第九章 十二月





05




どのくらい沈黙が続いたのだろうか。
恐らく数分間は、私達は無言だった。そしてその間、私もファーランさんもぴくりとも動かず、ずっと同じ姿勢のまま固まっていた。

長い沈黙を経て、先に口を開いたのは私だった。

「どうして……友達だって……言ったじゃない……」

なんとか声を絞り出したのだが、喉を開いた時に涙腺まで一緒に緩めてしまったらしい。
私の目には涙が浮かんでしまった。

「セフレでもない……ちゃんとした、ちゃんとした……友達って……ファーランさんが言ったんじゃない……」

私のその台詞がどんなに無意味な物か、自分ではっきりわかっている。ただ口に出さずにいられなかっただけだ。

ファーランさんとは、良い友人でいたかった。
実際そうだと思っていたのだが、そう思っていたのは自分だけだったということだ。

「なあ、もう……俺にしとけば良いじゃん……
今から行ってどうするんだよ……何度傷つきに行くんだよ?」

ファーランさんは、私が店長の元へ行こうとしていることをわかっているのだ。

店長の元に行けば傷つく。
きっとそうなのだろう。わかっている。
だって私は、中途半端に記憶を取り戻したが、未だ『ナマエ』さんにはなれていない。きっとこの先もなれることはない。
店長の名前さえも思い出せないまま、私達が一体何と戦っていたのかさえもわからないままだ。
それでも、私はここに留まってはいられないのだ。

会いに行って、伝えたい。
また一つ無事に歳を重ねたお祝いと、同じ時代で再び出会ってくれたことへの感謝を伝えないといけない。
私の中の『ナマエ』さんが、そう言っているのだ。

「ナマエちゃんが傷ついて、また俺のところに戻って来てくれるんだったら良いよ?行って傷ついてくればいい。俺はいつだって、何度だって受け止める。
でも……君はもう、違うだろ?もう二度と……俺に逃げて、俺に抱かれることはないんだろ?」

そうだ、ない。もう私は、好きでもない人に逃げて抱かれることの虚しさを知っている。
好きでもない人と交際することの無意味さを知っている。

目を瞑り、歯を食いしばった。
結局この人も傷つけたのだ、私は。ジャンだけじゃなく、ファーランさんまで。
私は最低だ。

「ごめんなさい、ファーランさん。……行かなきゃ。行かなきゃなの。離してください」
「嫌だ」
「離して」

ファーランさんの腕から抜け出そうと身を捩る。だが、彼はそれを許してくれなかった。

「……お願い、離して!行かせて!」

思わず声を荒げた。とにかくファーランさんの胸の中から出ようと、めちゃくちゃに腕を動かす。
すると、突然ふっと私の身体を押さえつけていた腕から解放された。勢い余ってよろける。
よろけた私は体勢を立て直し、ファーランさんを見上げた。
私を解放したファーランさんは今にも泣きそうな顔をしていた。口元が歪んでいる。

「……」

彼の歪んだ唇からは、何も出てこなかった。
悔しそうな、切なそうな顔のまま、両手の拳を握りしめている。

「……ごめんなさい、ファーランさん。ごめんなさい」

私には、その言葉しか言えなかった。他の何を言っても無駄なのはわかっていた。

再び駅に向かって走り出した。
もうファーランさんは追ってこなかった。



* * *



先ほど降り始めた雪は勢いを衰えさせることはなく、寧ろ強くなっている気がする。
雪の粒が大きい上に風がないため「吹雪」と呼ぶような状況にはなっていない。だが、大きな牡丹雪はもう「ちらちら」という形容詞では足りない。「ずんずん」と降っている。

自身の履いてきたブーツが恨めしい。5cmと控えめだが、ヒールのあるブーツはこの上なく走りにくい。
雪に覆われ始めた地面の上は尚更だ。スニーカーを履いてくれば良かった。

10分ほど走って、やっと海浜公園の最寄り駅に着いた。
息を整えることもせず、はあはあと息を切らしたまま構内に入ると、改札前には人の山ができている。

「……え?」

いくら今日がクリスマスで、イルミネーションを見に来た人が多いとは言っても、この人だかりは普通じゃない。何かがあった。
人混みを掻き分けて改札に近づくと、改札内の電光掲示板には、赤字が点灯している。

『人身事故により運転を見合わせております』
「……ええっ!?」

思わず声を出してしまう。次の瞬間、タイミング良く構内のスピーカーから駅員の声が流れ始めた。

「お客様にご連絡いたします。○○線は21時45分頃発生した人身事故により、現在上下線ともに運転を見合わせております。ご利用のお客様にはご迷惑をお掛けし……」

嘘でしょ?このタイミングで運転見合わせ?
私は乱れた呼吸を整えながら、自分の運の無さにがっくりと肩を落とした。

12月25日は、もう年の瀬と言ってもいい時期だ。年の瀬の鉄道では人身事故が増える。定説だ。
私のような、両親に扶養されている高校生にはいまいちピンとこないが、金策に走る人々はこの時期、年を越せるかどうかの瀬戸際に立たされるらしい。また経済的な理由でなくとも、賑やかなこの季節は、普段孤独を感じている人に余計に孤独を感じさせる。

