第六章 九月





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成績を大きく落としてしまってからというもの、さすがにこのままではまずいと思い、フラフラと遊びまわる頻度は大きく減った。
ナンパされないようにカフェやファミレスでの勉強はしないようにして、大人しく図書館で勉強する日が増えた。結果として、良く知らない男と寝る頻度は激減した。
激減はしたが、ゼロにはならなかった。

エルヴィンさんと時々会い楽しくおしゃべりをすることは、私にとって大きなガス抜きになっていた。一回りも二回りも私のほうが年下だが、私達は対等な友人として会話を楽しんだ。
エルヴィンさんは私に新しい知識を与えてくれたし、逆に私も、エルヴィンさんの世代が知らないであろう情報を提供したりする。エルヴィンさんも会話を楽しんでいてくれるように見えた。
エルヴィンさんのおかげで、私の自尊心はとても慰められた。

それでも時々、無性に耐えられなくなる時がある。

それは例えば勉強中とか、入浴中とか、夜寝る前のベッドの中とか。
所謂フラッシュバックと言うのだろうか。あの雨の日の場景や、店長の引き攣った顔なんかが突然脳裏に浮かび上がってくるのだ。
浮かび上がる映像は、鮮明だった。私の記憶の中の物ではなく、まるで今この場で見ているのではないかと一瞬錯覚するほどに。

そういう時は耐えられなくなって、昼間は当然のように、夜でもママが夜勤だったりパパが仕事でいなかったりすれば家を抜け出して駅前に座った。
ぼーっと座っていればナンパ待ちだと思って声を掛けてくる人が必ず一人か二人いる。
声を掛けてきた人が危なそうじゃなければ付いていき、誘われるままに身体を重ねた。

挿入で絶頂に達したことがないというのは未だ変わらない。
正直、セックスが気持ちいいという感覚はさほどなく、自分自身もそれは求めていなかった。
私はセックスで快楽を得たいのではなく、私の身体で性的興奮を得て射精する男の姿で安心したいのだ。「気持ち良かったよ」とお決まりの台詞を貰えば、たとえそれがリップサービスであろうと、私の心は鎮静剤を打たれたかのように静まった。

一回セックスして落ち着くと、私は何事も無かったかのように家に戻る。そして平然とした顔でテレビを見たり、勉強したり、ぐっすり眠ったりした。
こんなのはおかしいと頭ではよくわかっている。だが、私はこの生活が止められずにいた。



ある日、教室で友人と話しながら帰る支度をしていた。今日はこの後特に予定もないから、図書館にでも行って勉強しようかと思っていた時のことだった。

「ねえ、何あれ?てか誰あれ?大学生かな?」
「おうおうおう、誰のお迎えだー?イケメンじゃん」

窓の外を見ていた友人たちが声を上げた。正門に誰か男が立っているのだろう。

「なになに?」

私も窓際に寄り、友人たちの隣から身を乗り出した。
正門前にすらりとした体型の若い男性が一人いた。友人も言っていたように、誰かしらのお迎えにやってきたのだろう。

……しかし、どこかで見たことがあるような男性だ。
私は目を凝らし正門前の男性を見つめた。だが、キャップをかぶっていて男性の顔は良く見えない。
そのまま見ていると、男性がこちらに向かって手を振ってきた。

「あれ、なんか手振ってるけど」
「私達に向かって?」
「いや……知らないけど……他の教室からも見てるやつがいるんじゃないの?」

友人たちが口々にいう中、私は窓から更に身を乗り出した。

「……んん?」

目を細めて男性をよく見る。男性はこちらに向かって手を振り続けていたが、反応の無い私を見てか、被っていたキャップを脱いだ。

「……ファーランさん!!」

キャップを脱いだら顔が見えた。あれはファーランさんだ。
私がファーランさんに気づいたことが分かったのだろうか。ファーランさんはうんうんと大きく頷くとまた手を振った。

