第七章 十月





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超の付く進学校の三年生ともなると、毎月のようにテストやら模試やらがある。
その度に、A判定からE判定まで志望大学に対する合格の可能性を判定される。同時に、クラス内、学年内、そして全国における自分の順位を確認させられる。
自分と他人の立ち位置を確認させ、競争心を煽るシステムだ。

9月初旬の夏休み明け最初の模試で散々な成績を取った私は、10月こそ頑張らないといけない、これ以上親に心配をかけるとまずいと思い、真面目に勉強に取り組んだ。
しかし以前のように必死に勉強をする熱量は相変わらず湧いて来なかった。
10月に行われた模試の結果は前回より少しマシという程度の物で、返り咲いたとは言えない。変わらず学年首位は他の人間に譲ったままだし、全国での順位も大したことなかった。



その日は、誘われるのを狙って駅前にいたわけではなかった。

放課後、まっすぐ帰宅するつもりで駅に向かったが、丁度着いたところでスマホがブブブと振動した。
待ちに待っていた電子書籍の新刊が発売されたという内容の通知だ。心の中で喜びの声を上げ、早速ダウンロードしようとする。だが、ここは駅の改札前のど真ん中だ。こんなところに立ち尽くしていては他人様の邪魔になる。
私は場所を移動し、駅の入り口付近の柱に凭れかかった。ここでダウンロードだけして、後は移動中の電車の中で読めばいい。電車に乗ってしまうと地下を走行する箇所もあるため電波が安定しない。楽しみにしていた書籍のダウンロードが途中で止まってしまうことは避けたいので、ダウンロードだけはここでしていくのだ。

柱に凭れスマホを操作していた私に、声が掛かった。

「ねえ、君一人?」

顔を上げると、若い……恐らく大学生か専門学校生の男だった。
ファーランさんのように美形ではないが、遊び慣れている匂いを全身から漂わせている。

「今時間ある?俺と一緒に遊ばない?」

テンプレートの台詞を掛けられる。

悩んだ、というほどでもないが、どうしようかなと迷った。
ただの(失礼だがあまり頭が良さそうとは思えない)学生に見える。単純なナンパだろう。
まあ付いていっても良いか、あんまり遅くならないうちに帰れば……などと思っていたところに、別の男の声がした。

「ナマエ先輩!」

振り返ると、それは1年生のジャンだった。両手で拳を作り握りしめて立っている。

「お……お待たせしました!行きましょう!」

ジャンはそう言ってぐいっと私の腕を掴むと、ずんずんと繁華街の方へ向かって歩き始めた。呆気にとられた私は声も出ず、ただジャンにされるがまま着いていく。

「チッ、男連れかよ」

後ろで悪態づく男の声が小さく聞こえた。



ジャンは私の腕をきつく掴んだままぐんぐんと進み、繁華街の真ん中、駅からだいぶ離れたあたりでようやく歩みを止めた。

「……あの野郎……ナマエさんにナンパなんて、100万年早えよ……」

そう呟いて私の腕を解放した。私はついジャンに掴まれていた箇所をさするようにしてしまった。だいぶきつく掴まれていたので痕が付いている。

「あっ、腕……すいません!結構強く掴んじゃいました……俺、夢中で」
「全然、全然大丈夫!」

慌てるジャンに、私は首を振った。

「ジャン、ありがとう……私を助けてくれたんだよね?」

私の声にジャンは顔をかあっと赤らめた。
なぜだがわからないが、なんとなく。照れて素直に顔を赤らめたジャンの純粋さに、自分の汚さをぶつけたくなったのかもしれない。私は意地悪とも思える言葉を吐いた。

「でも、別に大丈夫なんだ。慣れっこなの、私。なんならあの男に付いて行こうとしてたくらい」
「……えっ!?」

しれっと言った私に、赤かったジャンの顔はさっと青ざめる。
その顔の青ざめ方に、ああ軽蔑するんだろうなと思った。

そうだよね、それが普通の反応だよね。
私のしていることはやっぱり普通じゃないよね。自分でもおかしいって気づいているんだ。
思考がすっと冷える。私の頭は驚くほど冷静だった。

