は言う。
幹線道路では無数の車が列を成していた。フロントガラスから前方を見れば、車の赤いテールランプがいくつもいくつも連なって、まるでルビーを数珠つなぎにしたネックレスのようだ。
ファーランさんに抱きしめられたり、嘔吐を堪えたり、あるいは堪えられなくて実際に吐いてしまったりして、私の瞳は何度か目に浮かんだ涙でしっとりと潤っていた。
潤沢な水分で視界が少し滲んでいる。私の視界の中の数珠つなぎのルビーも、ほんの少し滲んでいた。
ノロノロとであっても、少しずつ前進しているならまだ良い。しかし、渋滞にはまってから15分ほど経った頃、タクシーは完全に足止めされてしまった。全く進まない。
がちゃがちゃっと音を立てて、運転手はギアをニュートラルに入れた。
「……」
無言で苛立ちを募らせる私に、運転手はやはりのんきな声色で言う。
「止まっちゃいましたねえ。この道路を通らないわけにはいきませんし、この状態じゃ横道に逸れることもできませんので、しばらくご辛抱いただくしか」
私はもう一度パワーウインドウのスイッチを押し、窓を開けた。窓から顔を出すが、車は完全に停車している状態のため、運転手も文句は言わない。
22時過ぎ、海浜公園を出てきた時に降り始めた雪は、止むことなく今も降り続けている。
相変わらず大きい牡丹雪で、体積が大きい分、道路に触れて融けるのに少し時間がかかる。融けるよりも早く次の牡丹雪が覆いかぶさってくるため、道路は今やすっかり白く染め上げられていた。
もう少しだけ窓から身を乗り出して前方を見れば、さっきフロントガラスから見えたルビーの数珠が、よりはっきりと、ダイレクトに視界に入ってきた。
無数の赤い灯りがずっと先までつながっている。次に首を捻り今度は後方を見たが、こちらも車の途切れ目が見えない。
前方も後方も車の列に挟まれ、前にも後ろにも進めなくなったこのタクシー。まるで、絶望的な状況を前にもがくことすら諦めて動かなくなった、屠殺される前の家畜のようだと思った。
――であれば、私はここから抜け出さなければならない。
「運転手さん、これ……この渋滞いつ抜けられるかわからないですよね?」
「ええそうですね、ちょっと読めませんね」
私はポケットの中のスマホを出して時刻を確認した。23時20分。本当だったらもうとっくにフライハイトについているつもりだった。
「あの、ここで降ろしてください」
「……えっ?お客さん歩いて行くつもりですか?」
「はい」
「ご指定の場所は、車で順調に進んでも10分の距離です、歩いたらえらい時間かかりますよ」
「良いんです、降ろしてください」
そうですか、と運転手はメーターを切り精算を始めた。
運賃を支払うと、車体のドアが開かれる。私は、ありがとうございましたという運転手の声を背中に受けながら走り始めた。
ヒールのあるブーツで雪の中を走る。
これは想像以上に辛い事だった。足元が安定せず、走っていても着地と蹴り出しに余計な力がかかっているのが自分でもわかる。
睫毛には時々雪が載った。その度に視界が狭まり、前方を見るのに邪魔だった。私は睫毛に雪が載るたびに手でそれを払った。
しばらく幹線道路の歩道を走っていたが、横に入れる路地を見つけたので入ることにした。一応スマホで地図を確認したが、問題ない。この路地をまっすぐ行けばフライハイト近くの大通りまで通じているはずだ。
一筋入った路地は住宅街で、幹線道路とは比べ物にならない静けさだった。排気ガスに塗れていない分、こちらのほうが呼吸をしていても楽な気がする。
私はすっかり息が上がっていた。
だが、足を止めることはしない。
走りながらスマホをもう一度見る。23時30分。海浜公園を出る時は余裕だと思っていたのに、今日中にフライハイトに着けるかどうか怪しくなってきた。
暑い。私はコートの下に汗をだくだくと掻いていた。
ヒール付のブーツを履いて、更にニットを着てコートを着ての雪の中のマラソンは最悪だ。
衣類の下だけじゃない、額にも大粒の汗が滲んでいる。
その時だった。
「――っ」
来た。まただ。
今日4度目の頭痛に備えるため、私は足を止めこめかみを抑えた。
また、あの変な服と装置を身に付けた人たちの姿が、脳裏に浮かぶ。
私の身体はどうしたというのだろうか。
前世の記憶を見せるなら、さっさと全部見せてくれればいい。こっちはいつでも準備はできている。
前世の記憶を全て取り戻して私が『ナマエ』さんになれるのならば、それが一番良い。
それなのに、私の肉体が拒否するのだ。記憶が蘇るたびに、激痛と吐き気で苦しくて仕方がない。
もっと記憶を詳しく知ろうと私がその記憶にしがみつけば、更に痛く、更に吐きたくなる。
私の肉体は、そんなに前世のことを思い出したくないのだろうか。一体どんな記憶だというのか。
自分の心が望んでいるのは「思い出したい」。自分の肉体が望んでいるのは「思い出したくない」。
相反する二つが、私の身体に支障をきたしているように思えた。
「――うええっ」
頭痛に耐えていたら、また突如吐き気に襲われた。
今までよりももっと急激にやって来た吐き気に耐えきれず、私はその場に膝と両手を付き、胃の中の物を雪の上にぶちまけた。
私の胃の中にはまだケーキの残骸が入っていたらしい。それらしき物が白い雪の上に汚く広がった。
吐いてしまえば、一瞬私の頭の中が霞がかり、そして急激にクリアになっていく。
私はまた、何も得ることができないまま現世に戻ってきた。
きっと、この後も何も見られないし、知ることもできないのだろう。私の肉体は私に前世を見せる気がないのだろう。
ギリ、と歯を食いしばる。
立ち上がり、雪の付いた手と膝を払う。
ぶちまけられた自分の吐瀉物を見て、周辺住民の皆様には申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、ご勘弁いただくことにする。きっとクリスマスで酔いつぶれたどこかの酔っ払いのものだと思われるだろう。
私は口元をハンカチで拭くと、再び走り出した。