第九章 十二月





04




「じゅうにがつ……にじゅうごにち……」

こめかみの激痛に耐えながら、私は口から絞り出した。
今日は、とてもとても大切な日のはず。

「……は!?12月25日……今日がどうしたっていうの?
ねえナマエちゃん、大丈夫?病院行く!?」

ファーランさんの慌てる声は、やはり遠い。

『12月25日は――の誕生日じゃないか』

メガネの女性は、私がとても信頼していた大好きな先輩で友人だ。
名前も思い出せないのに、そのことだけはわかる。

そう、12月25日はあなたの誕生日。
あなたがこの世に生を受けた日じゃないか。

「〜〜〜〜っっ」

現在の記憶と混じり合い、遠ざかっていこうとする前世の記憶に必死にしがみつく。
しがみつけばつくだけ、私の頭に激痛が走った。

あなたの名前を。名前を思い出したい。
名前の他にも、もっともっと、
きっとこんなクリスマスツリーを飾る場面だけじゃなくて……
もっと大切な、思い出さなきゃいけないことがたくさんあるはずなんだ。



「ねえナマエちゃんってば!?病院行く!?」

遠くで聞こえていたはずのファーランさんの声がだんだんと近づいてきた。
混乱していた意識は徐々に秩序立ち始め、ひっくり返された頭の中の引き出しが整理整頓されていく。

「大丈夫!?ナマエちゃんっ!?」

ファーランのさんの声が、耳元で聞こえた。
私は完全に正気を取り戻した。

あんなに激しかった頭痛は嘘のように治まり、頭の中がはっきりと明瞭になっている。
どうやら私は、この場で立ち尽くしたまま頭痛に耐えていたようだ。
痛みに耐えるのと、せっかく思い出した記憶を手放さないようにするのに必死過ぎて、自分がどういう状態で立っていたのかも、よくわかっていなかった。

「あ……ごめんなさい、ファーランさん……ちょっと……頭痛がしただけなの」
「……ちょっとって感じじゃなかったけど……大丈夫なのそれ……?」
「うん、もうなんともないの。大丈夫」

頭痛は治まった。
そして私は、一度得た記憶を再び無くすことを阻止するのに成功したようだ。
頭痛が引いた今も、一度取り戻した記憶ははっきり残っている。
兵士であった私のことを。

私達はあの冬の日、クリスマスツリーを飾ってお祝いしたのだ。
冬の到来と、あの人の誕生日を。

12月25日は、店長が生まれた日だ。

何が原因で私達が命を落としているのかははっきりしない。一生懸命あの頃の意識にしがみついたが、大事な部分はよくわからないまま去っていってしまった。

だが、春に店長が言っていたとおりだ。
私達は兵士で、よくわからないが「何か」と戦っていた。人類は、特に私達兵士は、命の保証がない厳しい世界で生きていた。
だからこそ、あの時代あの場所で、誕生日はとても大切な日だった。
よく思い出せないが……私が思い出したあの一回だけでなく、きっと何回もあの人の誕生日を祝っていたはずだ。そして、私も仲間たちから誕生日を祝われていたはずだ。
あの時代の誕生日は特別なのだ。現代よりももっともっと。
あの美しくも残酷な世界に生を受け、無事に今日まで命を繋げられた日。一年間無事に生き延びられた日。

そしてあの人は、きっと何千年もの時を経て、再びこの世に生を受けてくれた。
私と同じ時、同じ場所に生まれ変わり、再び私に会いに来てくれたのだ。



「……行かなきゃ」
「……は?」

行かなきゃ。唐突に強くそう思った。
何よりも、何よりも大切な日だ。あの人の生に感謝する日だ。
あの人にお祝いと感謝を伝えないといけない。私は突然そう思い立ったのだ。
――いや、本当に私がそう思ったのかどうかはわからない。もしかしたら、実は私の中の前世の私がそう思っているのではないだろうか。
だってまるで、身体の内側から何か見えない力に突き動かされているようなのだ。

「待ってナマエちゃん、どこに行かなきゃって?」

困惑した様子のファーランさんが声を出す。

「ごめんなさいファーランさん、私、ちょっと行かなきゃいけないところがあるのを思い出しました。
今日……今日中に、どうしても行かないと」

スマホをコートのポケットから出し、時刻を確認する。
今、午後22時過ぎだ。これから駅に向かって電車に乗って数駅、駅を降りたらフライハイトまでまた足で行くと……順調に行って23時頃だろうか。
とりあえず日付が変わる前には着けるはずだ。

