第三章 六月
02
「……ナマエ。
何度も言っているが、俺は年下は好みじゃねえんだ。
……悪いが」
真剣な声と目でナマエと対峙する。
今までだって、何度も何度もナマエの申し出を退けてきた。
だが今までとは俺の声色が違うことに気づかないほど、ナマエは馬鹿ではない。
「……それは、困ります。
年齢差なんてどう頑張ったって縮まらないじゃないですか」
眉が少し下がった笑顔のまま、ナマエは口を開いた。
唇が少し震えている。瞳の奥も揺れているように見える。
「そうだ、だから無駄だ。諦めてくれ」
俺はナマエの瞳を見据えたまま、なるべく固い声色で言った。
その台詞を聞いて、ゆっくりと顔から笑みが消えていくナマエの顔を見ていられず、俺は手元の調理台に視線を逸らした。
そのまま台拭きを手に、調理台の手入れを始める。
こんなの、別に今しなきゃいけない仕事じゃない。だが何か仕事をしている体でいないと、俺の心が潰れてしまいそうだった。
勝手なもんだ。
今俺はナマエの想いを潰しにかかっているというのに、自分が潰れるのは耐えられないというのだ。
ナマエはしばらく黙っていた。
俺はそのまま調理台を磨き、ナマエと目を合わせない。
諦めてくれ。帰ってくれ。この場から早く。
そうでないと、俺はカウンターから出てお前を抱きしめてしまいそうだ。
お前と想いを通じあわせるのが怖い。
幸せのその先にある、いつか来る別れを想像すれば我慢できない。
それにお前にとっても、こんなおっさんと付き合うよりもっと将来性のある若者と付き合う方がきっと良いのだろう。
今の俺は兵士長じゃない。英雄でもない。地位も権力もない、ただの中年なのだから。
「……諦められません。どうしたらいいですか?」
沈黙の後に発せられたナマエの声は上擦っていた。
ナマエが懸命に作っていた笑みは、その顔からすっかり消えている。
こ恐らく冷静になろうとしているのだろうが、抑えきれておらず、感情が声から滲み出ていた。
俺は何も答えず、カウンターの中で自分の仕事を黙々としていた。
ナマエのことは無視しているような形になる。
だが、次にナマエから発せられた言葉は、押し殺している俺の感情に揺さぶりをかけるのに十分な威力を持っていた。
「じゃあ、『ナマエ』さんは年上だったんですか?」
「……っ」
思わず、顔を上げてナマエを見てしまった。
ナマエは額に汗を掻いているようだった。
さっき店に入ってきた時に見た汗とは違う。冷や汗だ。
この店は冷房が効いている。外気の暑さで掻いた汗ならとっくに引いているはずだ。
ナマエの目は据わっている。
俺はナマエに『ナマエ』と恋人だったと言ったことなどなかったはずだ。
思わず動揺を露わにした俺に、ナマエは捲し立てた。
「『前世』で『ナマエ』さんと恋人だったんですよね?そのくらいガキにもわかります。
私、『ナマエ』さんに似てるんでしょ?フルネームまで一緒なんでしょ?