「え?ナマエ、あんたの男?」
「いや、私の男ってわけじゃないけど……知り合いだった!行くね!」

問いかけてくる友人に手を振り、私は教室を小走りで出た。



「ファーランさん!どうしたんですか……?」

生徒玄関を出て、ファーランさんの立っている正門まで駆け寄る。

「お、ナマエちゃん来た」

ファーランさんはポケットに手を突っ込んでいた手を出して私に向き直った。

「ナマエちゃんに会いに来たんだよね。会おうと思っても、君なかなか駅前に現れなくなったからさ。
俺ここ数日、ずっと駅前うろうろしてたんだけど会えなかったから。ナマエちゃんの制服覚えてたから、学校来ちゃった」

にこにこと笑いながら、こともなげに言う。
ちらりと振り返って校舎の方を見ると、さっきまで話していた友人たちが窓から身を乗り出して私達を見ていた。他の教室からもちらほら人が見ている。

「ちょ……ちょっとファーランさん、移動しましょう」
「え?」
「ここ校舎から丸見えなんですよ。ファーランさんみたいな人が立ってたら目立つんです」

そう言って私はファーランさんの腕を掴み、駅の方に向かって早足で歩き出した。



ずんずんと進み、校舎からだいぶ離れた辺りで、ファーランさんの手を解く。
すると、今度は逆にファーランさんが離れようとした私の手を掴む。手はするりと腕を通り抜け掌を握った。

「……?」

何、という疑問は声には出さず表情だけで訴えたが、ファーランさんはにこにこと笑うだけだ。そのまま私の手を握り、駅への道を再び歩み始める。

「ナマエちゃんって連絡先教えてくれないからさ。だから会いたい時に連絡取る手段が無くて。
会おうと思ったらこの手段しかなかったんだよね。突然来てごめんね?」

そう言って端正な顔を私に向けた。

「……そんなのは別に良いですけど……」

私がぼそりと答えると、ファーランさんはそのまま私の手を引いて歩みを進めた。

駅に近づき街並みが賑やかになってくると、ファーランさんは「ここ入ろ」とチェーンのコーヒーショップを指差した。誘われるままコーヒーショップに入る。
「席取っておいて」という彼の指示のとおり、私はテーブル席を確保する。そのうちファーランさんが飲み物を二つ持ってやって来た。

「ナマエちゃん、前これ飲んでたよね?」

ファーランさんに手渡されたのは、キャラメルフラペチーノだった。先月ファーランさんとファッションビルの中で会った時に飲んでいた物を覚えていたのだろう。

「……ありがとう……」

キャラメルフラペチーノを両手で受け取る。こうやって女の子が何を飲んでいたかを性格に把握して、この人のタラシ力は相当なものだ。感心する。
ファーランさんはソファにどっかりと腰を掛けた。

「ね、連絡先教えてよ。会いたい時に連絡取る手段がないのは不便だよ、この現代社会で」

そう言うとファーランさんは、ストローでずずずとアイスコーヒーを吸う。カップをとんとテーブルの上に置くと、スマホを出してきた。

「会いたい時って……ホテルに行きたいってことですよね?今日は別に大丈夫ですよ、用事ないし。今から行きましょうか」
「ちょっと待って待って!違う!」

立ち上がろうと腰を浮かせた私の腕を、ファーランさんが掴み引き止める。

「違う、今行こうとかそういう意味じゃない」

引き止められた私は、もう一度ゆっくりソファに腰を下ろす。

「えと……誤解しないで?あの、会いたい時ってエッチしたい時って意味じゃないよ?
いや、そういう意味を全く含まないって言ったら嘘になるんだけど……うーん……」

ファーランさんは一人でもごもご言っている。会話の内容が的を射ない。

「え?エッチしたかったから私に会いに来たんでしょ?
わざわざ学校に来なくても、ファーランさんなら駅前に30分もいれば誰か女の子引っかけられるでしょうに……。
あ、暑いですもんね?外。30分も炎天下にいられないか。もう9月なのに全然秋の気配無いですよねえ」

私はキャラメールフラペチーノを飲みながらケラケラと笑った。
だが、ファーランさんを見れば、うーんと言いながら苦笑いをしている。頬をぽりぽりと掻き、言葉に困っている様子だ。
こういうファーランさんの様子は初めて見る。いや、まだ二回しか会ったことないのだが。

