第六章 九月





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職員室に呼び出された私は、キャスター付きの椅子に座っている担任の前に立っていた。
頭部がだいぶ寂しくなった男性教師(60代と思われる)が担任なのだが、彼は背もたれに寄りかかり、ふんぞり返ったような姿勢になっている。

成績は学年でトップ、出席状況は良好、問題行動も特になし。絵に描いたような優等生だった私が、悪い内容で職員室へ呼び出されたのは初めてだ。
入学式の入学生代表の挨拶をしろとか、卒業式で在校生代表として送辞を述べろとか、そんなことで呼び出されたことは多々あるが。

呼び出しの理由は、新学期始まってすぐに行われた全国模試の結果だ。私は、学年順位を1位から13位に、全国順位だっていつも20位以内にいたものを、今回は1000位以上落としてしまったのだ。

「……ミョウジ、お前どうしたんだ?入学以来こんなに落とすの初めてだな」

担任は私の成績が収められている個人指導用ファイルを見ながら、私にそう声を掛けた。
声色は心配というよりは驚きのそれだ。受験前のこの大事な時期に、これだけ急激に順位を落としたのだ。呼び出しも致し方ない。

担任は白いワイシャツにグレーのスラックスを着ていた。なんの飾り気もなく、一言で言えば地味である。
男性だけに限らず、教師と言うのは地味な服装をする人間が多い。生徒に生活指導を行う手前、派手な格好はできないのだろう。

それとも、先生達はみんな洋服が意味のないものだと思っているのだろうか。私のように。
だとしたらそれはそれで面白い。
この人たちだって人間なのだ。そして大人なのだ。
家に帰ればみんな服を脱いで誰かとセックスしているのかもしれない。奥さんや旦那さん……配偶者かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
誰がどこで服を脱ぎ、誰がどこでセックスをしているかなど、わからないものだ。
この担任だって、私がどこで誰とどんなセックスをしているかなんて、知る由もない。
私はぐっと込み上がりそうになる笑いを堪えた。

「何かあったか?夏休み中、勉強に集中できないことでも?」
「いえ、特にそういうことがあったわけではありません」

私は笑いを押し殺し、担任の問いに無表情で答えた。

この成績も至極当然、当たり前の物だ。
原因は自分自身がよくわかっている。夏休み、いやその前から、私は全然勉強に身が入っていなかった。

春、フライハイトに通っていた時期はまだ良かった。
7月辺りに店長の家で色々……思い出すのも苦しいが、本当に色々あってから、勉強らしいことをほとんどしていなかった。
もとい、勉強らしいことをしていなかったというのは語弊がある。
勉強しなければいけない、努力しなければ私は成績を保てないということは分かっていた。だから一応勉強はしたのだ。机に勉強道具を広げ、問題集や過去問を解き、丸付けをして採点し、できなかったところを復習する。それまでと同じことをやっていた。
だが以前の私とは集中の仕方がまるで違ったのだ。
以前は、のめり込むように問題を解き、理解すべきを理解し、覚えるべきを覚える、という一連の学習スタイルに、もっと熱量を持って取り組めていたのである。
今の私にはその熱量が足りない。熱量が生み出せない。

残念なことに私は天才ではない。
努力が足りなければ、私の成績など坂道を転がるように落ちていく。
立て直さなければ恐らく来月の模試はもっと落ちるだろう。

「お前はマリア大に内部進学希望で間違いないな?学部は……文学部か。変更ないか?」
「はい」
「まあ……今までが良すぎたと言えばそうなんだがな。学年13位だって、1学年に500人いるんだから立派なもんなんだが。
もちろん、今の成績だってマリア大文学部に進学するのに支障があるわけではないが……あまりに急に下がったんでな、何か理由があるのかと思ったんだ。親御さんも心配するんじゃないか」

