雪の妖精




・このお話はネームレスです。
・地下街少年リヴァイ+大人夢主。恋愛要素はありません。
・死ネタ





雪の妖精





「待ちやがれ、このクソガキぃっ!!!」

 後ろに男達の怒鳴り声を聞きながら、俺は階段を駆け上った。
 地下から、地上へと繋がる階段。
 本来は通行料が要るが、地下街生まれ地下街育ち、母親が病で臥せっている8歳の俺に払えるはずもない。だから階段を上って地上へ出るには、大人達の目を盗んで走り抜けるしかなかった。

「このガキ! 止まれ!!」

 止まれと言われて止まるのはバカだ。捕まったら折檻されて、なけなしの金を搾り取られるだろう。
 俺は必死に階段を駆け上った。だがサイズの合わないボロボロの靴のせいで、前につんのめって転びそうになる。その一回がタイムロスだ。俺が体勢を立て直すその間に、大人達は距離を詰めてくる。
 昨日から飲まず食わずで、力が入らない。だが、地上から差し込む光がだんだん面積を増してきた。出口はすぐそこだ。



 出口から飛び出すと、そこに広がっていたのは白銀の世界だった。
 一面の白。石畳の道路も、レンガの屋根も、全て白に覆われている。自分が思い描いていた地上というものと随分違う。
 数秒立ち尽くして、それが「雪」だということに思い至った。母さんから話だけ聞いたことがある。寒くなると、雨の代わりに空から白い結晶が降ってくるのだと。雪なんてどんな物か考えたこともなかったが、初めて見た雪景色はとにかく美しく、俺は目を奪われた。

 怒号が聞こえた。地下からの追っ手が迫っている。
 地上へ出られたが、このままではすぐに追っ手に捕まってしまう。だがどちらへ逃げれば安全なのかわからない。
 右左前と、白の中視線を巡らせていると、突然ぐいと手を引っ張られた。強制的に手を引っ張られることに嫌な記憶しかない俺は、反射的に抵抗する。

「おいっ!! 離せ!!!」
「静かに」

 見上げると、俺の手を引いているのは女だった。

 真っ白な女。それこそ雪のように白い肌と、頭には白いスカーフを被っていた。母さんよりももう少し若いのだろうか。
 誘拐されるのだと思った。うちに金がないことは俺の身なりでわかるだろうが、身代金を要求されなくてもどこかに売り飛ばされるかもしれない。そうなったら母さんに会えなくなる。
 抵抗したが、「シッ」と口を掌で押さえられた。しゃがんだ女の顔が俺の目の前にきた。

 真っ白い肌と青く澄んだ瞳に、目を奪われた。先ほど雪を見たときのように、俺は見とれてしまう。
 どうしてもこの女が人買いとは思えず、俺は抵抗を止めた。

「こっちにおいで、逃げているのでしょう? 匿ってあげる」

 女は俺に自分の被っていたスカーフを被せ、手を繋いで歩き始めた。傍からは姉妹のように見えているかもしれない。

「おい、どこに行った!?」

 地下から出てきた大人達は俺には気付かず、反対方向へ駆けていった。



 * * *



「どうぞ」

 女に連れてこられたのは、粗末な――地下街の人間が粗末というのも全く不躾であるが――一軒家だ。
 古ぼけた開き扉を押し開けて家に入ると、台所と居間と寝室が一緒くたになった狭いスペースだった。

「座って。服が破けてるね……直してあげるから、脱いで」

 女は俺の着ていた物を剥ぎ取り、代わりに俺を毛布で包んだ。
 暖炉に火がくべられ、そしてテーブルの上に、ミルクとパンが出される。

「食べて待ってて」

 ごくりと喉が鳴った。こんな、欠片じゃない一個丸々のパンなんて、久方ぶりに見た。
 知らない人間からの施しには注意しなければいけないと知っている。だが空腹の俺は我慢できずに、手を伸ばしてパンに齧り付いた。コップいっぱいのミルクも一気に飲み干す。
 無我夢中で食べていたため、毛布の上にボロボロとパンくずが零れたが、女は咎めなかった。それどころか、申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね……もっとお肉とかお魚とか、色々食べさせてあげたいんだけど……私もそんなにお金を持っていないんだよね」

