お前の声が好きだ




 年が明けて、三日目。
 帰省せずに小原台に残った四学年たちが集まり、防大生活最後の新年会が催された。

 西脇のバケツ飲みで始まった会は大いに盛り上がり、俺の誕生日も祝ってもらい、最後は全員で拳を天へ突きあげて締まった。
 二次会へ行く者も多く、俺も武智に誘われたが丁重に断った。卒論がまだ仕上がっていないので一足先に下宿へ戻ることにする。

 正月の夜、風は冷たい。
 繁華街は賑やかだったが、住宅街に戻ってくると夜道は静まり返っていた。どこかから犬の遠吠えが聞こえる。
 キンと冷え切った空気が、アルコールで熱くなった顔をゆっくりと冷ましていった。



 坂道を歩きながら何気なくスマホのカメラロールをスワイプしていた。
 辛いはずの防大生活なのにこうやって切り取ってしまえば、どこか楽しそうに見えやがる。俺も、西脇も、岡田も、岩崎も、沖田も、近藤も。誰も彼もだ。

 胸にぼんやりとかかる(もや)

「オレたちは……優しくしすぎたんじゃねぇか?」

 いつまでも指導してやれるわけじゃない。
 だが、いつまででも指導してやりたい気持ちはあるのだ。手前(てめえ)だってまだ半人前のくせに、その思いは確かにあった。
 呆れのような憂いのような白いため息が、暗い空に霧散していった。



 突然、バイブレーションと共にスマホ画面の写真が消える。
 代わりに映し出されたのは、忘れたことはないが久しぶりに見る名前だ。
 パッと胸の(もや)が晴れてゆく。反射で右にスワイプしてスマホを耳に当てた。

「もしもし」
『あ、良かった、龍也君出てくれた』

 スマホの向こうで柔らかい吐息が漏れた気配がする。不精がたたって電話もろくにしやしないから、彼女の声を聴くのも本当に久しぶりだ。

『賭けだったんだ、今日飲み会だって言ってたから。今電話大丈夫?』
「ああ、もう終わった。二次会に行ったやつらもいるが、俺は下宿に戻ってるところだ」
『そっか。卒論だもんね』

 卒論だもんねのあたりで、声がわずかに陰ったような気がする。
 聞き覚えのある陰り方だった。

 (もや)が晴れたはずの胸が、再び重くなる。



 * * *



 都内の一般大に通う同い年の彼女とは、無理やり参加させられた合コンで知り合った。
 この冬は、俺たちが交際を始めて初めての冬だった。



 数週間前にした電話での彼女の様子を、今でもはっきり覚えている。

『冬休みは実家に帰るの?年明け三日って……龍也君の誕生日って、会える時間あるかな?』

 実家には帰らないが、卒論や同期たちとの新年会があるから会う時間は取れそうにない。そう伝えると、一瞬間が空いて返答があった。

『……そっか、わかった! ていうか、私も冬休み明けすぐに卒論提出なんだ。遊んでる場合じゃないよね』

 そう言う彼女の声色がわずかに陰ったのだ。
 あんな声を聞くのは初めてだったから印象に残っている。

 言葉にできない感覚が胸に生まれた。漠然とした、心配のような。
 きっと俺は彼女の陰った声を聞いて、怖くなったのだと思う。



 頭の中はいつだって訓練と課業で占められている。
 俺のキャパシティじゃ色恋沙汰の入るスペースなんてもともとなかったのに、なんだか周りにお膳立てされて、彼女は狭い隙間に無理やりねじ込まれるように入ってきた。

 だがねじ込まれた彼女は、狭いと文句を言うことはなかった。
 付き合い始めてから今日までの間、ただの一度も。
 彼女はいつだって、じっと隙間が少しだけ広くなるタイミングを待っていた。待って待って、空間にわずかに余裕が出たタイミングでそっと俺に声を掛けてくる。
 いつしか、俺の心には奇妙な安心感が存在するようになっていた。
 彼女はずっと俺の隙間で待ってくれている。そう思うだけで心が凪ぐような気がしていた。

 だが、隙間で待たされている彼女のほうはどう思っているのだろうか。



 周囲に冷やかされるのが面倒でクリダンも呼ばなかった。時々送られてくるメッセージもほとんどが既読スルー。デートはほんの数回しかしていない。
 彼女にとって俺との空間は、狭すぎて苦しいに違いないのだ。
 いつ出て行かれてもおかしくはないのだろう。



 * * *



『あ、あのね。一言だけ言いたくて……お誕生日おめでとう。それだけ伝えたかったの。忙しいところごめんね、電話して。卒論頑張ってね、じゃあ』

 早口で話を畳もうとした彼女に俺は咄嗟に声を荒げた。

「待て! まだ切らないでくれ!」

 息を呑んだような音がした。スマホの向こうで彼女が驚いているのがわかる。
 俺自身も驚いていた。脊髄で声を出した自分自身に。

「あー……と……」

 いつも電話に出られなかったり、出られたとしても長話をする余裕もなくて短時間で切ってしまっていたり。
 そんなことばかりで、彼女を引き留めたものの何を言えばいいのか見当がつかない。
 
 そもそも、俺はなんで引き留めたんだ? さっさと帰って卒論をやるんじゃなかったのかよ?
 ――自問自答してみたら、存外答えはすぐに出てしまった。



 我慢ばかりさせているお前に伝えたいことがある。
 詰まるところそれは、お前が俺の中から出て行ってしまったら困るからだ。



「……あー……ありがとう。誕生日にお前の声が聞けて、その、嬉しい」
『……………………うん』

 たっぷりの沈黙のあとの「うん」は完全に面食らった声色だ。

「それから……いつもありがとう」

 どすの利いた声が出てしまった。
 心から思っていることなのに、いざ伝えるとなると照れてしまったのだ。照れを隠そうとしてこんな声が出るなんて。

 俺の絶望的にちぐはぐな声色と台詞をどう受け取ったのか、スマホの向こうからは驚きの気配が消える。
 代わりに出てきたのは心底心配した声だった。

『……ねえ、龍也君どうしたの? 何か悪いものでも食べた?』
「食べてねえよ!」

 思わずツッこむと、ようやく電話口からケラケラと軽やかな笑い声が聞こえる。彼女の笑い声を聞いたのも本当に久しぶりだった。

「お互いに無事卒論提出したら、あー、その、どっか飯でも……ちゃんと時間作るから」

 ちゃんと時間作る、だなんて。普段はほったらかしていることの証明になってしまっている。

『うん、ありがとう。楽しみにしてる』

 俺の腹の内を知ってか知らずか、彼女が出した声は随分と柔らかい。電話を掛けてきた時の陰った声とは別人のようだ。
 そもそも本来彼女はこういう声だったのだ。



『でも龍也君、無理しないで。あのね、クサいこと言うって引かないで欲しいんだけど……』

 前置いた彼女から、一つ息を吸う音がする。

『あの……私、頑張っている龍也君が好きだから。待ちたいの、いつまででも、どこに行っても』



 ありがとう、いつも、いつまでも待っていてくれて。
 そういう風に本音を直接伝えればいいのだろうがどうしても照れが勝ってしまった。

「食いたいもの、考えておけよな」

 本音の代わりに出た台詞はやっぱりどすが利いている。
 だが彼女は「うん」と、穏やかで柔和な声を返してくれた。





【お前の声が好きだ Fin.】
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