第一章 四月





02




* * *



その日以来、ナマエは、しょっちゅうこの店に来るようになった。
週に、2回か3回。気に入ったのか、その度にココアを注文する。
勉強道具を広げていたり、タブレットPCで何か執筆している時もあった。

俺はそんなナマエを横目で見ながら、これは俺の知っているナマエじゃないと自分に言い聞かせた。転生していたとして、記憶がないなら別人だ。



今まで、あの世界で共に生きた仲間に何人か出会えた。
ミケ、ナナバ、ゲルガー……だが、記憶を持っていたのはエルヴィンだけだった。
ミケ達とは今でも付き合いはあるが、今世での普通の友人としてだ。少なくとも、記憶がないあいつらはそう思っている。
もちろん俺やエルヴィンはあいつらに対し、前世の記憶がある分、特別な思い入れが無いと言ったら――それは嘘になる。

転生したナマエに、どれほど会いたいと思っただろうか。
前世の記憶が戻ったのは、多分17か18の時だったと思う。その時からずっと、俺は記憶の中のナマエをずっと想っていた。

記憶の中の女を想うなど、無駄な事だと――もちろん、そう思う。
だから、言い寄ってくる他の女と交際したことも何度かあったし、彼女たちを愛そうと努力もした。
だが駄目だった。目の前にいる実在する女よりも、記憶の中のナマエのほうが愛しいのだ。

俺は今世でエルヴィンと出会い、俺以外にも前世の記憶を持っている者が存在すると知り、ナマエに一縷の望みを掛けた。
どうか、ナマエも俺を想ったまま転生してくれていないかと。

だが、その希望は無残にも打ち砕かれたわけだ。

今俺の目の前にいるナマエは、どう見ても俺の記憶の中のナマエだ。
だが、ナマエは前世のことなど……俺のことなど忘れてしまっていた。



「……いつもお一人ですよね?他に店員さんはいるんですか?」

最初に声を掛けてきたのは、ナマエのほうだった。

「店員は俺一人だ。俺がオーナーで、店員で、店長。
この店は人を雇うほど忙しくない」

ナマエから声を掛けられたら、やはり心が躍ってしまった。
記憶にある涼やかな声と目の前のナマエの声は、全く一緒だった。動悸を悟られないように、精一杯素っ気ない声を出す。
だがナマエは俺の無愛想な態度を全く気にしない様子で、質問を続けてきた。

「店長さん、お名前はなんていうんですか?
店長さんは私の名前を知っているのに、私は店長さんの名前を知らないです」
「……」

俺は皿を磨きながら、無言を貫いた。

教えたくなかった。
ナマエに名前を呼ばれたら、自分が制御できない気がした。

こいつは今世でも女優かと思うほどの美人だ。しかも悪いことに、今世ではまだ高校生である。
未成年に手を出してしまっては犯罪だし、それ以前に、美しく前途ある若者がくたびれたおっさんの俺を相手にするとは思えなかった。
前世から拗らせている俺の想いが通じないのは容易に想像できる。できれば傷は浅いほうが良い。

「……ねえ、教えてくれないんですか?」
「当ててみろ」
「ふふっ、そんなのわかりませんよ」

ナマエは破顔した。

その笑顔を見て、俺の胸は柄にもなく高鳴った。
前世でも見たナマエの笑顔。
だが今のこいつの笑顔は、前世でよく他人に見せていた仮面のような笑顔ではない。
もっと純粋で、少しだけ幼さの残る――心から笑ったのだろうなと思える笑顔だった。高校生らしい笑顔だ。
つられて俺の顔も少しだけ緩んでしまう。慌てて引き締めたが、恐らくナマエには緩んだ瞬間を見られていた。
ナマエは嬉しそうな顔をして、質問を続けてきた。

「じゃあ、お歳は?」
「……33」
「うそっ!すごい……もっと全然若いかと思っていました」
「……」
「ふふ、若く見えるんですね店長さんって」

ナマエはにこにこして、俺に美しい顔と涼やかな声を惜しげもなく浴びせた。

俺の体中が、お前の顔に、身体に、声に、全てに恋焦がれているなんて、今世のお前は知る由もないんだろう。



来るたびに、ナマエは他愛もない質問をし、俺はそれに答えた。
深入りしてはいけないと思うのに、俺はついナマエの質問に答え、それどころか俺もナマエに色んなことを尋ねた。
――自分に正直になれば、今世のナマエのことが知りたかった。そして、今世のナマエと話ができるのは、とても嬉しかった。



「ねえ店長、この店は自分で建てたんですか?とてもレトロな感じですけど」
「元々は母親がやっていた店だ。俺はサラリーマンをしていたが、母親が死んだ後、脱サラして継いだんだ」
「そうなんですね……すみません」
「謝る必要は無い。女で一つで育ててくれた母親だったからな……死んだ時はそりゃ思うところはあったが、もう5年も前の話だ」



「お前は、その制服……マリア大付属高校だな。何年だ?」
「三年」
「受験生か。こんなところで遊んでいて良いのか?」
「だからこうやって、ここで勉強してるんです。それに私、学年首席。マリア大への内部進学なら99%合格」
「……ほう」



「店長ってこのメニュー全部一人で作ってるんですか?すごい……」
「食事系のメニューは全部俺が作るが、ケーキとプリンは作ってねえ。菓子を作るのはあんまり得意じゃねえし、信頼できる洋菓子店から仕入れてる」
「へえ……」