 言うと、すぐに俯き針仕事を再開する。
 俺は女の言葉を無視して、パンを必死に頬張った。

 最後の一つになったパンに手を付けるか迷い、手を付けなかった。

「これ……持って帰って良いか」
「……どうして?」
「母さんに持っていってやりたい」

 暖炉の前で女はにこりと微笑む。

「……そう。もちろん良いよ。でもそれは君が食べなよ。
 お母さんにはこっちを持って帰ってあげて」

 言いながら立ち上がると、台所の戸棚から更にパンを取り出した。
 きっと自分が食べる分だったのだろうと思ったが、背に腹は代えられなかった。俺は腹が減って文字通り死にそうだったし、何か食べる物を持って帰らないと母さんも死んでしまう。
 遠慮がちに上目遣いで見れば、女は俺の服を繕いながら再び微笑んだ。その笑顔に安心し、俺はもう一つパンを食べた。

 女は俺に繕った服を着させてくれた。穴が開いていた部分もほつれていた部分も、綺麗に治っている。

「ありがとう」

 俺は、女にされるがままになっていたが、こういう時は礼を言うものだということを思いだした。

「おうちは地下なの? どうして一人で来たの?」
「……母さんが病気で……働けない。何か食べさせてやらないと死んじまう。
 地下で盗みやすそうなところは全部目をつけられちまって……だから地上に来た」
「……そう」

 労しげな声だった。同情されるのは嫌いだが、この女の同情は何故か不快ではない。

 女は台所の戸棚を再び開けると、果物やら缶詰やらありったけの食料を、粗末な帆布の袋に詰め始めた。

「持って行って良いよ」

 どさ、と俺の前にぱんぱんの袋を置く。
 俺の頭に浮かんだのは、素朴な疑問だ。

「……どうして俺にそこまでしてくれるんだ? もしかして、お前は……人間じゃないのか?」

 こんな風に他人に施す人間というのを、俺は見たことがなかったのだ。だから、人間じゃないと思った。それにこの女、目と鼻と口はついているが、どこか浮き世離れている。

「お前は……カミサマか? それとも雪の妖精か?」

 カミサマも妖精もどんなものかは知らないが、母さんが体調の良いとき聞かせてくれる寝物語に出てくるのだ。女はふふっと笑うと、俺の手を取る。

「こっち、おいで」

 部屋の奥まった場所に、もう一つ扉がある。手洗いか何かかと勝手に思っていたのだが。



 ギィ、という古い扉の開く音。
 扉の向こうにあったのは、狭いながらも美しい、礼拝堂だった。



「神様はこっちだよ」

 女は礼拝堂の祭壇の前に跪くと、両手を組んだ。
 本当に狭い。祭壇の前には二、三人しか入れない。

 俺は訳もわからず突っ立っていた。だが、もしかしてこの祭壇が本当にカミサマなら、俺もこの女の真似をするべきなのだろうか。そう思って俺も膝を曲げようとする。

「いいよ、真似しなくて」

 女は振り返って俺を制止した。

「私が信じている神を、君が信じるかどうかは自由だから。宗教は、自由だよ」
「……シューキョー?」

 おいでおいでと女が手招きをする。呼ばれるがままに近づくと、女は俺をふわりと包んだ。
 思いの外、女の身体はひんやりとしていて、やはりこいつは人間じゃなくて雪の妖精じゃないかと思った。だが、確かめる術はない。
 女は、何日も洗っていないギトギトの俺の髪を撫でながら、優しい声を出した。

「宗教ってね……そうだな、自分が信じて、自分の心の支えにする教えのこと、かな。
 ウォール教って聞いたことある? この壁の中で一番大きな宗教で……私みたいな、それ以外の宗教を信じている人ってすごく少ないの。
 少数派はね……迫害されることが多いのよ、異端児だから」

 俺みたいな子供にも分かるように話してくれているのだと分かるが、それでも理解できない言葉がいくつかある。だがとにかく、この女の信じているカミサマを同じように信じている人間はすごく少なくて、それ故に女はいじめられているのだと、そう理解した。だからこの祭壇も、こんな風に隠すように設置されているのだろう。



「君、名前は?」
「リヴァイ」

 女は俺から腕を放すと、再び祭壇に向き合い両手を胸の前で組んだ。

「父なる神、子なるキリスト、精霊の名のもとに、リヴァイ、汝に神のご加護があらんことを。アーメン」

 訳の分からない呪文を唱えた。やはり、こいつは人間じゃない。そうに決まっている。
 ――だが人間よりも、こいつのほうが。

「今ね、神様に、リヴァイを守ってくださいってお願いしたのよ。
 今日は……12月25日はね、私達の神様の誕生を祝う特別な日なんだ。きっと神様も聞いてくれる」
「……今日は、俺も誕生日だ」
「えっ?」