「こんな夜に?どこに行くの?危ないから俺も一緒に行くよ」
「ううんファーランさん、私一人で行きます。一人で行きたいの」

私は首をはっきりと横に振った。怪訝そうに私を見つめるファーランさんの瞳には、赤やら緑やらのツリーの電飾が映りこんでいる。

「今日、すごく大切な日だったの。大切な人の誕生日だったの。
……私、こんな大事なことをどうして今までずっと忘れていたんだろう」

怪訝そうだった瞳が、見開かれる。
ファーランさんは息を呑んだ。

「今日はとても楽しかった。お食事とケーキ、ごちそうさまでした。ツリーも、明日撤去されちゃう前に見に来れて良かった、本当に……。
ごめんなさい、今日はここで失礼させてください」

ぺこりと一礼し、踵を返す。
私は公園の出入り口に向かって駆け出した。



さっき、駅のホームからこのツリーの前まで、ゆっくり歩いて20分ぐらいだっただろうか。走ればもう少し時間を短縮できるはずだ。
私は賑わっている公園の人の中を縫うように走った。

走り出すとほぼ同時に、雪が降り出した。
……何で今降り出すかな。私は足を止めないまま、忌々しく空を見上げた。
そう言えば天気予報を見ていなかった。傘も何も持っていない。まあ、傘があったとしてもきっと差していないだろう。走るのに邪魔になる。

ちらちらと空から降りてくるのは牡丹雪だ。
いくつもの雪の結晶が付着し合ったその粒は、比較的面積が大きいせいか、地面に落ちてからも融けるまでに少し時間がかかっているように思える。この降り方だと積もるかもしれない。



「わ……っ」

広い公園の出入り口に差し掛かったところで、後ろから手をぐんっと引かれる。
駅への道半ばで、私の足は強制的に止められた。

振り向くと、私の手を引いた腕の主はファーランさんだった。
追いかけてきたのかすこし息が上がっている。

「……ナマエちゃん、どこ行くの」

はあ、はあ、と呼吸を整えながらそう言うファーランさんの目は、少し怖かった。
今まで見たことのない目をしている。

いつもいつもファーランさんは穏やかで、優しくて。ちょっと軽薄なところもあるんだろうけど、いつも他人のことを思いやっていて。
こんな怒ったような責めるような目は初めてだ。

「……ごめんなさいファーランさん、勝手なこと言って。でもどうしても今日中に、大切な人のところに行きたいの。――行かなきゃなの」

「行かなきゃ」と言い直したのは、極自然に、半ば無意識にその言葉が出たからなのだが、口にしてからこちらが正しい言い回しだと思った。
多分今、私の意志が半分、『ナマエ』さんの意志が半分――いや、『ナマエ』さんのほうが半分よりももっと多いのかもしれない。
だって、私の身体はなんだか勝手に動いている。
誰に引き止められたとしても、今の私はきっと進み続けるだろう。足の骨を折られでもしない限り。

「こんな夜に危ないから、止めよう。雪も降って来たし。明日以降でいいじゃん」
「ううん、駄目なの。今日なの。今日が特別な日だから」
「行くなって言ってんだろ!」

ファーランさんが声を荒げた。
初めて聞く彼の大声に、私は息を呑む。
次の瞬間、私はファーランさんの腕の中に強引に引き寄せられた。



「ちょっと……ファーランさん、」
「行くなよ……っ、行くな」
「何、ねえ、待って、離して?」

私はファーランさんの腕の中から逃れようともがいた。だが、ファーランさんにがっしりと押さえ込まれて、自分の身体はびくともしない。

こんなに力が強かったのか。今までずっと柔らかい物腰で、優しい手つきで触れられてきたから認識することもなかった。
ファーランさんは男性なんだ。
決して忘れていたわけではなかったが、思い知らされる。腕の中に抱え込まれて身動きがとれない。

「どうしたら良い?どうしたらナマエちゃんをここに留めておける?」

私を抱きしめながらそう言うファーランさんの声色は、今まで聞いたことがない物だった。
怖い。有り体に言えばそう思った。
彼の声に鬼気迫る物を感じた私は、なんとか首だけ動かしてファーランさんの顔を見ようとする。だが、それも叶わない。私の頭はファーランさんの胸にしっかりと押さえつけられていた。

道路を歩く通行人や公園内を歩いている人々が、私達に視線を向けている。だが、今日はクリスマスだ。多分カップルだと思われているのだろう。衆人達の視線はちらりと私達を見ても、次の瞬間にはすぐに何事も無かったかのように逸れていく。
クリスマスに抱き合うカップルは特に珍しい光景ではない。特にこんな夜のデートスポットでは。

「ふぁ……ファーランさん……」

痛いです、離して、と言おうとしたところを、彼の声が遮った。

「好きなんだ……っ、
ナマエちゃんが好きなんだ……行かないで」



私の目は、多分これ以上ないというほど見開いたと思う。
彼の口から出た声は切実で、苦しくて、そして震えていた。
私は声を失った。




   

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