店長は私が『ナマエ』さんの生まれ変わりかもしれないって思ってるんですよね?」
図星を突かれて声も出ない。
ナマエは俺の動揺を目にし、寧ろこれを好機だと捉えているのだろうか。畳みかけて容赦なく俺を追い詰める。
「『ナマエ』さん、年上じゃなかった?同い年?それとも年下だったけど、今の私よりもっと大人だった?」
やめろ、黙れ。
お前が前世のお前の話をするな。
調理台に置いていた手が震えた。
口の中がカラカラだ。
「代わりでも良いんです。きっと、代わりになれます。
私……店長の望むようにしますから」
ね?と言って、ナマエは冷や汗を掻いた顔で縋るように笑う。
つ、とナマエの頬を汗が一筋伝った。
その顔を見て、俺はかあっと頭に血が上った。
怒りにも似た欲情が腹の底から溢れだし、体中を高速で駆け廻る。
身体の中心から手足まで熱が走った。
とにかく今こいつから離れたい。
その一心で、俺は声を振り立てた。
「俺はガキは好みじゃねえっつってるだろ!それに処女なんて面倒なやつ、相手にしたくねえしな」
敢えて無慈悲で下品な言葉を吐き捨てる。
その言葉を聞くと、ナマエは震えた声を張り上げた。
「……私が処女かどうかなんて、店長にどうしてわかるんですか!?」
俺ははっと気づいた。
――わかるわけない。勝手に今世のナマエは処女だと決めつけていたが、そうじゃない可能性だって十分にあるのだ。
18歳だ。きっと今までに交際経験もあるのだろうし、身体を重ねた経験のある高校生なんて珍しいもんじゃない。
その可能性に思い至ると、ざっと一瞬のうちに血の気が引いた。
だが、俺の目の前のナマエの顔はみるみる真っ赤に染まり上がっていった。羞恥と怒りだろう。
顔を真っ赤にして震えているナマエを見れば、これは間違いなく処女だと思い至り、そして――
――ひどく安堵した。
この身体はまだ誰のものにもなっていないのだと思いほっとしたのだ。
自分の行動と感情の辻褄が合っていない。
ナマエを突き放そうとしているのに、ナマエが未だ誰のものでもないと知りほっとしている。
本当にクソだ、俺は。
「処女かどうかなんて、そんなもん見りゃわかる。お前みたいな乳臭い高校生」
はっ、と乾いた笑いと共に、再び手酷い言葉を投げる。
嘲笑に見えただろうが、実のところこの笑いは俺の安堵からくるものだった。
ナマエはとうとう黙った。
俯いて、その瞳は見えない。
――ナマエの身体が小刻みに震えているのに気が付いた。
俺が折った。
俺が折りに行ったのだ。
ナマエの気持ちを、確実に折るための行動だ。
沈黙の後、ぱっと顔を上げたナマエは今にも崩れそうな笑顔だった。
大きな目に涙を溜めている。
「……、おい、」
悪かった、と言おうとした。
だが喉でつっかえ、口からは出なかった。
意識して敢えて辛辣な言葉を浴びせていたはずだ。ナマエを俺から離れさせるためだ。
だが、こんな鼻の頭を赤くした涙目のナマエを見れば、その決意は簡単に揺らぐ。
ナマエが泣くかもしれないなんて、そんなことわかっていた。だが泣かせたいわけじゃなかった。
俺の行動と感情はもう矛盾しており、自分自身でも収集がついていない。
「わかりました!今日は帰ります!
母がケーキ用意して待ってるし」
笑顔らしきものを辛うじて保ったまま、ナマエは財布から500円玉を出し、それをカウンターにことりと置いた。
ココアは500円だが、今日ナマエが飲んだのは400円のブレンドコーヒーだ。
釣銭を出さねばならないが、俺が用意するより早くナマエは学生鞄を持って小走りで出口へ向かった。
「おい、待て」
「また来ます」
俺がレジから釣銭を出す前に、ナマエはそう言い残すとさっさと店から出て行った。
カランカランとドアベルが虚しい音を響かせる。
最後、ナマエはこちらを振り向きもしなかった。
当たり前だ。俺がそう仕向けたのだから。
奥歯が疼く。俺は歯を食いしばった。ギリギリと音がしそうだ。
これでいいじゃねえか。
あいつはもう俺には近寄らないだろう。
今更だが、俺はあいつに、誕生日おめでとうの一言も言っていないのだということに気がついた。
* * *
空は夕焼け色には染まらず鉛色のままだったが、フライハイトを出てから駅まではなんとか降らなかった。