 女は目を丸くした。

「母さんが言ってた。12月25日は、俺の誕生日だ」
「リヴァイ、今日が誕生日なのね? 素敵……。ああ主よ、お導きに感謝します」

 女は再び瞼を閉じ、今度は汲んだ両手を額に付けた。必死に祈るその姿を、俺はただただ見ていた。

 一頻り祈り終わると、女はくるりと俺に向かう。

「今私は、私の信じる神に祈りを捧げた。でもね、人が何を信じるかは自由だよ……。
 そうだな、リヴァイは何を一番信じてる?」
「……母さん」
「そっか、お母さんね。いいと思う、すごく」

 女は笑って、俺の汚い髪の毛を再び撫でた。



 女は、この家に住めば良いと申し出てくれたが、断った。家に帰って母さんを食べさせないといけない。女は頷き、俺を地下街の階段まで送っていった。
 階段の入り口で、女が行きの分まで通行料を払ってくれた。おかげで俺は折檻されることはなかった。



「リヴァイ、いつでも来て良いよ。お腹が減って我慢できなくなったら、私のところへおいで」

 地下への入り口で、俺に片道分の通行料を握らせた。
 通行料は安くない。この女だって、裕福なわけじゃないだろうに。

「なんで、お前は俺にこんなに良くしてくれるんだ?」

 見上げると、女はまたあの微笑みを俺に向ける。

「……私達の命は、皆等しいのよ。私は等しい命全てが平等に扱われるよう、神に祈り続けているの」

 白い雪景色の中で笑う女は、やはり人間ではない何か別の生き物のようだった。

「行きなさい、リヴァイ。気をつけて。
 お腹が減ったらまたおいで」



 * * *



 数ヶ月後、母さんが死んだ。
 一番信じていた母さんが死んだ。



 俺は、母さんの次にあの女を信じていた。
 あの女が信じているというカミサマのことはよく知らないし、特に信じていたわけではなかったが、あの女自身のことは信じていた。
 俺を庇い、俺を抱きしめ、俺を慈しんでくれた女だ。

 どんなに苦しくても手をつけなかった通行料を使って、母さんが死んだ次の日、俺は再び地上へと出た。



 久しぶりに出た地上は雪が溶けており、すっかり春だった。
 地下にいると季節の移ろいが分かりにくいが、地上の空気は俺が数ヶ月前に訪れた時とは全く違っている。道端に花が咲き、日光が穏やかだ。
 目の前の様子が記憶の雪景色と違ったため多少戸惑ったが、俺はあの女の家を目指した。

「母さんが死んだんだ」
「俺はこれから何を信じて生きていけば良い?」
「お前を信じて生きていっても良いか?」

 女に会えたら、そう言おうと思っていた。



 女の家に辿り着いた。
 だが、そこも景色同様、様変わりしていた。



 扉には表から木材が十字の形に打ち付けられ、出入り口は完全に塞がれている。人の住む気配がない。粗末な家は更に煤け、廃墟と化していた。
 子供の俺でも、この中に住人はいないと一目で分かった。



「おや、坊主どうしたい?この家に用事かい?」

 廃墟の隣から、腰の曲がった老人が顔を出す。隣人のようだ。

「この家に住んでいた姉さんに会いに来たのかい?」

 俺が頷くと、老人は腰を曲げたまま廃墟を見上げた。

「そうかい……この家に住んでた姉さんはね、死んだよ。春が来るほんの少し前にね」

 死んだ?
 俺と会った、その後に?

「わしはよく知らないが……なんだか異端の宗教を信仰していたようでな。ウォール教に疎まれて、投石を受けたらしい。その石が運悪く頭に当たったようでなあ……。
 憲兵とウォール教はズブズブじゃから、投石した奴もお咎め無しよ。事故死で処理されたようじゃ」



 お前、死んだのか?
 また来いって言ったじゃねえか。
 いつでも来いって言ったじゃねえか。
 お前まで、死んだのか?



「誰にも迷惑掛けていなかったじゃろうになぁ」

 老人は小さくそう言うと、家の中に引っ込んでいった。



『何を信じるかは自由だよ』

 女の声が、脳内でこだまする。

 信じられるものが見つからねえんだ。どうしたら良い?



 俺の身体を、春風が撫でていく。
 温かな風はまるでぬるま湯のようだが、俺はあの凜とした気高い雪景色のほうが好きだった。



 俺が本当に信じられるものを見つけられるのは、
 ここから、ずっとずっと後の話だ。



【雪の妖精 fin.】








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