* * *
リヴァイさんと離れて、約十一か月。また年末がやってきた。
アパート近くの商店街は、クリスマスのイルミネーションに彩られている。都心の豪華なイルミネーションとは違う、素朴で家庭的なイルミネーションだ。
私は一人静かに夕食をとっていた。畳の上に座布団も敷かず、中古で買った卓袱台の上にはカップラーメンが一つ。味気ない食卓だ。
お金がないわけではない。一介のOLなので高給取りというわけではないが、一人で暮らす分には問題ないのだ。リヴァイさんのためにお金を使わなくなった分、昔ほどお金に困っているわけでもない。
ただ単に、自分自身にお金や時間をかける気にならないのだ。
昔あの狭いアパートでリヴァイさんと一緒に暮らしていた時は、お金がないながらもあれこれ工夫して料理をしていた。彼と一緒に食べる食事が、少しでも豊かな物になるように。
だが一人暮らしになってから、料理を作ることはほとんどなくなった。カップラーメンじゃなければ、スーパーで半額になっているお弁当を食べたり、菓子パンをかじったりしている。
大して美味しくもないカップラーメンを半分食べ、まるで義務のような食事にため息を吐いた時。
玄関のチャイムが鳴った。
時刻は二十一時直前、宅配便の配達時間は終了間際である。
ネットで米を買っていたことを思いだし、私は疑いもせずドアの鍵を開けた。
立っていたのは、配達員ではなかった。
「…………リ、……」
「よお。探したぞ」
立っていたのは、リヴァイさんだった。
足が震える。声が出ない。
玄関のドアを中途半端に開けたまま、私はただただ瞠目した。
「なあ、入れてくれねえか……寒いんだ」
ポケットに片手を突っ込んだ俯き気味の彼は、自嘲するように口角を上げる。
私は、ごくり、と唾を飲み込んで、何も言えないまま玄関のドアを大きく開けた。
山に近いこの地は都心よりも気温が低い。慌ててエアコンのスイッチを入れた。自分一人の時は暖房を入れないことも多い。
リヴァイさんは卓袱台の前に足を崩して座った。卓袱台の上に置きっぱなしだった食べかけのカップラーメンを焦って引っ込めると、彼が苦笑する。
「悪いところに来ちまったな」
黙って首を横に振り、台所で紅茶を淹れた。
どうやってこの家を知ったのだろうとか、今日は仕事に行かなくていいのだろうかとか、色々な疑問が胸の中で渦を巻く。だがそれより何より、彼がこの家にいることが不思議だった。
今や大スターの彼が、この寂れたアパートにいる。色あせた畳の上で胡座をかいている。
卓袱台に似合わないティーカップで紅茶を出すと、リヴァイさんは口を開いた。
「お前に、渡したいもんがあって……」
言いながら、持参した紙袋から箱を取り出す。畳の上にトンと置かれたのは、ボール紙のシューズボックスだった。
どくんと心臓が大きく鳴る。黙ったままリヴァイさんを見やると、視線で開けろと促された。
震える手で恐る恐る箱を開け、息を呑んだ。
シューズボックスの中に入っていたのは、あの黒いハイヒールだった。
「……こ、これ……」
間違いない。紛う事なき、あのハイヒールと同じ物だ。
だが新品で、私が履いていたものではない。
「お前が履いていたやつは、既に回収されちまっていたから……焼却場まで行ったが、どうしても取り戻せなかった。本当に悪かった」
「で、でもこれ、もうお店には……」
売っていないはずなのに。
このハイヒールがどうしても恋しくて、あの後、私だって探したのだ。縋るものが私には必要だったから。
だがこの靴は、リヴァイさんと別れた当時で二年前、現在から数えれば三年近く前に販売されていた靴である。
靴屋からは既に廃盤品であると言われた。メーカーに問い合わせてもらったが、メーカー在庫ももうないとのことだった。
諦めていたのに。
「ああ、廃盤品だからな。製造元にももうないって言われて、見つけるのに苦労した。あちこちの……それこそ全国の靴屋を回ったんだ。ツアーの合間を縫ってな。都心になくても、どっか地方の店舗には在庫が残っているんじゃねえかって。
