第七章 十月





02




* * *



驚いたのは、次の日の放課後にジャンが私の教室までやってきたことだ。

教室の入り口で私を呼び出した彼は、俯き続けていた昨日とは打って変わって、今度は私の目をしっかりと見据えていた。私はそんな彼に思わず言葉を失い、教室の入り口で無言のままただ突っ立っていた。

「ナマエ先輩、時間もらえませんか?」
「……うん、いいよ」

短い返事をやっと返す。
私は、低く怒ったような声を出す彼に従って、学生鞄を手に教室を後にした。



ジャンに付いて行った先は、学校から徒歩10分程のところにある、人気のない公園だった。
促されるままにベンチに腰掛ける。

天を仰ぐと、空が高かった。
気付けばもう10月。いつの間にか季節は秋になっていて、きっと多分すぐに冬が来る。冬が来たと思ったらすぐに春が来て……。
その頃私は何をしているのだろう。
恐らくマリア大1年生になっているとは思うが、毎日授業以外の時間は何をして過ごしているのだろう。変わらず無気力のままレポートとか書いているのだろうか。そして、変わらず、時々どこかの男性と寝ているのだろうか。

「ナマエ先輩」

私の隣に座ったジャンは固い声を出した。

「昨日言っていたことですけど」
「うん」

私はジャンを見つめ返した。

「もう、良く知らない男についていくのは止めてください」

その声は、はっきりと明瞭だった。

「……」
「もうナンパに付いて行くことはしないでください。自分を……自分を大切にしてください」

ジャンの主張は真っ当で正しい。ジャンはまともな人間だ。

「ナマエ先輩が誰か好きな方と幸せなんだったら、その人ときちんと付き合っているなら、もちろん俺はこんなこと言いません。でもそうじゃないなら……」

ジャンのその台詞に、私はかっと頭に血が上った。
あの雨の日、店長に言われた言葉が蘇る。

『お前が、ちゃんと誰か好きなやつと幸せなんだったら……
それで良いんだ』

私を愚弄したあの言葉。
ぶわっと全身の毛が逆立つような怒りが蘇り、体中に熱が走った。
全身の血管が収縮したのではないだろうか。血圧が上がる感覚が自分で分かった。

「何でジャンがそんなこと言うの?」

きっとジャンを睨み付け言い放つ。別にジャンが悪いわけではないのに、八つ当たりだ。
私の口調にはだいぶ棘があっただろうと思う。かなりきつい言い方をした。
だが、ジャンは私の冷淡な視線と口調にめげず、大声で言いかえしてきた。

「そ、それは、俺がナマエ先輩のことを好きだからです!!好きな人の事を心配するのは当然じゃないですか!!」

突然の大声での告白に私はぽかんと口を開けた。
毒気が抜かれてしまう。

公園内には他に人がいなかったが、公園の傍を歩いている通行人にも聞こえたのではと思うほど大きな声だった。というか、多分聞こえていた。リードを引いて犬の散歩をしていた中年のご婦人が、ぎょっとこちらを見たのがわかった。
真っ赤な顔をしたジャンが続ける。

「な、ナンパに付いて行ってよく知らない男と遊ぶくらいなら、俺と付き合ってください!!
俺が……俺がナマエ先輩を女扱いして……だ、抱きますから……」

最初は威勢の良かったジャンの声はだんだんと萎み、「抱きますから」のあたりではほとんど消え入りそうだった。

茹ったタコのような顔、という表現はこういう時に使うのだと思った。ジャンの顔は正にそれだ。こんなに顔を、耳までも真っ赤にした人を私は多分初めて見たと思う。
ジャンはきっと、本当に私のこと好きでいてくれたのだ。

