第二章 五月





05




そうしているうちに、店長がお手洗いから帰ってきた。
まださほど冷めていないだろう紅茶を啜る。

「……普通に飲めるじゃねえか。まずくはねえ」

そう言って、紅茶を啜りつづけた。
エルヴィンさんと同様、私達を立ててくれているのだろう。
優しいな。そう思った。

店長が飲み物を飲むのを見るのは初めてではない。
控えめに言っても、決して忙しくはない店だ。カウンターの中で一人スツールに腰かけながら飲んでいるのを何度も見ている。
いつもいつもカップを変な持ち方で持っていて、それが印象に残っていた。

店長が戻って来てからは、私とエルヴィンさんはそれまでの話題をおくびにも出さず、三人で取りとめのない話をした。

「次、どこ行きましょうか。どうせなら盛り上がってるところが良いですよね?
人気なのは 2年1組のお化け屋敷で……あとは今ちょうど体育館で吹奏楽部のステージとかやってるみたい。校庭だとストラックアウトとかやってますよ」

私はそう言って、グラスやティーカップをテーブルの端へとどかし、校内の見取り図を広げた。

「お化け屋敷か……今でも文化祭の定番なんだな、懐かしい」
「エルヴィンさんの学生時代も?」
「ああ、お化け屋敷と巨大迷路は定番だった」

そこへ、バタバタと足音が2つ聞こえてきた。
ガラっと1年4組のドアを開けたのは、廊下を走ってきた様子の男子生徒2人だった。

「ああっ!いたっ!!ナマエ先輩いたぞっ!!」

そう言って、2つの足音のうちの1つはこちらのテーブルへずんずんと向かってくる。
面識がない人だったが、私のことを「先輩」と呼ぶからには、彼は2年か1年なのだろう。左腕に、「黎明祭実行委員」と書かれた腕章をつけている。

「だ、誰ですか?」

私は突然声をかけられ戸惑った。彼は、はーっはーっと息を切らし、私を恨めしそうに見ている。

「黎明祭実行委員、ミス・ミスターコンテスト担当です!
ナマエ先輩、数日前に実行委員がご予定を聞いた時、この時間は多分文芸部の展示室にいるって言ってませんでしたか!?困るんですよ、勝手に!!」
「へっ?何の話?」
「今年『も』!ミスはナマエ先輩ですよ!おめでとうございます、3年連続ミスマリア大付属!」

実行委員と名乗る男子生徒は、台詞の字面とは裏腹にその表情は苦々しい。

「どうせミスはナマエ先輩になるだろうから、事前に居場所聞いておいたっていうのに……さあ、15時から授賞式です!準備もありますから、もう来てください!」
「おーい、こっちもいたぞー!」

2つの足音のうちのもう1つと思われる男子生徒が、1人の首根っこを掴んでこちらへ向かってきた。

「今年のミスター、1年4組エレン・イェーガー!こっちはすぐに見つかって良かった」

黄色いキャラクターつなぎのエレンは、実に不本意そうな顔をして首根っこを掴まれたままだ。

「ナマエ、行ってあげなさい。私達は適当に回れるから」

エルヴィンさんが息を切らしている男子生徒の方を憐れんだ目でちらりと見て、苦笑しながら私にそう声を掛けた。

「えー……でも……」

せっかくこれから店長と一緒に文化祭を回れると思っていた私は、不本意な声を出す。

「そうだぞ、お前。ミスなんて誰でもなれるもんじゃねえんだ。ありがたく頂戴しとけ。
後で授賞式見に行ってやる」

店長にまでそう言われては仕方がない。

「……じゃあ……せっかく来てくれたのに、ご案内できなくてごめんなさい。
店長、エルヴィンさん、楽しんでいってくださいね」
「ああ、ありがとうナマエ」

エルヴィンさんはそう言って、席を立つ私に笑顔を向けた。店長は私に向かって軽く手を上げた。

平日の放課後以外で、さらに言えばあの喫茶店以外の場所で店長に会えたのは初めてだったのに。
もっと一緒にいたかったな。
そんなことを思いながら、私はエレンと一緒に実行委員の2人に連れられ、授賞式の行われる体育館へ向かった。



* * *



エレンは今世でも美少年だった。
いや、もう16歳。ガキには違いねえが、そろそろ美青年と呼ぶべきなのだろう。

ミスターに選ばれて、文化祭の実行委員に首根っこを掴まれているエレンの顔は大変に不服そうだった。
だがその顔は16歳らしい物で、あの世界で……特に成長してから見せた退廃的な様子は見られず、俺は人心地がついた。
このマリア大付属高に通っているということはきっと家庭もそこそこ裕福だろう。それに、今世でもミカサ、アルミン、ジャンという友人に恵まれている。

前世で惨憺たる運命を背負わされた少年が、今を健康に生きている事を知り、俺は一人言い知れぬ安堵を感じていた。
――いや、エルヴィンと二人だ。

「……良かったな、リヴァイ」
「……ああ……」

エルヴィンの表情も穏やかで、どことなく嬉しそうだ。

何が良かった、とは言わない。だが、俺達だけにわかる話だ。
それで良い。他の誰にもわからないだろう、こんな言いようのない安堵感と、満足感と、そしていくらかの解放感。
全員ではないが、104期のうち4人も顔を確認できた。
それだけで、高校生の巣窟に乗り込んだ甲斐があった。

「あの……」

そう言って声を掛けてきたのは、アルミンだった。
俺達がテーブルのカップから顔を上げてアルミンの方を見ると、アルミンは嬉しそうな、しかしいくらか照れくさそうな顔をした。
アルミンは決して大きくない声で、しかしはっきりと言った。