「……なんですか?今日なんか変じゃないですか?
人前じゃ言いにくい話があるんですか?やっぱりホテル行きましょうか」
「あのさ」

私の提案を無視してファーランさんが声を出した。

「ナマエちゃん、俺と付き合わない?」
「……は?」
「あの大雨の日に会ったおにーさんと、上手く行ってないんだろ?じゃあ俺と付き合おうよ」

ファーランさんは足を組んで、人好きのする笑顔で私を見ている。
私はファーランさんの言葉の意味をすぐには理解できず、呆然とファーランさんを見つめていた。
その間二人の間に言葉はなかった。BGMとして流れてくる控えめなボサノバと、周囲の客の会話、注文を取りコーヒーを淹れる店員たちの声が混じり合って、ぼんやりと私の耳に反響していた。
十数秒後、ファーランさんの言葉の意味をやっと飲み込む。

店長と上手く行っていないことはそのとおりだ。上手く行く気配が微塵もない。
だからってファーランさんと付き合うのは違うと思った。

店長とは付き合いたいと思っていた。私は、あの人の特別に、あの人の一番になりたかった。
あの人が私の知らない所で誰かを想っているのかと思えば、それだけで身を切り刻まれるように辛かった。
あの人が『ナマエ』さんを想っていると知れば、前世の自分に死ぬほど嫉妬した。

でもファーランさんにはそういう気持ちは沸いてこない。彼が誰と会っていようと誰と寝ていようと気にしないし、興味もなかった。
だいたいこの人は特定の彼女を作らず、毎日女の子をとっかえひっかえしている人だ。
自分だって同じような事をしているし、それが悪いとは言わないが、一人の人に決めてその人を一途に思い続けるということができるようなタイプには見えない。

ファーランさんは、きっと店長と上手く行っていない様子の私を見て、可哀想になってしまったのかもしれない。慰めようとしてくれているのかもしれない。
合点がいくと、ファーランさんってやっぱりお人よしの良い人なんだな、と納得してしまった。

「……ふふ、ありがとうございます。ごめんなさい、気を使わせちゃった?
私があの人と上手く行っていないと思って、慰めてくれようとしたんですね?」
「え?……いや、」

ファーランさんはこちらを見ると何か言いたげに口を動かしたが、言葉は続かない。

「大丈夫。もう諦めてるっていうか……疲れちゃって、私も。
上手く行かない恋愛はしんどいですよね。自分の中で折り合いがついているから、平気です。ありがとうございます」
「や……平気そうな顔には見えないんだけど」

ファーランさんは言いながらぽりぽりと頭を掻く。

「うん、でも自分で消化していくしかないから。
ふふ、ファーランさんに柄でもないこと言わせちゃった。一人の人に決めて付き合っていくとか、ファーランさんそういう風には見えないから」
「……うん、……うん、まあ……」

返事なのか相槌なのかよくわからない言葉を発しながら、ファーランさんはアイスコーヒーをストローで飲んだ。白い喉仏がごくりと動く。
ファーランさんは目を瞑って、うーん、と独り言ちていたが、パッと瞼を開けて私を見る。

「わかった。じゃあさ、連絡先は教えてよ」
「なんで」

私は、キャラメルフラペチーノのクリームを掬っていたスプーンを咥えながら言った。

「なんでって……身も蓋もないなあ……
俺が君に会いたくなった時、どうしようもないだろ。教えてくれないんだったら、また学校に突撃するしかないじゃん」

そんな風に言われると、教えざるを得ない。
まあこの人は連絡先を悪用するような人には思えないからいいか、と私は自身のQRコードを表示した。
素性と気心が知れた茶飲み友達兼ベッドでの友達、と思われているのかもしれない。それはそれで悪くない。
互いに連絡先を登録し合うと、私はスマホをポケットに突っ込んだ。

「あ、で、今日は行きますか?ホテル」

私が尋ねると、ファーランさんは苦笑して答えた。

「……今日は止めておこうかな。これ飲んだら駅まで送るよ」
「……うん……?」

セックスのお誘いじゃなければ何のために私に会いに来たのだろうと疑問に思いながら、私はスプーンでクリームを掬い続けた。




   

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