「……ありがとう、ジャン。でも、ジャンとは付き合えない」

私はベンチに座ったまま、ジャンの目を見据えて言った。

「どうしてですか?俺のこと、嫌いですか?」
「嫌いじゃない、もちろん嫌いじゃないよ。でもね……」

食らい付いてきたジャンの膝の上にそっと手を載せる。彼の筋肉質な膝から、じんわりと人間の体温が伝わってきた。

「だってジャン、私のこと好きなんでしょ?その気持ちはすごくありがたいけど……本当に私のこと好きでいてくれる人とは、いい加減な気持ちで付き合えないよ」

ジャンは嫌いじゃない。一緒に話していれば楽しい。好きか嫌いかで言ったら、もちろん好きなのだ。
でも、それは男性として愛しているというのとは同義ではない。私は、アルミンやエレンと同じようにジャンも好きなのだ。そしてもちろん、店長を好きというのとは全く好きの意味が違う。
真剣に私を好いていてくれるのならば、尚更付き合えないと思った。

「俺、二番目でも、いや三番目でも良いんです。ナマエ先輩に今他に好きな人がいても良いんです。
その人とナマエ先輩が付き合っていて、ナマエ先輩がもう幸せなんだったら諦めます。でも、そうじゃないんですよね?
その人がナマエ先輩を向かないんだったら、俺の方がきっとナマエ先輩を幸せにできる」

ジャンは膝上の私の両手を取った。ぎゅっと私の両手を包むその手は、しっとりと汗に濡れていた。

「……」

真剣な瞳に、私は声が出なかった。
茶化しちゃいけない。誤魔化してもいけない。ジャンの気持ちはきっと本物だ。

「ナマエ先輩、俺先輩のこと真剣に好きなんです。ずっと……入学して出会った時からずっとです。
俺と付き合ってください。付き合ってくれるまで、何度でも言います。」



その言葉にぐらりと眼前が揺れた。
こんな私に、好意をこれほど懸命に伝えてきてくれる男性が他にいるだろうか。
過去に彼氏がいたことは、ある。その時はこんな風に告白してもらったような気もする。もう随分前のことで、記憶はだんだん風化していたが。

この数か月私が今まで関係を持った男性は数えきれないが、もちろんこんな風に好意を伝えてきてくれる人はいない。お互いに一回限りという前提なのだから当然だ。

単純に自分を好いていてくれるということにぐっときたのもある。
だがもう一つ、それよりももっと私の心を揺さぶることがあった。
ジャンの姿が私と重なるのだ。

『二番目でも良い』
『好きなんです』
『何度でも言います』

ジャンの気持ちは、わかりすぎるほどわかる。
必死に気持ちを伝えるその姿は、店長に縋りつく自分の姿にそっくりだった。

「……私、ジャンのことは、嫌いじゃない。けど、特別な恋愛感情を持っているわけじゃないんだ」
「そんなこと分かってます。今はそれでも良いって言っているんです。俺、ナマエ先輩が俺を一番に好きになってくれるように頑張りますから」

必死に店長に追い縋る私と、必死に私に追い縋るジャン。
ベクトルは互いに追いかけっこし、向かい合うことはないのだろうか。
私のベクトルがジャンに向けば、万事解決なのだ。
私もジャンも幸せになれる。店長もいらぬベクトルを向けられなくて済む。

「ナマエ先輩、俺ナマエ先輩を幸せにしますから」

ジャンの手に一層力が込められた。痛いくらいに私の手を握る。
その手は震えていた。掌は噴き出す汗でびっしょりだった。



視線をゆっくりと上へ、ジャンの手から顔へ移す。
やや面長の顔はやはり真っ赤で、目が充血もしている。

真剣でいてくれるんだ。



「……うん、わかった。よろしくお願いします」

ジャンを受け入れる言葉。
それは今の最低でどうしようもない私を捨てる言葉だ。
私は、ジャンを好きになる。そうすればもう私もジャンも傷つかない。

「本当ですか!?やったっ……やったーっ!!」

ジャンはベンチから立ち上がり、何度も小さくガッツポーズをした。
大声で喜ぶ様は子供のように無邪気で、急にジャンが幼く見えた。単純に可愛い、と思った。

私は、私の事を好きだと言ってくれる人を好きになってみよう。
まともな私に戻ってみよう。きっと戻れる。




   

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