「お久しぶりです、エルヴィン団長、リヴァイ兵長」
「「……!」」

アルミンは、右手で拳を作ると左胸にトンとその拳を置いた。

それは、あの時代の敬礼だった。
俺とエルヴィンは思わず息を飲んだ。

「アルミン、お前……!」

俺はつい大声を出し、ガタガタッと音を立てて椅子から立ち上がってしまった。
周囲の目がちらりと俺を向く。慌てて座りなおした。

「お二人とも、記憶があるんですね……?」

アルミンの顔は興奮を隠し切れていない。
目を輝かせて――いや、潤ませている。

「アルミン……!君も……記憶があるんだな?」

エルヴィンも昂った声を出す。
そして、アルミンにナマエの座っていた席を勧めた。アルミンは素直に席に腰掛ける。

「そうです……!本当に……懐かしい……!
今世でお会いできて嬉しいです。お二人とも、今お元気そうで……本当に何よりです」
「それは私達の台詞だ、アルミン。君たちが今世で恙なく暮らしているのが……とても嬉しい」

エルヴィンはそう言って、机の上でアルミンの手を取り、両手で握った。
あの世界の記憶を持つ人間――これで3人目だ。

「他の奴らは……記憶がないのか?」

俺は声を潜めてアルミンに尋ねた。

「ええ、エレンもミカサもジャンも記憶はないんです。
思い出すかもしれないと思って、巨人の話とか、壁の話とか……何回か切欠になるような事を言ってみたこともあるんですが、誰も何も思い出しませんでした。
エレンとミカサとは、今世でも幼馴染で……幼稚園からずっと一緒だったんですよ。
僕が記憶を取り戻したのは10歳の時だったから、それまでは普通の幼馴染としか思っていなかったんですが。
ジャンとは、高校の入学式で出会いました。その時もびっくりしましたが……廊下でナマエ先輩を見つけた時はもっとびっくりしました。ナマエ先輩も、記憶はないですよね?」
「ああ……俺の持っている記憶の話をしたこともあるが、何も思い出さなかった」

俺は、あの日の店でのナマエの反応を思い出した。

『……お前は信じないかもしれないが、これは妄想じゃねえんだ』
『……ふうん』
『――お前、名字は?』
『ミョウジ。ナマエ・ミョウジです』

平気な顔をしてフルネームをさらりと名乗ったあいつと、凛々しい敬礼をして名乗るあいつを重ね、イラっとしたのだ。
ナマエにじゃない、女々しい俺自身にだ。
――思い出すとちりっと胸が疼く。

「私とリヴァイも数年前に出会ったんだ。他にミケ、ナナバ、ゲルガーに会えたが、彼らも何も覚えていなかった。ミケとナナバは今世でも恋人で、今は一緒に暮らしている」
「そうなんですね……!3人も、ご健在で……!!」

エルヴィンの話に、アルミンは心から嬉しそうに答えた。

「ちなみに、この高校にはナマエ先輩と僕たちしかいませんが、他の学校にコニーとサシャがいるのを見つけました。ジャンの中学時代のクラスメイトでした。
あと、もう卒業しましたけどマリア大の薬学部1年にハンジさんがいるのが確認できています。一度大学に潜入してお会いしたこともあります」
「……ハンジがいるのか!?」
「ええ、あれは間違いなくハンジさんでした。僕が見た時はお元気そうでした。
ただ……コニーも、サシャも、ハンジさんも……全員あの時代の記憶はありませんでした」
「……そうか……」

俺はアルミンの話が終わると、自然とふっと肩の力が抜けた。
知らず知らずのうちに身体をこわばらせていたようだ。

「アルミン、君一人でそこまで調べたのか?大したものだ、本当に」
「いえ、僕はただ……僕の記憶が妄想じゃないってことを確かめたくて……必死だっただけです」

エルヴィンの言葉にアルミンは苦笑した。

アルミンのその気持ちはわかりすぎるほどわかる。俺だって、記憶が蘇ってからエルヴィンと出会うまでの間は苦悩した。
自分の頭はおかしくなったかと疑い、精神科や心療内科に通ったこともある。
エルヴィンと今世で出会い、互いの持っている記憶が共通していることを確認できたときは、やはり嬉しかった。

「アルミン、お前も……あいつらも、今……幸せか?」

俺は目線でミカサとジャンを指す。
アルミンは微笑んで答えた。

「はい、みんな不自由なく……暮らしています。
コニーとサシャも、ハンジさんも、恙なく穏やかな生活を送っているように見受けられました。
……あの頃に比べて不幸になるというほうが、難しいかもしれませんが」
「はっ……それもそうだな」
「はは」

俺とエルヴィンからは思わず笑いが出た。
だが、「恙なく穏やかな生活を送っている」というアルミンの言葉は、俺達の胸にじんわりと響いた。

それだけで十分だ。
恙ない穏やかな生活など……あの頃は無縁のものだった。

「それより、お二人とも……文芸誌、見ましたか?」

そう言ってアルミンは、さっき俺達が手に入れた文芸部の発行している文芸誌をテーブルの上に出した。

「いや、先ほど配布されている物を貰ってはきたが……まだ中身は読んでいないんだ」

エルヴィンが答える。

「ナマエ先輩の執筆した長編小説が載っているんですが、読んでみてください。冒頭だけでも」

俺とエルヴィンはそれぞれ文芸誌をテーブルの上に出した。パラパラと捲り、ナマエの執筆した小説のページを開く。



目を通して、俺とエルヴィンは声を失った。




   

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