第二章 五月
06
『
人類は滅亡の危機を迎えていた。
100年前、地球環境に危機を覚えた宗教科学団体。
彼らがとった究極の自然保護活動――
それが『人類駆逐計画』だった。
彼らは、人間では存在へと姿を変えた。
胴体に頭が一つ、手足が二本ずつついているという点は、人間と変わらない。だが、15mはあろうかという巨体。そして頭部を含め、一切の体毛の類が見受けられない身体。凶悪な目つき、そして極端に本数の増えた歯牙。
人類駆逐計画の名の通り、彼らは人類を駆逐することを目的として、殺戮を繰り返した。
人間を踏み潰し、握り潰し、そして喰いちぎった。
既に人間ではなくなった彼らは、残存した人類に『巨人』と呼称された。
既に人類の8割が死滅。
迫りくる巨人に決死の抵抗作戦を敢行するが、人類が勝利した事実は一度もない。
自然を守ることを目的とする巨人は、決して樹木を破壊しなかった。
残された人類は、町の周りを50mはあろうかという大木で囲み、巨人の侵入を防いでいた。
そして、その中で自給自足の生活を強いられていた。
』
「……おい、これ……」
手が震えた。
冒頭の数ページを読んだだけで、わかる奴――俺とエルヴィン、アルミンの3人だけだが――にはわかる。
エルヴィンも目を見開き、声を失っていた。
それは、間違いなく『あの世界』の記憶が反映された世界観だった。
「壁」が「大木」であること、宗教団体による計画だったこと、など、細かいところは俺達の記憶と乖離している部分も勿論あるが、世界観が『あの世界』と酷似した設定だった。
俺達は何も言えず、静かに文芸誌をテーブルの上で閉じた。
騒々しい周囲の音が全く耳に入って来ないほど、俺は衝撃を受けていた。恐らく、エルヴィンも。
十分な沈黙のあと、アルミンが口を開く。
「僕、昨日の文化祭初日にこれを手にしたんです。
昨日の夜、家で一人で読んで……本当に驚きました。ナマエ先輩には記憶がないと思っていたので。
だから今朝、文芸部に突撃してナマエ先輩に聞いてみたんです、『覚えてるんですか?』って。
――『何のこと?』って言われました」
「……記憶が無いと演技しているという可能性はないか?
前世でもナマエはなかなかの演技派で策士だったと記憶しているが」
エルヴィンが机の上で両手を組んで言った。
「いや、それはないだろう」
俺はエルヴィンの言葉を即座に否定する。
もしナマエが本当は記憶を持っているならば、俺の名前も記憶にあるかもしれないが、そういった素振りは見せない。それに、もし記憶があるのだったら、俺が自身の記憶を語った時にすぐに反応しているだろう。
それが、記憶を持っていることを隠すための演技だと仮定しても――その必要がどこにある?
俺達に対しても、アルミンに対しても、ナマエが記憶を持っていることを隠す必要性が見当たらない。
前世でのナマエは確かに聡明で策士だ。
今世のナマエも聡明ではあるが、前世と比較すれば幼いこと甚だしい。
ブルドーザーのように押し付けてくる俺への好意が、演技だとは考えにくい。俺に好意を持っているのだから、記憶があれば名前を思い出せないなどと嘘はつかないだろうし、その記憶を共有しようとするのが自然だろう。
その好意が一時的な物であるとか、または気の迷いであるとかの議論は一先ず置いておくが、ナマエが今俺に好意を向けているのは間違いないだろうと思う。
今のナマエは年相応に子供で、だからこそ好意を明確に表現してくるのだろうし、そもそもこのおっさん相手に演技して好意を装う必要などないはずだ。
「多分、ナマエ先輩の中に潜在意識があるのだと思います。
自覚はないと思いますが、紛れもなく彼女はあの時代のナマエさんが転生した人物で、あの時代の記憶が彼女の奥深くに眠っているのだと……思います」
アルミンは淡々と、自身の推論を披露した。
そしてそれは辻褄が合っており、説得力があった。
俺達はふうっとため息をつき、すっかり冷たくなってしまった紅茶とコーヒーに口をつけた。
ナマエが残して行ったチーズケーキは乾燥して干からび始めていた。
「そうだ、リヴァイ兵長」
「今は兵長じゃねえ」
「じゃあ……リヴァイさん」
アルミンは片手を口元に立て、声を潜めた。
「ジャン……ナマエ先輩に対して熱を上げているみたいですよ。
前世ではミカサのことが好きみたいでしたけど、今世ではその気無いみたいです。
さっきもそうですけど、何かとアプローチしているみたいですので、どうぞお気をつけて」
さっき、ジャンがメニューを手にナマエに接近した映像が脳裏に浮かんだ。
……あのくらいの接近がなんだっつうんだ。俺とナマエは前世で――
その先が頭に思い浮かぶ前に、俺ははっと我に返った。
今、俺は何を考えた?