「がっかりした?私、ナンパにも平気で付いて行っちゃうような人なんだよね。初めてあった人とセックスとかしちゃうんだ」
「え!?……えっ!?」

ジャンは目を白黒させる。顔色が更に悪い。おろおろして当惑している。
きっとこれは、ジャンに対する甘えだ。純朴な彼に汚い私をぶつけて、甘えている。

「ど……どうしてですか、ナマエさん!?どうしてそんなことを?」
「ね、時間ある?ジャン。お茶、付き合ってくれる?」

私はジャンに向かって笑顔を向けた。
ジャンは今にも泣き出しそうな顔で頷いた。



私達はファーストフード店に入った。
私はともかく、ジャンは高校生らしく良く食べるのを知っている。前にアルミン、エレン、ミカサ達と一緒に来たこともあるが、その時ももりもり食べていた。

「ジャン、何食べる?おごるよ。セットにするでしょ?あ、ナゲットとか食べる?」

レジでメニューを見ながら後ろのジャンに声だけで尋ねる。

「いや……コーラだけで……」

返ってきたのは、余所余所しい小さな声だった。
振り返ってジャンを見れば、俯いたまま怒ったような泣き出しそうな顔をしている。

「……コーラね」

私はそれだけ答え、前を向きなおすと注文した。

「コーラとオレンジジュースください。ここで食べます」
「かしこまりました。サイズはどういたしますか?」
「Mで」
「かしこまりました」

淡々と営業スマイルでレジを打つ店員には、私とジャンはどう映っていたのだろう。およそ喧嘩した高校生カップルというところだろうか。
ジャンのように歳が近い男性だと、並んでいれば交際しているように見えるだろう。33歳の店長じゃとてもそうは見えないだろうが。

席について、私はオレンジジュースをストローで啜った。ジャンは俯いて座ったまま、コーラに手をつけない。

「暑いよね、喉乾くったら……ジャン、飲んで?」

ジャンのコーラにストローを挿してやる。そして紙コップを差し出した。

「……ナマエ先輩、どうして……?
ナンパされて見ず知らずの男に付いて行くなんて……止めてください」

ジャンは私が差し出したコーラには見向きもせず、下を向いたままそう言った。
私は差し出していたコーラの入った紙コップをトレイの上に戻す。

「……どうしてですか……?」

答えない私にもう一度尋ねた。ジャンの声色は痛々しい物だった。

「どうしてかな。自分でも実はあんまりよくわかってないのかも」
「……は?……」

私の回答に、ジャンはやっと顔を上げる。目の周りが赤い。白目も充血している。
私が泣かせたのだ。純粋な彼を。こんな風に彼を傷つけて、私は自分の奥に燻っている痛みを消化させようとしているのだろうか。

「最初はね、大人になりたかったんだよね」

私はジャンの目を見て話し始めた。
ジャンはまだ1年生だ。ついこの間まで中学生だった。子供の私から見てもその顔は幼く映る。
だが、これから私が話す内容が理解できないほど子供ではない。それは同じく子供の私が良く知っている。

「私の好きな人、大人でね。33歳なの」
「……さんじゅうさんっ……」

ジャンの口から干からびたような声が出る。

「告白もしたんだけど、その人にガキは好みじゃないって言われてね。
処女も面倒くさいみたいなことを言ってたから、とりあえず処女は捨てようと思って、ナンパしてきた大学生に付いて行って処女を捨てたんだよね。それが切欠だったんだ」

私はそこまでいうと、ストローに口をつけオレンジジュースを一口飲んだ。ジャンは呆れているのかショックを受けているのか、絶句している。

「……ごめん、こんな話興味ないよね」

ジャンはもう十分私を軽蔑しただろうし、聞いていて愉快な話ではないだろう。彼に自分の痛みをぶつけるのはもうこの辺で止すべきだ。そう思った。
だがジャンは食い付いて来た。