そいつは静岡の小さな靴屋で見つけたんだ。埃をかぶっていたが……俺が磨いた」
涙が滲んで、畳の上のハイヒールがぼやける。
リヴァイさんの変わらない愛が大きくて。ちっぽけな自分が情けなくて。
「靴を買ったからって、お前の気が済むわけじゃねえのはわかっている。
あの時、お前の気持ちをわかってやれなくて……悪かった」
畳の上のハイヒールを手に取ると、靴屋での感情が蘇る。
一目惚れした靴。それをプレゼントしてくれたリヴァイさん。あの時の、この上なく幸せな気持ち。
私はハイヒールを抱きしめ首をぶんぶんと横に振った。
「違うの……私が悪いの。ごめんなさい、八つ当たりの我儘だってわかってた。でも」
溢れた涙が、ぼろりと頬を伝う。
最初から素直にこう言えれば良かったのに。
「寂しかったの。私だけのリヴァイさんじゃなくなっちゃうって。
そんな風に考える自分も嫌で、だから逃げ出しただけなの」
瞬間、きつく抱きすくめられた。
懐かしい匂いだった。
彼の使っているボディソープの匂い。まだ同じ……私といた時と同じボディソープを使っているのだ。
あの時と何も変わっていないのに。彼は何一つ変わっていなかったのに。
変わったのは、環境と私だけだ。
「すまねえが……お前がいなきゃ、俺はダメなんだ。何千人もの聴衆に囲まれたって、お前が傍にいなければ意味がねえ。どうしたって手放してやれねえんだ。……頼むから、」
俺の傍にいてくれねえか。
耳元の彼の声は、最後、掠れた。
筋肉質な肩が震えている。
突然、私の身体は軽くなった。
まるで憑き物が落ちたかのようで、途端に呼吸がしやすくなる。
はあ、と息を大きく吐いた。息というのは吐ければ吸えるものだ。鼻から大きく息を吸うと、彼の匂いで肺が満たされる。
深呼吸をすると、今まで蓋で遮られていた感情が噴き出した。
私はもう、思いっきり息を吸える。リヴァイさんの胸の中ならば、大きく吸って大きく吐ける。大きな声で泣くこともできる。
わんわんと子供のように大声で泣く私を、リヴァイさんはずっと抱きしめ、頭を撫でていてくれた。
* * *
そうして、また12月25日。
私はリヴァイさんの広いマンションにいた。
あの古くて狭い、思い出によく似たアパートは、引き払った。
『それでは、今年も大活躍でしたNONAMEの皆さんに歌っていただきましょう! 『Clarity』です、どうぞ!』
大型テレビから流れるのは、女性アナウンサーの高らかな声と、きゃーっというファンの歓声。
『ヒットミュージッククリスマスライブ2022』。番組名の西暦だけが変わり、それ以外は一年前と何も変わらないクリスマス。
私は一人、スーパーのケーキとファーストフードのチキンをつつきながら、テレビ画面のリヴァイさんを見つめていた。
ドラムのリズムとギターのメロディに被さって、リヴァイさんがマイクに向かって叫ぶ。
『考えろ……お前のその大したことない頭でな!』
ファンの歓声は一際大きくなった。超満員の観客が一斉に跳ね上がる。
会場の熱気がテレビ画面越しにビシビシと伝わってきた。
ああ、やっぱりすごい人なんだから。
こんな風に忙しく飛び回って歌い回って、誕生日の今日だって休めやしない。
年が明けて落ち着くまで、きっとほとんどこの家には帰ってこられないだろう。
それでも今の私は、テレビの画面に微笑むことができる。
自分が彼にとって必要だと、自信を持って言えるから。リヴァイさんがそう言ってくれたから。
あの時のリヴァイさんの震える肩を、掠れる声を、きっと一生忘れないだろう。
閉じていたカーテンをちらりと捲ると、大きな窓の外では雪がちらついている。どうりで冷えるはずだ。
リヴァイさんがいつ帰ってくるかはわからないが、準備だけはしておこう。テレビでNONAMEの出番が終わったら、キッチンでスープを作ろう。
彼が帰ってきたら温かい料理がすぐに出せるように。
「お誕生日おめでとう。寂しいから早く帰ってきてね、リヴァイさん」
私はケーキとチキンを前に、大画面の愛しい彼に笑いかけた。
【サンドリヨンの憂鬱 Fin.】