第六章 九月
03
* * *
9月に入っても暑い日は続いていた。暦の上では秋になって久しいが、体感温度で言えばまだまだ真夏である。
店の定休日である水曜日のことだった。大型書店へ行った帰り、駅前の広場である光景を見かけた。
ベンチに座っている若い女性に声を掛けている男性がいる。流行のブランドのTシャツに、ストレートのパンツ。キャップをかぶった顔は良く見えないが、すらりとした体躯はモデルのようだ。
「――ね?いいじゃん、遊ぼうよ」
「えー?どうしよっかなー」
容姿端麗な若い男に声を掛けられ、女の方も満更でもなさそうな声を出している。
ナンパなど珍しい光景ではないし、別に女が嫌がっている様子もない。全く俺には関係ないことなので歩みを止めることもなくそのまま通り過ぎようとしたが、その二人とすれ違う時に、男のキャップの下の顔がちらりと見えた。
「……っ」
その顔を見て、俺は思わず足を止めてしまった。
ファーランだ。
俺の足はその場に貼りついて動かない。目を見開き、ナンパしている男を凝視する。
間違いない。ファーランだ。あの日、あの雨の中コンビニの軒下で見たファーランだ。
俺は多分ものすごい顔でファーランを見ていたのだろう。
ファーランより先に、声を掛けられていた女の方が先に俺の視線に気づき、ぎょっとした顔をした。
「や……やっぱやめとくー」
俺の視線をどういう意味に捉えたのかは知らないが、女はそういうとベンチから立ち上がり、俺に怯えながらそそくさとその場から去っていった。
ファーランはそこで初めて俺の存在に気が付いた。
目つきの悪い中年男がこちらをじっと見ていたのが、女に逃げられた原因だとわかったのだろう。俺に向かって食いついてくる。
「ちょっとあんた!そんな怖い顔でこっちみんなよ、逃げちゃっただろ……って……」
近づいてきたファーランは、俺の顔を思い出したようだ。
「おにーさん……あの時のナマエちゃんの……」
「……そんなつもりはなかったんだが、邪魔したなら悪かった」
ファーランは俺の謝罪が意外だったのか、ぽかんと毒気を抜かれた顔になる。
「……いや、まあ別に良いんだけど。女の子はいっぱいいるし」
そう言いながらぽりぽりと頬を掻いた。
「女の子はいっぱいいるし」というファーランの言葉が引っ掛かってしまった。
あの日ナマエは、ファーランにナンパされて付いて行ったと言っていた。ファーランと寝たのも初めてじゃないと。
つまり少なくとも二回以上は、ファーランに誘われて付いて行ったということだろうか。
「……ナマエにも同じように声を掛けたのか?」
「は?ナマエちゃん?」
ファーランはナマエをナンパし、ナマエはそれに付いていった。そして身体を開いた。
文字にすればほんのこれだけのことだ。それに良くある話で、別に珍しい事でも悪い事でもない。
だが、俺の口からは勝手な懇願が滑り出た。
「……もう、もうあいつには声を掛けないでくれないか?」
「は?」
怪訝な顔をしたファーランの二の腕をガシッと両手で掴む。まるで縋るように
「不躾な事を言っているのは分かっている。
だが……ナマエのことが本気じゃないなら……ナマエときちんと交際するつもりがないなら、ナマエに手を出すのはもう止めてくれないか?」
「……はあ?おにーさん何言ってんの?
おにーさんにそんなこと言う権利あるわけ?あんたナマエちゃんの保護者かなんか?」
ファーランは呆れたような声を出し、自身の腕から俺の手を剥がした。
「ナマエちゃんは18歳だろ、もう何もわからない子供じゃない。声を掛けられて、自分で付いていくって判断して付いて来たんだ。別に無理やり強姦しているわけじゃない。
あんた、ナマエちゃんの親でも兄でも、恋人でもないんだろ?そんなこという権利ないよな?
俺もナマエちゃんもお互いに今特定の恋人がいない。その上で自分に責任を持って自由に楽しんだ。それの何が悪いんだよ?」
何も悪くない。ファーランもナマエも、法に触れたわけじゃないし誰も傷つけていない。
いや俺は傷ついているのだが、この場合俺が傷つくほうがおかしいのだ。
「だいたい、ナマエちゃんにあんな顔させてるのはあんただろ?
