第三章 六月





01




文化祭で手に入れた、ナマエの書いた小説。
アルミンとエルヴィンと一緒の時は冒頭の数ページしか読まなかったが、帰ってきたその日の夜に全編を読み耽った。

小説は、あの世界で俺達が経験したことと酷似した内容だった。
その小説を読んだことをきっかけに、俺は今の今まで忘れていたようなことまで思い返してしまった。

あまりにもクソな時代だった。
ナマエの小説は記憶のある俺にはあまりにも生々しく、俺は今まで無意識に思い出さないようにしていたナマエやエルヴィンの最期の姿まで思い出してしまい、読んだその日は思わず便所で吐いた。

しかし初読のその衝撃をなんとかやりすごし、しばらく経つと、冷静にナマエの書いた小説を読めるようになっていった。

俺は文学には詳しくないし読む本も偏っている。フィクションは決まった作家数人の作品しか読まない。
だが、ナマエの書いた小説は物語として面白いのだろうと思った。
もしあの世界のことなど露程も知らない人間が読んだならば、これは小説として純粋に楽しめるのだろう。



俺が以前ナマエに前世の話をした時には、人類に大きな敵がいたとしか言わなかった。
巨人がどうとか壁がどうとかは一切話さなかった。

店に来たナマエにそれとなく聞いたことがある。

「あの小説……お前、どうやったらあんな舞台を思いつくんだ?」

ナマエはけろりと答えた。

「あれは私の見た夢が元になっているんです」
「……夢?」
「はい。不思議な夢なんですけど……なんかあんな世界の夢を見たことがあって……」

夢じゃねえ。それはお前の記憶だ。
そう言いたかったが、もちろん言わない。

言わないほうが良いのだろう。
記憶があれば俺との関係も思い出してくれるのではと期待する確かに気持ちはある。
だが良く考えれば、あんな時代の記憶など無いほうが心穏やかにいられるはずだ。現に俺は、あの時代のことを思い出して吐いているくらいだ。

思い出さずこのまま穏やかに過ごしてほしいと願う気持ちと、思い出して俺の事を前世のように呼んでほしいと願う気持ちが混じり合い、俺の腹の中はマーブル模様に染まり上がる。
だがナマエは一貫して前世の記憶は一切思い出さなかった。
こんな小説を書けるほどあの世界のことを夢に見ているというのに、記憶が蘇らないということは、きっともう思い出すことはないだろう。



* * *



6月ももう下旬だ。梅雨入りし、雨が降ることが多くなった。
湿度も高く、気温も本格的な夏に向けて日に日に上がっていく。外気を不快に感じる日が増えた。
今日も雨こそまだ降っていないが、いつ降り出してもおかしくないような鉛色の空である。



カランカランとドアベルが鳴った。
ナマエだった。

その日、ナマエは多分急いでやって来たのだろう。
店に来る時刻がいつもよりも30分以上早かった。
息こそ上がっていないが、額にはうっすらと汗を掻いているように見える。

「いらっしゃい」
「こんにちは」

定型化した挨拶を交わし、ナマエはいつも座っているカウンターの端に腰掛ける。

5月まではブレザーを着ていたナマエだが、今月の頭に衣替えをしたらしい。
今は半袖の白いブラウス1枚だ。スカートの柄は変わらずチェックで、見た目が同じもんだから俺にはさっぱり違いがわからないが、こちらも衣替えをして冬用から薄い夏用になっているそうだ。以前にナマエ自身がそんなことを言っていた。

自分が制服を着ていたのはもう15年以上前だ。ナマエと俺が15歳離れているのだから当たり前なのだが。
10代だったあの頃、夏服への衣替えで急に薄着になった女子生徒を前に、胸を高鳴らせなかったとは言えない。
若さ故、まあそれも致し方ないだろう。

