第九章 十二月





02




繁華街からほど近い立地のこの店だが、大通りに面していないこともあり、外の喧噪はほとんど聞こえない。
街中はクリスマス一色の大騒ぎだが、この店は時が止まったように静かだ。先日買い直したツリーに巻き付けられているLEDライトの点滅だけが、控えめにクリスマスを主張していた。

「アルミンから聞いた話だが、ナマエはジャンと別れたらしいぞ」
「……らしいな」
「知ってたのか」

エルヴィンは顔を上げて俺を見た。俺はカウンターの中でスツールに腰掛け、腕を組んだままでいる。

「この間偶然、ファーランに会ってな。ファーランから聞いた。
……ファーランはナマエに惚れているらしい。まだ付き合っているというわけじゃないらしいが、見たところ時間の問題って感じだったな、ありゃあ」

あのショッピングセンターで並んでいる二人の姿は、似合いだった。
何より。

「……ナマエの様子が、元に戻っていた。目には生気があったし、顔色も良かった。
俺と会っていた頃のナマエとは全然違った」

口にすればした分だけ、俺は結局ナマエを傷つけただけだったことが思い出され、胸が疼く。

「ファーランと一緒にいることでまともなナマエに戻ったんだったら、それで良いと思っている」

口から出た声は固かった。だが、本心だ。
ナマエが幸せなら、それで。

「……ほんの数日前久々にナマエと会ったんだが、確かに様子が……いい意味で変わっていたように思う。
精神的に安定しているというか、少し前まで確かにあった危うさのような物がすっかりなくなったように感じた。学校の方で一時期成績を落としていたらしいが、それも持ちかえしたらしいぞ」
「……そうか」

ファーランと一緒にいて、ナマエが元に戻った。
ファーランと一緒にいることで、ナマエが幸せなら。

「……リヴァイ、お前は本当にこれでいいと思っているのか?」

エルヴィンはカチャリとコーヒーをソーサーの上に置く。

「何度も言っている、ナマエが幸せならそれで良い」
「ナマエがどうかは置いておいて、お前自身の気持ちを聞いている」

エルヴィンの目が変わった。
――これだ。時々こいつは穏やかな顔のまま目つきだけ鋭くさせて、他人に有無を言わせない。従うしかないと思わせる目だ。

「……前に言ったな。ナマエはまだガキだ。若いんだからすぐに心変わりすると。
実際、その通りだった。もし最初にナマエの気持ちを受け入れて付き合っていたとして、こんな風に心変わりされていたら、俺はきっと立ち直れなかった。
……中年が拗らせると大変なんだ、わかるだろ?俺の判断は正しかったな」
「ナマエが本当にジャンを好きだったと、お前はそう思うのか?」
「知らねえ、だがジャンとナマエは付き合って、ナマエは心変わりして別れた、今はファーランに言い寄られている。
……それでいいだろ、もう」

俺はスツールから立ち上がった。
流しの前に立ち溜めていた食器を洗い始める。がちゃがちゃという食器の音と蛇口から流れる水音だけが店内に響いた。

「……リヴァイ、本当に大切な物は失うのが怖いな」
「……あ?」

皿を洗う音でエルヴィンの声が聞こえづらかった。俺は皿を洗う手を止め、蛇口をきゅ、と閉める。

「今俺達が生きているこの世界は平和だ。前世とは全く違う世界だが、それでも前世と変わらない部分もある」

俺は黙ったままエルヴィンを見つめた。
エルヴィンも俺から目を逸らさない。

「等価交換だ。何かを得るためには、何かを捨てなければならない」

そう言ったエルヴィンの目は、前世の――調査兵団団長時代のそれだった。

「本当に大切な物を得るためには、何かを捨てなければならないだろう。
傷つかないという保障か。自身に巣食う恐怖心か。
リヴァイ、お前には何が捨てられるだろうな?」

こいつは散々、それはもう散々、ずっと何かを捨て続け、そして得続けてきた男だ。
前世からずっと。

「まあお前が、何も得たいと思っていないなら何も捨てる必要はないが」



耳が痛い。



エルヴィンは俺から視線を外し俯くと、また一口コーヒーを啜った。ごくりと喉が鳴ったと思ったら、エルヴィンは顔を顰める。
何かと思ったら、エルヴィンはコーヒーカップを片手に再び俺を見て言った。

「リヴァイ……一口目から思っていたんだが、お前のコーヒー少し味が変わったんじゃないか?なんだか苦いが」
「……ああ?」

豆は変えていない。道具も変えていない。提供する手順も何も変えていない。
いつも通りに淹れたはずだ。
エルヴィンは、ハハと苦笑する。

「まあ……お前は存外繊細な人間だよ。昔からな」

エルヴィンの意図することはすぐに分かった。
俺はチッと舌打ちして食器洗いを再開した。



* * *



『ナマエちゃん、クリスマスは何してるの?
特に予定がないなら、一緒にどこかにいこう?』

ファーランさんに、そう電話で誘われたのはクリスマスイブ一週間前のことだった。



両親は磁器婚式の記念にと、12月22日から一週間ほどハワイへ旅行に行くことになっていた。
年頃の娘、しかも大学受験生を一週間も一人にすることに躊躇いがないのがすごいが、ずっと優等生だった、そして両親が仕事で不在になりがちでもきちんと留守を預かり続け、非行に走らなかった(と思われている)私の信頼は厚かった。

