第六章 九月





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「ああ、もう一つ理由はある。これは所謂メリットに繋がるところなのかもしれないが」
「なんですか?」
「青田買いさ。優秀な学生に唾をつけている」

エルヴィンさんの口から発せられた答えが意外過ぎて、今度は私がきょとんとしてしまった。

「あおたがい?……青田買い?」
「ナマエ、大学に進学するのだろう?」
「はい」
「マリア大?学部は?」
「一応文学部を志望しています」
「君、学年首席なんだってね。アルミンから聞いたんだ。全国模試でも随分優秀だとか」

私は苦笑してしまった。

「……その様子ならもうご存知かと思いますが、本当に優秀なのは私なんかじゃなくアルミンです。彼は学年首席どころか、何万人も受験する全国模試でトップですから」

そこでストローに口をつけ、一口だけアイスミルクティーを飲む。喉を潤して、続けた。

「私が学年首席だったのは、1学期までです。夏休み明けてすぐの全国模試では、学年で13位でしたし、全国では1000位も落としました。それで今日職員室に呼び出されたくらいで……結果、お約束の時間に遅刻しちゃったんですけど」

私は、ふふ、とため息のような笑いを吐いた。

「それでもかなり優秀だろう。名門進学校のマリア大付属高校で、上から数えたほうが断然早いんだから」

エルヴィンさんがゆっくりと足を組む。両手もテーブルの上で指を交互に組ませた。

「それに、これは俺が君と話していて思うんだが、ナマエは地頭が良いよ。
多分何をやってもそつなくこなすタイプだと思うけど、そういう人は企業という組織の中で活躍できることが多い」

エルヴィンさんは穏やかな表情のまま言葉を紡いだ。
口から出まかせにお世辞を言っているようには聞こえない。この言葉がエルヴィンさんの本心から出たものなのかと思えば、自分を評価されたことを純粋に嬉しく思った。

「ナマエ、大学を卒業したらうちの会社に来てみないかい?私は立場上人事に権限を持っているし……君ならうちの会社は大歓迎なんだが」

思わず、目を見開いた。答えに詰まる。

エルヴィンさんの勤めている会社は多分この国で知らない大人はいない超のつく大企業だ。
きっと入社したくたって入社できない人がごまんといる。この会社に入社すると言ったら、親は諸手を挙げて賛成するだろう。
だが、私の一生を左右するような大事な決断を今この場ですぐにすることはできない。
冗談を言っているようにも聞こえない話しぶりだ。真剣に考えてきちんと答える必要があると思った。

黙り込んでしまった私を気遣い、エルヴィンさんは明るい声を出す。

「もちろん、今すぐに答えを聞けるとは思っていないよ。
ナマエが大学に入学して卒業するまでまだ何年もある。もしかしたら大学院にいくかもしれないしね。
それまでにゆっくり考えておいてくれればいい。選択肢の一つとしてね」
「……」

難しい顔をして黙りつづける私に、エルヴィンさんはハハ、と笑って、微妙に話題をずらした。

「証券会社と言っても、働いている具体的なイメージが湧きにくいよね。
それともナマエ、何か特別に目指している職業があるのかな?」

私は俯いていた顔をゆっくりと上げた。

「あの……笑わないで聞いてくれますか?」
「もちろん。笑ったりなんかしないさ」

エルヴィンさんは私達のような子供の言うことでも、笑ったり、流したりしたことは今まで一度も無かった。いつでも私達を対等に扱ってくれ、発言を「子供の言うこと」と往なすことは無い。
そんなエルヴィンさんなら、打ち明けてみたいと思ったのだ。

「私、作家になりたいんです」

エルヴィンさんは、ほう、と眉を動かす。

「ずっと書いていくなら社会経験を積んだほうが良いと思うから、一度は企業でも働こうとは思っているんですが……いずれは専業作家になりたいです。なれるかはわかりませんが」

この夢を人に話すのは初めてだった。
物を書く人間はごまんといるが、そのうち職業作家として成功する人間はほんの一握り、いや一つまみしかいないことは重々承知している。
だから作家になりたいなどという夢は、絵空事と思われるのだろうと、誰にも話したことは無かった。
でもエルヴィンさんならきっと真剣に聞いてくれる。そう思い、夢を初めて口にしたのだ。

「そうか……作家か」

誘った自分の会社には興味がなく、全然違う職業になりたいと言ったのにもかかわらず、エルヴィンさんの口調は嬉しそうだ。なんだかまるで、娘の夢を初めて聞いた父親のようだ、なんて。
エルヴィンさんが言っていた「親戚のおじさん気分」というのは、言い得て妙なのかもしれない。

「君のとこの文芸部の文芸誌を読んだんだ。文化祭でもらった春号だけでなく、夏号のほうもね。
ナマエの書いた小説は素晴らしかった。二つともだ。
春号に載っていた巨人の話のほうは衝撃を受けたよ……。多分ファンタジーに属するのかもしれないが、SF的な要素も含まれていたね。エンタテイメント性が高いと思ったし、純粋に読み物として面白かった。
夏の文芸誌に載っていたほうは、情景描写が本当に美しかった。春号の話と全然違うテイストだったから、そういう意味では驚いたが」

嬉しかった。自分の書いた物を評価されるのは、きっと誰だって純粋に嬉しい。

「それにしても、高校生が恋心をあんなにきれいな言葉で紡げるとはね」

夏号に載せた方の話のことを言っているのだろう。
私はアイスミルクティーをずずっと啜ってからゆっくりと口を開いた。

「……高校生でも、わかります。一生懸命誰かを好きっていう気持ちは」

エルヴィンさんはしばらくじっと私を見ていたが、やがてゆっくりと穏やかな笑みを浮かべた。

「そうか……そうだよな。誰かを想う気持ちに、年齢は関係ないな」

その言葉に私がどれだけ慰められたか。

ずっと年齢を理由にされ虐げられてきた私の恋心。
その傷がじんわりと癒えていくようだった。



* * *



ナマエをエルヴィンに送らせた8月の大雨の日から数日後、ナマエから店に宅配便が届いた。
中身は貸した服だった。ただのTシャツとスウェットパンツなのに、丁寧にアイロンまでかけてあるようだ。シワ一つない。

お礼のつもりと見られる、小さな菓子折りが同梱されていた。有名百貨店の包装紙で包まれたその菓子折りは、随分と他人行儀だった。
無地の一筆箋も一枚添えられている。「ありがとうございました」と、それだけしか書いていない。
受けた借りは全部清算し、もう俺には会わないつもりなのだろう。
月並みな表現だが、心にぽっかりと穴が開いたようだった。

Tシャツとスウェットパンツを梱包されていたビニール袋から取り出す。
顔に押し付け、思いきり息を吸い込んだ。
ナマエの家で使っている柔軟剤か何かだろうか。嗅いだことのある香りだ。あいつの制服の白シャツもこんな匂いだった――いや、違う。
香水でもなんでもそうだが、香りは纏う人の体温で温められ、その人の体臭と混じって完成する。俺がベッドの上で嗅いだナマエの香りとは少し違う。

「……ナマエ」

こぼれ落ちた声は、消え入りそうだった。

どうか、どうか来世は、どちらも欠けることなく、二人とも愛し合った日々の記憶を持ったままに転生させてくれ。
二人が同じ重さで愛し合えるように。
さもなければ、頼むから前世の記憶など綺麗に消してくれ。

もう会うことのないだろう愛しい女の名前は、Tシャツとスウェットパンツに吸い込まれていった。




   

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