自分で自分の想いを封印すると決めたのではなかったか。
「……関係ねえ」
何とか喉から出した声は、平静を保てていただろうか。
今、自分自身に感じた動揺を必死で押し殺す。
「俺達は別に付き合っているわけじゃねえからな。前世で恋仲だったからと言って、今世で同じ奴と恋仲にならなきゃならねえルールはねえだろ。
そもそもあいつは記憶が無い。
恋愛は自由だ。どいつがどいつとくっつこうが俺には関係のない話だ」
俺は胸の前で腕を組んで、背もたれにふんぞり返ってそう言った。
なるべく、横柄に見えるように。声が弱々しくならないように。
「えっ……そうなんですか?」
「ああ」
余計な事を言ってくれるなよ、とエルヴィンに念じていたのが通じたのだろうか。エルヴィンはコーヒーに口をつけるだけで、ずっと黙っていた。
「それから、アルミン」
「はい」
「俺の名前をナマエから聞かれることがあっても教えないでくれ。あいつ、俺の名前を知らねえんだ」
「……何でですか?」
アルミンは上目遣いで、俺の顔色を窺うように声を出した。
何でだって?聞いてくれるな、そんなこと。
「頼んだぞ」
俺はアルミンの質問には答えず、固い口調で念押しだけした。
「……了解しました」
アルミンは、まるで部下だったあの世界のような返事をした。
文化祭を楽しむために、マリア大付属高に来たわけじゃない。
俺もエルヴィンも、アルミンとの話が終わると帰路につこうと教室を出た。
だが玄関で靴を履きかえる間際に、ナマエにミスコンの授賞式を見に行ってやると言っていたことを思い出した。その後にあった衝撃が大き過ぎてすっかり忘れていたが。
自分で言ったことだからしょうがねえ。俺はエルヴィンを付き合わせ、靴を履きかえようとしていた足を、授賞式の会場である体育館に向かわせた。
人混みの廊下を縫うようにして体育館へ進む。
俺とエルヴィンが体育館に着いた時には、既に授賞式は終盤だった。
ちょうどステージ上でナマエが声援と拍手を浴びながら、安そうなプラスチックの王冠を載せられているところだ。
戴冠が終わると次に渡されたのは「金一封」とデカデカと書かれた白い封筒。
「気になる中身は〜〜っ!なんと、1万円でーす!!」賞金の額が司会によりアナウンスされると、会場から羨望の声があがる。ナマエは賞金を恐縮しながら受け取った。
体育館内は拍手が鳴り響いている。
友達だろうか、ナマエーっ!という複数人の女生徒の甲高い声が聞こえた。ナマエちゃーん!という男子生徒達の低い声も聞こえる。
戴冠されている時のナマエは笑顔というにはあまりにも恐縮した表情だった。
だが賞金をもらい正面を向いた際に、自分の名を叫んでいる友人たちと目があったのだろうか。ぱっと花が咲いたような笑顔を見せ、友人たちと思われる集団に向かって手を振っていた。
「それでは、3年連続ミスマリア大付属!ナマエ・ミョウジさん、一言お願いします!」
司会がナマエにマイクを向けた。館内の歓声と拍手はより一層大きくなったが、ナマエがマイクを持つとすっとボリュームが引いていく。
「えーっと……本当に恐縮です!投票してくださった皆さん、ありがとうございます!