正論中の正論を言う。
この担任は何も間違ったことを言っていないのだが、その心配は私の心には響かなかった。

「どうもすみません、次は頑張りますので」

返事は上っ面の物になった。生気の無い私の声に担任も諦めたのだろう、もう行っていいぞと私を解放した。



私は職員室を出ると、一旦教室に戻り学生鞄を引っ掴んで生徒玄関へ向かう。
廊下を歩きながらスマホで時刻を確認すると、約束の時間が過ぎてしまっていた。待たせてしまっているだろうと思い、小走りになった。

生徒玄関を出て正門を抜け、一本先の路地に入る。いつも通りの場所に、白いベンツが止まっていた。スーツ姿でベンツに凭れているのは、エルヴィンさんだ。
エルヴィンさんの姿を認め、小走りだったのを更に速度を上げて駆け寄ると、エルヴィンさんは私に向かって手を上げた。ゆっくり来いと仕草で合図した。

「すいません!お待たせしちゃいました……」
「いや、大丈夫だよ」

車の前に着き肩で息を整える私に、エルヴィンさんは助手席のドアを開けて迎え入れてくれた。
学校の正門前に堂々と駐車されると、この車とエルヴィンさんの容姿は目立って仕方がないため、いつもこうして人通りの少ない路地で待ってもらっている。
運転席に乗り込んだエルヴィンさんは私に向かってスマートに微笑むと、サングラスをかけて静かに車を発進させた。



エルヴィンさんと会うようになったのはここ一カ月弱のことだ。

8月のあの大雨の日、私をフライハイトから自宅へ車で送ってくれた。
あの一件以来、エルヴィンさんとの距離がぐんと近くなった。連絡先を交換し、時々メッセージのやり取りをしたり、こうして時々会ってお茶を飲んだりしている。

連絡先を聞かれた時は驚いた。その後、メッセージが本当に届いた時にはもっと驚いた。
一体何が目的で私と連絡を取ってくれるのか、当初は相当に訝しんだ。
最初は、店長にこっぴどく振られた私を慰めようとしてくれているのかと思っていた。
もしかしたら私のあまりの憔悴っぷりを見て、自殺でもするんじゃないかと心配したのかとも思った。自分の知り合いに自殺されたら、例え自分がその原因とは関係なかろうと、夢見が悪いだろうから。

だが、エルヴィンさんの態度からは、私に対する同情や憐みは感じられなかった。
私を歳の離れた友人として対等に扱ってくれ、私という人間を尊重してくれている。
エルヴィンさんの態度は、ぼっきりと折れていた私のプライドに、そっと添え木をしてくれているようだった。

結局、何が目的で私と会ってくれているのかは未だによくわからない。
だが、会っているのは私だけではない。エルヴィンさんは、私の他に、アルミンやジャンや、エレン、ミカサなんかにも時々声を掛けて、お茶をしたり時には食事をしたりしている。私とエルヴィンさんは二人で会うこともあれば、彼らも交えて複数人で会うこともあった。

エルヴィンさんの目的はわからないが、一つだけ確かな事がある。エルヴィンさんと一緒に過ごす時間は楽しいということだ。
博識で機知に富んでいるエルヴィンさんとの会話はとても勉強になるし、単純に楽しい。
エルヴィンさんを恋愛対象の男性として見たことはないが、それは向こうも間違いなく同じだろう。
私は、エルヴィンさんをまるで歳の離れた兄のように慕っていた。アルミン達もきっとそうだろうと思う。



車は少し走り、おしゃれなカフェに着いた。
エルヴィンさんはいつも少し遠出して、素敵なカフェに連れてきてくれる。この日連れてきてくれたのは、天井が高く開放感があり、店内にはグリーンがそこかしこにあしらわれている、とても開放感がある空間だった。
天気も良く、大きな窓から差しこむ日光が店内を照らす。店内にはもちろん照明もあるが、自然光だけで十分なほど贅沢な大きさの窓から光が差し込んでいた。