だからって、自ら命を投げ出すなんて。
生きたくても生きられなかった人達がいる。志半ばで命を落とした人達がいる。
なのに、この恵まれた世界で自ら命を絶つなど――
先ほど中途半端に蘇った私の前世の記憶が、そう思わせていた。

「……っ……痛っ……」

またズキンズキンと頭が痛み始める。

「何で」命を落としたのか?
「どうして」生きられなかったのか?
あの時代、皆なぜ生きるのが難しかったんだっけ……?

再び蘇り始めた前世の記憶を手放すまいと、私は必死にしがみついた。
思い出せ。思い出せ。
私は……兵士だった……何と戦っていた?誰と……一緒にいた?
あの人はどこにいる?あの人の名前は?

「いったい……っ!」

ズキズキなんてものじゃない。ガンガンと形容するべき激痛に変わっていた。その激痛は脈打つように私のこめかみを襲い続ける。
その場に蹲ってしまいたいところだったが、こんな改札の真ん前で蹲ったら邪魔になる。うっかり駅員さんを呼ばれてしまってもいけない。
私はよろけながらもなんとか人気のない隅に移動し、そこで蹲った。

……腰と、腿……いや、違う、全身に……ベルトを巻いて……
何、この格好……?私はこのベルトで……
この装置は……

「――うっ……」

思わず口を押さえる。突然私を襲ったのは吐き気だった。
先ほどファミレスでお腹に入れた食事とケーキが胃から込み上げそうになったが、すんでのところで堪えることができた。
なんとか嘔吐は免れたのだが、そのことに安心して気が抜けてしまったのだろうか。
私は意識して手放さないようにしていた前世の記憶を手放してしまっていた。

気が付いた時には頭痛も吐き気も治まり、私の意識はすっかり現世に引き戻されていた。

また、何も……重要なことはわからなかった。
店長の名前も、何も……店長の姿さえ、私の記憶の中には出てこなかった。
前世の記憶に縋りつこうとすれば、頭は痛むし、吐き気はするし、まるで身体が拒否反応を起こしているようじゃないか。

「……しっかりしてよ、『現世』(いま)の私……っ!」

私は再び立ち上がった。
こんなところで蹲っている場合じゃない。



電車が動いていないのなら、他の移動手段を使うまでだ。私は構内から続くエスカレーターを駆け下り、ロータリーのタクシー乗り場へと並んだ。
高校生が一人でタクシーなど、日常では絶対に使わないし、そんなに無駄遣いできるお小遣いをもらっているわけではない。
だが幸いな事に、今両親は海外旅行中だ。念のためにとパパとママはかなり多目に現金を私に預けて行った。今ならタクシーに乗ることもできる。

タクシー乗り場には10人近く並んでいたが、電車が動いていない以上タクシーを待つしかない。フライハイトまではここから数駅分ある。走っていくのは無理だ。
タクシーを待っている間に一応バスも検索したが、ここから乗り継ぎ無しの一本で行ける路線は無く、また乗り継いで行く路線もこの時間は本数が少なすぎる。

「あの、ここまでお願いします」

20分以上並んでやっと乗車できた私は、スマホで地図を表示させタクシーの運転手に見せる。
はいかしこまりました、と運転手は機械的な返事をし、タクシーを発進させた。

「ご乗車ありがとうございます。安全運転で参ります」と自動音声が車内に流れるが、今はその安全運転がもどかしい。法定速度をしっかり守って進む運転手は優秀なのだろうが、時計を見れば今もう22時45分を回っている。
日付が変わるまでにはフライハイトにつけるだろうが、私はかなり気が急いていた。

「あの……何時頃着きますか?」

やきもきする気持ちを抑えながら運転手に尋ねる。

「そうですねえ……ちょっと読めませんね。この先の幹線道路を使わないといけませんけど、そこがいつも混むんですよ。
今日はクリスマスですし、多分交通量も多いんですよねえ。電車も止まってしまったようですし」

運転手にはこちらの焦りは伝わっていないようだ。のんびりとした声で答える。

渋滞にはまってしまったらどうしよう。
そんなことを考えていると、また私の頭がズキズキと徐々に痛み始めた。

――来る。

もう3回目、感覚を掴み始めていた。前世の記憶が来る。

来るなら来い、引きずり出して捕まえてやるから。
あなたの記憶を私に寄越しなさい。

私はこめかみにぐっと両手を添え、急激に強くなっていく頭痛に耐えた。

「……っっ」

痛い。激痛だ。再び吐き気が私を襲う。
だが、前世のことを知りたい。知るためなら、耐えてみせる。
この痛みにも、吐き気にも。




   

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