クリスマスに会おうだなんて……ファーランさんは誰か女の子とや友達と過ごしたりしないのだろうか。
なんだか、クリスマスに男女が二人きりで会うという行為そのものが、「ただの友達」の枠を飛び越えているようで躊躇した。

ファーランさんは大事な「友達」だ。彼と一緒にいることは楽だったし、心地良かった。
話していれば楽しいし、同世代の女友達とは全く違った視点を私に与えてくれたりして、会話は新鮮でもあった。そして「友達」という肩書は、もう恋愛はこりごりだと、店長以外の男性と恋愛なんてできないと、そう思っている私をとても安心させてくれる。

「友達」は失いたくない。
黙って返事をしない私に、ファーランさんはスマホの向こうで笑って言った。

『俺、特定の彼女がいないからさ〜、クリスマスに会う女の子がいないんだよね。クリスマス当日にナンパしてもついて来る子はいないしさ。だいたい、クリスマス当日に駅前でナンパする姿を人様に見られるのは悲しいだろ?
ヤローの友達も、普段俺が女の子取っ替え引っ替えしてるの知ってるから、クリスマスにまさか俺が一人だなんて思ってないんだよね。誘ってもくれないし、今更俺も混ぜてくれなんて言えないしさ。
クリスマスに誰とも会わないなんて、俺孤独と世間の冷たい視線に晒されて死んじゃうかも』

ファーランさんはペラペラと喋り、最後はおどけた口調で主張する。

『……24日も25日も校内で模試があります』

そう答えた。これは本当だ。
受験生たちがクリスマスで浮つかないようにという、進学校特有の姑息な手段なのだろうか。既に冬休みに入っている24日25日に、わざわざ模試を設定してきているのだ。

『おお……そうか……進学校って大変なんだね……。
じゃあさ、25日の夜は?模試は夕方までで終わるだろ?ご飯とか食べようよ、俺奢るからさ』
『……』

再び黙ってしまった私に、ファーランさんは悲しみを過剰に装った声を出す。

『頼むよ〜、友達だろ?助けてよ。クリスマスに一人じゃ俺、カッコ付かないんだって!』

「友達を助けろ」と言われると弱い。
実際25日の夕方以降なんて、暇そのものなのだ。きっと家でクリスマス特番をだらだら見るくらいしかしないだろう。

『……じゃあ、いつものファミレスがいいな』

そう答えると、ファーランさんは電話口で喜んだ。

『やった!……でも、いつものファミレスでいいの?せっかくクリスマスなのに』
『クリスマスシーズン限定のケーキが出ているの』
『わかった、ちゃんとご馳走する』

良かった〜、という安堵の声に、私までなぜかほっと息を吐く。
私はごろんと自室のベッドに転がった。電話口の嬉しそうな声を聞けば、これで良かったのだと素直に思えた。



旅立った両親からは、毎日最低一回は画像付のメッセージが届いた。
ハワイで能天気にはしゃぐ両親は、この国の冬とはかけ離れた環境を純粋に二人で楽しんでいるようだった。

パパとママはどうやって出会ってどうやって恋をしたのだろう。
好きになった相手に好きになってもらって結婚までして。結婚して20年経った今も仲が良く、こうして娘を置いて二人で海外旅行だ。

なんだかそれは、奇跡のような確立だ。
二人が出会って恋に落ちて結婚して……高校生の私にだって、それが気の遠くなる天文学的な確率だと言うことはわかる。

きっと私はこの後誰かと恋愛して結婚するようなことは……ないだろう。
自分が店長以外の男性を愛せるとは思えない。それはもう思い知った。
それはもしかして、幸せな恋愛と幸せな結婚をし、更に子供を無事に授かった両親を、悲しませてしまうことになるのだろうか。
パパとママは、娘の花嫁姿を一生見ることなく、孫を抱くこともないのか。
そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。



* * *



12月25日。模試は午後3時に終了した。
ファーランさんとの約束は午後7時のため、一旦帰宅する。

制服を脱ぎ、私服に着替えようとクローゼットを開けた。
着倒して少し伸び始めたニットと、多分秋から30回は履いているだろう超ヘビロテデニムをベッドに放り投げる。
着替え終わったところで、はたと思った。
クリスマスに、友達とはいえ男性に会うというのに、こんな近所のスーパーにでも行くような格好で良いのだろうか。姿見に映ったあまりにも普段着の私を見て、悩む。

――いや、この格好で行くべきだ。
お洒落なんか必要ない。友達とファミレスでご飯を食べるだけだ。
ファーランさんは私より年上で大人だし、女の子になんか不自由していないからそんなつもりはないだろうが、まかり間違っても私達の関係を恋愛に発展させてはいけない。
況してや今日はクリスマスだ。彼女がおらず私ごときしか捕まえられなかったファーランさんが、寂しさと世間のクリスマスムードに毒されてとち狂ってしまうことも、可能性としては無きにしも非ず、である。

恋愛的な要素は全て排除するべきだ。
傷つくのも傷つけるのも、もう沢山だった。




   

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