会う時は学校帰りが多いから、私はいつも制服姿だし、エルヴィンさんもスーツ姿だ。
エルヴィンさんの年齢は良く知らないが、店長より年上なのは確かだろう。恐らく私とは20位歳が離れているのではないかと思う。
うっかりするとそれこそ援助交際を疑われそうな年齢差と服装だが、エルヴィンさんが一緒にいる限り、そういう疑われ方はしないだろうと私は思っていた。とにかく、エルヴィンさんの着ている物、身のこなし、醸し出す空気、全てが一流で立派過ぎる。そして、明るい日の光の下堂々とお茶を楽しむ私達からは、不健全な匂いは一切しなかった。

以前は、フライハイトで店長も交えて三人でお喋りを楽しむことが多かったが、私がフライハイトに行かなくなってからは、そういう機会もなくなった。

あの大雨の日以降、エルヴィンさんはフライハイトのことや店長のことにはほとんど触れなかった。
毎回連れてきてくれるカフェが都会的で今日的な雰囲気の物が多いのも、フライハイトとは全く違う雰囲気のカフェを敢えて選んでくれているのだろうと勝手に思っている。



「エルヴィンさんって……なんで私達みたいな高校生と会ってくれるんですか?」

アイスミルクティーを飲みながら、私は素朴な疑問をぶつけた。

「なんでって?」

エルヴィンさんはきょとんとして、不思議そうに目を丸くする。質問の意味が分からないと言った顔だ。

「私は……エルヴィンさんと話していて楽しいです。エルヴィンさんは博識だし、お話しもすごく上手だから。
でもエルヴィンさんにとって、私達みたいな子供とこうやって一緒にいることってメリットってあるのかなって。お仕事もお忙しいだろうに、わざわざ時間を割いてまで」

エルヴィンさんはコーヒーに少し口を付けた後、かちゃりとカップをソーサーに置いてから微笑んだ。

「ナマエは、メリットデメリットで付き合う人間を決めるのかい?」
「……え?」
「君にとって、フライハイトの店長と会うことはメリットが大きかった?だからフライハイトに通っていたのかな」

エルヴィンさんの口から「フライハイト」「店長」という単語が出たのは久しぶりだった。

フライハイトに通って店長にあるメリット。それは、私の「店長に会いたい」という気持ちが満たされることだ。
しかしそれにしてもデメリットのほうが大きかっただろう、特に後半は。
会いに行っても、自分の望む対応を返してくれるとは思えなかったし、きっと自分は傷つくかもしれないとどこかでわかっていた。
それでも、傷つけられたって会いたいと思うから会いに行っていたのだ。

「……いえ、違いますね。店長と会うことはデメリットのほうが大きかった」

ストローをグラスの中でカラカラと回しながら私は失笑した。

「そうだろう?同じだよ、それと。
もちろん、ナマエが店長に抱いていた気持ちと、俺がナマエ達に抱く気持ちの種類は違うだろうが……。
俺はナマエもそうだし、他の皆もそうだけど、会いたいから会う。それだけだ」

そう言ってにこりと笑い、再びコーヒーに口をつける。
エルヴィンさんは静かにコーヒーを一口飲むと、また口を開いた。

「……何と言うかな。変に思うかもしれないが……
君たちが恙なく毎日を送っていることを知れると、嬉しいんだ。もしかして俺は、君たちの親戚のおじさん気分なのかもしれないな」

そう言ってハハハと笑ったエルヴィンさんの目は、とても穏やかで優しかった。
昔、教会の日曜礼拝に参加したことがあるが、あの時見た牧師を思い出した。

エルヴィンさんの瞳を、なんと表現したら良いのだろう。
言うならばこの世の憂いを超越したような瞳だと思った。
もしかして、エルヴィンさんの持つ前世の記憶がそうさせているのだろうか。記憶の中の前世は過酷な世界だったと言っていたから。




   

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