あんたナマエちゃんのことそんなに大事なんだったら、なんであんな辛そうな顔させるわけ?ナマエちゃんを一番傷つけてるのはおにーさんでしょ」
ファーランの俺を見る目に非難の色が混じっている。
俺は何も言えずに、ただファーランを見上げていた。きっと俺は今、惨めな目をしている。
「……ナマエちゃん、俺で初めてを捨てる時に何て言ってたか知ってる?」
「……何て言ったんだ!?」
その言葉に、思わず再びファーランの腕を掴んでしまった。俺に勢いよく掴まれたファーランの身体が揺れる。
ファーランは俺の悲鳴のような声を聞き驚いた顔をしたが、すぐにその表情は憐みへと変わる。彼の口からはフハッという失笑が漏れた。
「……いや、やっぱやーめた。教えてあげない。
ナマエちゃんの初めてを貰った俺だけの特権だからね」
自分の顔が嫉妬で赤くなり、大きく歪んだのがわかった。耐えられずファーランの胸倉を掴みあげる。
掴みあげられているというのに、ファーランの口角は上がっていた。楽しそうな声を出す。
「ナマエちゃんに本気だったらいいわけ?」
「……あ?」
ファーランの声色に対して、俺の声は低くどすが利いていた。ぐぐぐ、と腕に力が入る。
「暴力反対。離せよ。俺、何か悪い事した?」
俺の頭に血が上れば上るほど、ファーランの声は余裕の色を増していくようだった。俺はぶんっとファーランを振りほどく。
ファーランはTシャツの胸元についた皺を伸ばしながら、清々しい声を出した。
「ありがとね、おにーさん。俺の背中押してくれて。
あんたはもうナマエちゃんのこと心配しなくていいよ」
思わず目を剥いた。
背中を押す?
「本気でナマエちゃんのことが好きなら、俺がどうアプローチしようが勝手だろ?
俺、ここで何やってたんだろうな。俺が本当にナンパしたかったのは、ナマエちゃんだったんだ」
「……あ!?」
どういうことだ?
ファーランが、ナマエに本気だと言うことか?
「ナマエちゃんにいは本当に好きな奴が他にいると思って今まで遠慮してたけど、本気の恋愛するんだったら遠慮することもないよな?
ナマエちゃんは俺が幸せにする。あんたに散々傷つけられたナマエちゃんは、俺が癒す。
あんたじゃナマエちゃんを幸せにできないみたいだから」
そう言ってファーランは不敵な笑みを浮かべた。
止めろ。
お前なんかナマエと会ってせいぜい数か月だろ?
俺なんか、俺なんか何千年も前からナマエを愛しているんだ。
止めてくれ、頼むから、ナマエに触れないでくれ。
頭の中にみっともない感情が大量に湧いた。
もちろんその言葉を外に出すことはせず、ぐっと自分の中に押しとどめる。
こんな蛆のような感情がまだ湧いて出るのだ。自分自身に虫唾が走る。
「じゃあね、おにーさん」
ファーランは笑顔で、片手を挙げて去っていった。
俺はただ後ろから見つめることしかできなかった。
* * *
先日の全国模試の結果は、両親を大いに驚かせてしまった。
パパもママも、大きく成績を落とした私を咎めるようなことはしなかったが、その表情からは心配が読み取れる。
パパが入浴しに脱衣所に入ったタイミングで、ママはリビングのソファに座っている私の隣に腰かけてきた。
「ナマエ、勉強していないの?」
責めるような口調ではなく、穏やかな質問だった。
「……ううん、そういうわけじゃない……んだけど……」
「勉強したくないならしなくても良い。大学は……まあ、行った方が将来の選択肢は広がると思うけど、行きたくないなら行かなくても良い。ナマエの学校は進学校だから、みんな大学進学するのが当たり前みたいに刷り込まれていると思うけど、本当はそんなことはないのだから。
もし本当に大学進学したくなければ、例えば働くとか、専門学校に行くとか、職業訓練校に行くとか、色々他にも選択肢はあるからね」
「……」
私が答えずにいると、ママは続けた。
「パパもママも、ナマエが成績を落としたことそのものよりも、その背景で何があったかのほうが心配で気になるわ」
「……うん。心配かけてごめんなさい。大丈夫、大したことじゃなくて……」
ママの言葉は本心だと分かっている。だから心配を掛けたくはなかったのだが、具体的に何があったのかはとても話せる内容じゃない。
「次はちゃんと勉強するから」
私はそう言ってソファから立ち上がり、二階の自室へと逃げ込んだ。