今月の頭、ナマエが衣替え後に初めて店に来た時の話だ。
薄着になったこいつを初めて見て、10代の時に感じた興奮に近い感情を覚えた。
33歳の俺がだ。
街中でもっと露出をしている女は腐るほどいるし、そういう奴を見たって何とも思わない。
というか、もっと直接的に女の身体を見たことももちろんある。

ナマエの夏服に邪な感情を抱いたことは当たり前だが誰にも言えないし、そんなことはおくびにも出さない。
だが、制服の夏服ごときに反応しているという事実は、自分自身を大いに呆れさせた。



ナマエは学生鞄をボンと隣の席に置くと、勉強道具も出さずタブレットも出さず、カウンターの中の俺に向かって前のめりになりながら声を掛けた。

「店長、私今日誕生日なんです!18歳になりました」

――今日がお前の誕生日なのか。
全然知らなかった。食器を片づけていた手が一瞬だけ止まる。

「そうか、良かったな」

俺はできる限りしれっと返事をし、再び手を動かし始めた。
食器を片づけ終わるとココアを作るための小鍋を出す。こいつが注文するのはどうせそれだ。

「覚えてますか?」
「なんだ」
「18歳になったらもう一度言うって言ってたこと。
店長、私店長のことが好きです。付き合ってください」
「……」

俺は黙ってココアを作るための準備をしていた。牛乳とバターを冷蔵庫から出す。

覚えていないわけがない。
だが応える気のない気持ちに、わざわざ覚えていたなどと報告する必要もない。

「18歳になったから、もう淫行条例には引っかかりません」

ナマエの嬉しそうな顔を見て、気持ちがぐらつきそうになった。

ナマエの瞳は目尻が長い。瞳は大きいのに横にも長く、ネコのような目だと思っていた。
だが、目を爛々とさせて俺の答えを待っているその様は、ネコと言うよりはさながら忠犬である。

俺は意志を強く持ち、声を出した。

「断る」
「なんでですか?」
「ガキは好みじゃねえって言ってるだろ。何度も言わせるな。
甘ったるいもんしか飲めねえガキが」

俺の返事を聞いて、うふふふとナマエは含み笑いをする。
無言のままちらりとナマエのほうに視線をやると、ナマエはしてやったりという顔だった。

「コーヒーください」
「……あ?」
「飲めるようになったんです!コーヒー!紅茶も!
だから今日は、コーヒーください」

……コーヒー。
一応この店は喫茶店だから、コーヒーと一口に言ってもブルーマウンテンとか、キリマンジャロとか色々あるんだが、と脳内で突っ込んだ。
だが、ナマエのその誇らしげな顔は可愛らしかった。だからそんな意地の悪いことは言わない。
俺は小鍋を片付け、黙ってブレンドを出した。
砂糖やミルクを入れるのだろうかと思っていたら、ナマエはブラックのままコーヒーカップに口をつけた。
一口飲み、それはそれは得意気な顔でこちらを見る。

「ね!ブラック飲めるんです!飲めるようになったんです!」

「飲めるようになった」ということは、恐らく練習したのだろう。
ブラックを飲むナマエは、あからさまに顔を顰めるようなことはしなかったが、決して美味しそうに飲んでいるようには見えない。
俺の見えないところで、苦味に耐えながらコーヒーを飲めるよう練習しているナマエを想像すると、そのいじらしさにこっちが顔を顰めてしまいそうだ。

「ね?店長がガキは嫌だって言うから」

ナマエはそう言ってコーヒーカップをカチャリとソーサーの上に置き、笑顔で俺を見つめた。

良く見れば、笑顔だが目の奥が笑っていない。
眉が、まるで恐れているかのように少しだけ下がっている。
ナマエの顔からは、期待と、それ以上に大きな不安が読み取れた。



このままこいつの手を取って、抱きしめてしまったらどうなるんだろうな。



俺はカウンターの中からナマエに向き合った。
これからこいつの想いを折る。




   

目次へ

小説TOPへ




- ナノ -