だが電車を降りて自宅の最寄り駅についた時には、土砂降りの雨だった。
仕方がない、梅雨なのだ。梅雨であれば雨も降る。
私は鞄の中から、この時期常に持ち歩いている折り畳み傘を出そうとした。
鞄の中に手を入れ――止めた。
土砂降りの中、脚を踏み出す。駅の屋根から一歩出ればすぐに全身ずぶ濡れだ。
ざあああと大きな音を立てて、雨は容赦なく私を頭から打ちつけた。そのままどんどんと自宅に向かって歩みを進める。
頭からたっぷり濡れたところで、私の涙腺は崩壊した。
「……ひっ……」
大雨ではあるが駅前だ。人通りも多い。
歩きながらも嗚咽が漏れそうになるが、私は必死に押し殺した。
俯きながら歩く。
降りしきる雨は冷たく、瞳からこぼれる涙は熱い。
頬を涙が何度も伝ったが、外から見て雨なのか涙なのかわかる者はいない。
雨と涙の区別がつくのは、頬でその温度を感じている自分だけだ。
濡れ鼠の私を見て、通りすがりの人々は不憫そうな視線を投げかけていく。
中には、「貸しましょうか?」と傘を差しだしてくる親切なおばさんもいた。
私は「大丈夫です」と小声で返し、俯いたまま首を振り歩き続けた。
欲しいのだ。どうしても。
どうしても店長が欲しい。
どうしてこんなに執着しているのか、自分でもわからない。
でも腹の奥から何かに突き動かされているように、あの人を欲して欲して仕方がない。
あんなにひどいことを言われて、ずたずたに突き放されているのに、それでもどうしても好きなのだ。
ふと、幼い頃の誕生日を思い出した。
あれは何歳の誕生日だっただろうか。
欲しい欲しいと前々から強請っていたクマのぬいぐるみが誕生日プレセントだった。
ラッピングを解いてそのぬいぐるみが出てきた時に、すごくすごく嬉しかったのを覚えている。
親に欲しい欲しい、買って買って、お願い、と言い続けて、やっと買ってもらえた物だった。
店長はクマのぬいぐるみじゃない。
親に欲しいと言ってももちろん助けてくれないし、お金を出して買えるわけでもない。
お金で店長が買えるのであれば、どんなバイトをしてでもお金を貯めて買うだろう。
だがそれは叶わない。店長は物ではないのだから。
店長にこっちを向いてもらえるなら、何でもできるのに。
『ナマエ』さんの真似だって、きっと上手にやってみせるのに。
教えてくれれば、口調も、性格も、似せてみせる。
でもきっと店長はお願いしたってそんなことは教えてくれないだろう。
気付けば家に着いていた。
私は涙を拭って、玄関を開ける。
「ただいまー」
気丈な声を意識して出す。泣いていたことが親にばれたら面倒だ。
「おかえり、やだナマエ、びしょびしょじゃない!傘持って行かなかったの?」
「うん」
ママの声に私は端的に返した。長々と口を開かないほうが良い。まだ震え気味の声に気づかれたらコトだ。
「お風呂先入る」
「そうね、そうしなさい。ナマエの好きなお店のチーズケーキ買ってあるわよ。パパももうすぐ帰ってくるって言っていたから、お風呂から上がったらみんなで食べましょう」
「うん」
そう言って私は脱衣所に逃げ込んだ。
濡れた制服を脱ぎ捨て、湯船に浸かる。
風呂場は音が響く。
漏れ出す嗚咽がキッチンのママに聞こえないように、私はシャワーを全開にして水音を立てた。
「……くっ……」
湯船の中で、嗚咽を殺す。
涙がボタボタと垂れ、湯船の中に落ちていった。
早く大人になりたい。
あと何年したら大人になれるのだろうか。
いや、何年したって大人になんかなれない。
あの人と私の年の差は縮まらないのだから、私はあの人にとって永遠に子供だ。
「……ぐっ……うっ……」
湯船で押し殺している嗚咽は、潰れた鳥のような苦しげな音になって私の喉から漏れ出ていく。
18歳になるこの日を待ち侘びていた。
18歳になれば、大人扱いしてくれるまではいかなくても、少しは相手にしてくれるんじゃないかと淡い期待を持っていた。
だって、私は店長の瞳の熱を知っている。
私を通して『ナマエ』さんを見ている瞳を知っている。
何でもする。
何でもするから、店長の目を私に向けたい。
――何でもしてやる。
ざああというシャワーの水音の後ろで、音も無く涙は私の頬を伝い続ける。
顎まで到達して行く先の無くなった涙は、ぽたりぽたりと湯船の中に吸い込まれていった。