「時々……そのタブレットで書いてるのは何だ?」
「小説です」
「小説?小説を執筆しているのか?」
「そう。私、文芸部なんですよ」



「ねえ、いつもあんまりお客さんいないですけど……ていうか、いつ来ても私一人。このお店だけで食べているんですか?」
「はっ、失礼な奴だな。お前は学校に行っている時間だが、平日のランチ時にはちょこちょこ客が入る。それに不労収入もあるから、食うには困らねえ」
「不労収入って?不動産でも持ってるんですか?」
「いや、株だ」



「お前は毎回ココアだな。他の物は飲まねえのか?」
「だって、コーヒーも紅茶も苦いもん。紅茶はミルクティーにしてお砂糖いっぱい入れれば飲めますけど」
「ハーブティーもあるが」
「ミントは歯磨き粉みたいだし、カモミールは変な味がする。ローズヒップは酸っぱいです」
「はっ……ガキだな……」
「……じゃあ、飲めるように練習しようかな……
ねえ、店長。お名前は?」
「だから教えねえっつってんだろ。どさくさに紛れれば答えると思ったのか」
「ふふ、騙されなかったか」



ナマエは俺から質問されれば、大抵の事には答えた。
俺もナマエから質問されれば、大抵の事には答えた。
だが俺は、名前だけは教えなかった。

前世のナマエと共に、今世のナマエにも惹かれていることには自分でとっくに気づいていた。
だが、この気持ちは叶えないほうが良い。無かったことにしたほうが良い。
無駄な抵抗かもしれないが、俺の名前を呼ばれたら最後だと――名前は最後の砦だと、勝手に思っていた。



「ねえ、店長」
「なんだ、名前は答えねえぞ」
「『ナマエ』って誰?」

ナマエの言う『ナマエ』が、自身のことではなく、前世のナマエのことを指しているのはすぐにわかった。

ナマエがここに通い始めて半月以上が経っている。
他愛もない会話を繰り広げている間ずっと何も言わなかったが、ナマエが初めてここに来た日に、俺がナマエの名を呼び抱きついたことを言っているのだろう。

俺は磨いていたグラスを置いて、ゆっくりと顔を上げた。
ナマエと視線がぶつかる。
ナマエの口元は口角が少しだけ上がっていたが、瞳は笑っておらず真剣だった。

「お前は……前世って信じるか?」
「……わかんないです」

俺の問いに、ナマエは少し固い声で答えた。

俺はもう一度グラスを持ち、再び磨きはじめた。
ナマエと視線を合わさないようにし、口を開いた。

「――人類に、大きな敵のいる世界だった」

ナマエのほうは見ていないが、こちらを凝視しているのが雰囲気だけでわかる。

「今でいう……軍隊に、所属していたんだ。俺は兵士だった。ナマエも兵士だった。
俺達は同じ兵団に所属し……共に戦った。
――仲間だった。
人類は自由と平和を手に入れるため、大きな敵に立ち向かったんだ」

ナマエは無言のまま、ココアを飲んだ。
俺はちらりとナマエのほうに視線を投げ、すぐに手元のグラスに戻した。

「……信じられないなら信じなくていい。いや、信じろというのが無理な話だというのはわかっている」
「ううん、信じないわけじゃないです。
店長にはその記憶があるんですね?」
「俺の妄想だと思ってるだろう」
「うーん……そうかもしれないと思っていますが、前世の記憶というほうがロマンチックでいいなと思います」

妄想と断定せず俺のメンツを潰さない、だが妄想であることを否定しない、そつのない回答だった。俺は思わずふっと笑ってしまった。

「お前は聡いな、相変わらず」
「――相変わらず?」

しまった。口が滑った。
まずいと思い、顔を引き締める。

「……お前は信じないかもしれないが、これは妄想じゃねえんだ」
「……ふうん」
「――お前、名字は?」
「ミョウジ。ナマエ・ミョウジです」

『第三分隊長、ナマエ・ミョウジです』

右手の拳を左胸に当て、凛々しく敬礼をしたナマエの姿を思い出した。
今世のナマエは、前世と名字まで一緒だった。

「店長の知っている人も、ミョウジっていう姓なんですか?その人と私、よく似ているんですか?」
「見かけはな。
……だが何も覚えていないなら、お前はあいつじゃない」



* * *



喫茶フライハイトを出て、駅まで徒歩10分もかからない。
そこから電車に乗り、自宅の最寄り駅まで数駅だ。
最寄り駅から自宅まではやはり徒歩10分くらい。
フライハイトに居座ってから帰宅すると、最寄駅に着くのは20時近くになることが多い。私は一人、大通りを通って家路についていた。

フライハイトに行けば、店長にはいつでも会える。
店長の顔が見られれば嬉しい。声が聞ければもっと嬉しい。
フライハイトに通うのは、勉強のためでもあり執筆のためでもあるが、何より店長と過ごすためであった。

今まで男の子を好きになったことがないわけじゃない。キスまでしかしたことないが、一応交際もしたことがある。
だが、私にとってこの気持ちは、それまでの恋心とは比べ物にならない重さだった。



彼は「仲間」としか言わなかったが――
『ナマエ』が、彼の恋人だというのはわかった。
彼は、『ナマエ』と、どう恋に落ちたんだろう。

そんなことを尋ねても、きっと店長は教えてくれないだろうな。
もっとも、それを知りたいと思う気持ちと同じくらい、知りたくないという気持ちもあるのだけれど。



私は夜道を1人歩きながら、はあと息をついた。
切ない想いの詰まった吐息が、夜の空気に消えていった。




   

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