賞金は、友達誘って美味しい物食べに行こうと思いまーす!」
そう言って封筒を両手で掲げた。
わあっと館内は再び盛り上がり、ナマエは手を振りながらステージ袖へ捌けていった。
ステージ上に立って黄色い声援を浴びる。そしてそれに上手く応える社交性と協調性がある。壇上でマイクを向けられても、そつのない回答で場を盛り上げる。
体育館の後方から俺が見たステージ上のナマエは、俺の見たことがないナマエだった。
この感情をなんと表現するのだろう。
遣る瀬無い?悔しい?むしゃくしゃする?
俺の知らないナマエを見て感じたその感情の正体を、探ることはしなかった。
* * *
人混みはいるだけで疲れる。
帰宅後、俺は店には入らず裏にある自宅の入口に回った。
フライハイトの2階が俺の住居だ。
店内からも上がれるようになってはいるが、外出先から帰ってきた時などは店内から入らず、裏の自宅用入口から直接2階へ上がっている。
以前は母親が一人で住んでいたが、母親が死に俺がこの店を継いでからは俺の家となっていた。
トントンと足音をさせて階段を上り、ガチャリと玄関のドアを開ける。
俺は洗面所で手だけ洗うと、そのままリビングのソファにぐったりと座り込んだ。ふう、と疲れからため息が出た。
当たり前の事だが、ナマエにはナマエの世界があるのだ。
いつもナマエがフライハイトに来る時は一人だし、店には大抵俺しかいない。いてもエルヴィンがほんの時々いるくらいだ。
店の中で俺とナマエが紡ぐ時間は、穏やかな物だった。
俺は静かにカウンターの中で仕事をし、あいつは静かに勉強したり執筆したりする。
お互い気が向けば、他愛もない雑談をする。
それは決して嫌な時間ではなかった。
ナマエに好意を押し付けられることがあっても、俺がそれを往なすことさえ二人の間の定型なような気がしていた。
ナマエに好意を向けられ、俺が断る。その流れですら、俺とナマエの紡ぐ時間を彩る一つの糸だと、無意識にそう思っていたのだ。
烏滸がましい。
今日学校で見たナマエは、全部俺の知らないナマエだった。
後輩に慕われている。クラスには友達もいる。異性の友達もいる。
ミスに選ばれるくらいに美貌を認められており、壇上で歓声を浴びる。人前に立ってもあがることなく、場の雰囲気を壊さず立ち回る。
ジャンのようにナマエに対し恋愛感情を持っているやつも、きっと数えきれないくらいいるのだろう。
――考えて見りゃ、至極当然だ。あいつにはあいつの世界があることなど。
寧ろ学校でのナマエが主で、フライハイトで過ごすナマエは、ナマエの時間のほんの一部に過ぎない。ナマエは学生で、毎日学校で過ごしているのだから。
学校で友達と戯れ、後輩に懐かれ、異性からは好意を向けられる。
俺の知らないナマエ、当たり前のことじゃねえか。
あいつは、俺より15も下の高校生だ。
俺はローテーブルの上に置いてあったテレビのリモコンを手にし、電源を入れた。
騒々しい音と光がテレビから流れ出す。
音も光も、どちらも俺の五感には響かなかった。テレビからはただの騒音とけばけばしい映像が無駄に垂れ流されている。
俺の知らないナマエを知っている奴がいる。
その事実、そして知っている奴らへの嫉妬――それが、この不快感の正体だ。
見て見ぬふりをしていた自分の感情を、結局俺は正確に把握してしまった。
自分が今世のナマエにどれほど惹かれているのかを思い知らされ、絶望的な気分になった。