「あ、あります。教えてください。ナマエさんが何でそんなことしているのか、全部」

ジャンはそこで初めて紙コップに手を出し、コーラを飲んだ。見れば彼の額に汗が光っている。きっと口もカラカラだったんじゃないだろうか。
私もオレンジジュースを一口啜り一息つくと、再び口を開いた。

「まあ、処女じゃなくなってもその人に受け入れてもらえることはなかったんだけど。なんか私に良く似た人と昔付き合っていたみたいで、その人の事が忘れられないんだって。
だから、その人の代わりでもいいから付き合ってくれないかと思って一生懸命アプローチしてたんだけど、駄目だった。ガキは相手にできないんだって。玉砕だよ、玉砕。
何度も付き合ってってお願いしたけど、その度に振られまくって……もう疲れちゃったし諦めもついているんだけどね。
諦めてはいるんだけど、時々あの人のこと思い出して耐えられなくなる。そういう時に誰でも良いからセックスすれば、なんか落ち着くんだ。
あの人は相手にしてくれなかったこんなガキでも、女扱いしてくれる人がいるんだ、この男は私を抱けるんだって思えば、なんか気休めにはなるし」

ペラペラペラペラと、私の口からはまるで自分の口じゃないかのように言葉が溢れ出る。

ジャンが私に興味を持っていることはなんとなく察していた。本人から告白されたわけじゃないが、今までの態度の端々から私に対する好意が滲み出ていた。その恋心がどのくらい本気の物なのかはわからなかったが、少なくとも私に対して悪い感情は持っていないと思っていた。
だから甘えたのだ。こんな風に、他の人に聞かせない話をするのは甘え以外の何物でもない。ありのままの私を曝け出すのは、甘えだ。ありのままを言葉にしたらこんな下品な話になった。
ジャンが眉を顰めて私から少し距離を置けばいいと思った。こんな女、好きでいる価値がない。

「あ、一応言っておくけど、売りじゃないよ。法律に触れるようなことはしてない」

私はへらっと笑ってなんのフォローにもならない情報を追加する。
ジャンは変わらず、怒ったような泣いたような顔のままだ。

「まあ似たようなもんか、やってることは。自分でもおかしいとは思ってるんだ」

私の口は再び勝手に動き出した。一旦喋り出すと、まあ流暢に口が回る。

「あ、でもね?変な人には付いて行かないようにしてるっていうか、なんか私そこの見極めは上手くて!はは、どんな能力だよって感じだけど。でも今まで危ない目とかには遭ったことなくて」

明るい声色でペラペラと喋り続けていたが、突然手首を掴まれた。
ジャンが私の言葉を遮るように、骨ばった大きな右手で私の左手をがっしりと掴んだのだ。
苦虫を噛み潰したような顔をしている。不意のことに、滑らかに動いていた私の唇と舌はぴたりと止まった。

「……止めてください」

唸るような声。
今のジャンの姿はまるで、野生動物のドキュメンタリー番組に出てきた、手負いのライオンのようだと思った。

私の左手首を掴むジャンの手には力が入っていた。手首からぎりぎりと音が鳴りそうだ。
私はジャンの手にそっと自身の右手を添え、優しく掴むと、彼の手をゆっくりと下ろす。空いた私の左手首には、うっすらと赤い痕がついていた。

「なあにー、ジャンが教えろって言ったからあ」

私はやはり明るい声色で冗談めかして言った。

誰にも言っていなかった私の醜態を、ジャンにだけ打ち明けた。吐き出しやすい相手に吐き出したのだ。
つくづく最低だ。私は。

ジャンに、口止めするべきだろうか。
いや、ジャンは言わない。人の機微がわかる子だ。

「話……聞いてくれてありがとう、ジャン。もう行こっか。遅くなるし、ね?」

私が先に席を立つと、ジャンは黙ったまま後に付いて来た。



がっかりさせてしまっただろう。
ごめんなさい、と心の中で呟いたが、私の半歩後ろを歩く彼には聞こえるはずもなかった。




   

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