サンドリヨンの憂鬱 03




 * * *



 リヴァイさんと離れて、約十一か月。また年末がやってきた。
 アパート近くの商店街は、クリスマスのイルミネーションに彩られている。都心の豪華なイルミネーションとは違う、素朴で家庭的なイルミネーションだ。

 私は一人静かに夕食をとっていた。畳の上に座布団も敷かず、中古で買った卓袱台の上にはカップラーメンが一つ。味気ない食卓だ。
 お金がないわけではない。一介のOLなので高給取りというわけではないが、一人で暮らす分には問題ないのだ。リヴァイさんのためにお金を使わなくなった分、昔ほどお金に困っているわけでもない。
 ただ単に、自分自身にお金や時間をかける気にならないのだ。

 昔あの狭いアパートでリヴァイさんと一緒に暮らしていた時は、お金がないながらもあれこれ工夫して料理をしていた。彼と一緒に食べる食事が、少しでも豊かな物になるように。
 だが一人暮らしになってから、料理を作ることはほとんどなくなった。カップラーメンじゃなければ、スーパーで半額になっているお弁当を食べたり、菓子パンをかじったりしている。



 大して美味しくもないカップラーメンを半分食べ、まるで義務のような食事にため息を吐いた時。
 玄関のチャイムが鳴った。

 時刻は二十一時直前、宅配便の配達時間は終了間際である。
 ネットで米を買っていたことを思いだし、私は疑いもせずドアの鍵を開けた。



 立っていたのは、配達員ではなかった。

「…………リ、……」
「よお。探したぞ」

 立っていたのは、リヴァイさんだった。



 足が震える。声が出ない。
 玄関のドアを中途半端に開けたまま、私はただただ瞠目した。

「なあ、入れてくれねえか……寒いんだ」

 ポケットに片手を突っ込んだ俯き気味の彼は、自嘲するように口角を上げる。
 私は、ごくり、と唾を飲み込んで、何も言えないまま玄関のドアを大きく開けた。



 山に近いこの地は都心よりも気温が低い。慌ててエアコンのスイッチを入れた。自分一人の時は暖房を入れないことも多い。
 リヴァイさんは卓袱台の前に足を崩して座った。卓袱台の上に置きっぱなしだった食べかけのカップラーメンを焦って引っ込めると、彼が苦笑する。

「悪いところに来ちまったな」

 黙って首を横に振り、台所で紅茶を淹れた。

 どうやってこの家を知ったのだろうとか、今日は仕事に行かなくていいのだろうかとか、色々な疑問が胸の中で渦を巻く。だがそれより何より、彼がこの家にいることが不思議だった。
 今や大スターの彼が、この寂れたアパートにいる。色あせた畳の上で胡座をかいている。



 卓袱台に似合わないティーカップで紅茶を出すと、リヴァイさんは口を開いた。

「お前に、渡したいもんがあって……」

 言いながら、持参した紙袋から箱を取り出す。畳の上にトンと置かれたのは、ボール紙のシューズボックスだった。
 どくんと心臓が大きく鳴る。黙ったままリヴァイさんを見やると、視線で開けろと促された。

 震える手で恐る恐る箱を開け、息を呑んだ。
 シューズボックスの中に入っていたのは、あの黒いハイヒールだった。

「……こ、これ……」

 間違いない。紛う事なき、あのハイヒールと同じ物だ。
 だが新品で、私が履いていたものではない。

「お前が履いていたやつは、既に回収されちまっていたから……焼却場まで行ったが、どうしても取り戻せなかった。本当に悪かった」
「で、でもこれ、もうお店には……」

 売っていないはずなのに。

 このハイヒールがどうしても恋しくて、あの後、私だって探したのだ。縋るものが私には必要だったから。

 だがこの靴は、リヴァイさんと別れた当時で二年前、現在から数えれば三年近く前に販売されていた靴である。
 靴屋からは既に廃盤品であると言われた。メーカーに問い合わせてもらったが、メーカー在庫ももうないとのことだった。
 諦めていたのに。

「ああ、廃盤品だからな。製造元にももうないって言われて、見つけるのに苦労した。あちこちの……それこそ全国の靴屋を回ったんだ。ツアーの合間を縫ってな。都心になくても、どっか地方の店舗には在庫が残っているんじゃねえかって。
 そいつは静岡の小さな靴屋で見つけたんだ。埃をかぶっていたが……俺が磨いた」

 涙が滲んで、畳の上のハイヒールがぼやける。
 リヴァイさんの変わらない愛が大きくて。ちっぽけな自分が情けなくて。

「靴を買ったからって、お前の気が済むわけじゃねえのはわかっている。
 あの時、お前の気持ちをわかってやれなくて……悪かった」

 畳の上のハイヒールを手に取ると、靴屋での感情が蘇る。
 一目惚れした靴。それをプレゼントしてくれたリヴァイさん。あの時の、この上なく幸せな気持ち。
 私はハイヒールを抱きしめ首をぶんぶんと横に振った。

「違うの……私が悪いの。ごめんなさい、八つ当たりの我儘だってわかってた。でも」

 溢れた涙が、ぼろりと頬を伝う。
 最初から素直にこう言えれば良かったのに。

「寂しかったの。私だけのリヴァイさんじゃなくなっちゃうって。
 そんな風に考える自分も嫌で、だから逃げ出しただけなの」

 瞬間、きつく抱きすくめられた。



 懐かしい匂いだった。
 彼の使っているボディソープの匂い。まだ同じ……私といた時と同じボディソープを使っているのだ。
 あの時と何も変わっていないのに。彼は何一つ変わっていなかったのに。
 変わったのは、環境と私だけだ。

「すまねえが……お前がいなきゃ、俺はダメなんだ。何千人もの聴衆に囲まれたって、お前が傍にいなければ意味がねえ。どうしたって手放してやれねえんだ。……頼むから、」

 俺の傍にいてくれねえか。

 耳元の彼の声は、最後、掠れた。
 筋肉質な肩が震えている。



 突然、私の身体は軽くなった。
 まるで憑き物が落ちたかのようで、途端に呼吸がしやすくなる。

 はあ、と息を大きく吐いた。息というのは吐ければ吸えるものだ。鼻から大きく息を吸うと、彼の匂いで肺が満たされる。
 深呼吸をすると、今まで蓋で遮られていた感情が噴き出した。
 私はもう、思いっきり息を吸える。リヴァイさんの胸の中ならば、大きく吸って大きく吐ける。大きな声で泣くこともできる。

 わんわんと子供のように大声で泣く私を、リヴァイさんはずっと抱きしめ、頭を撫でていてくれた。



 * * *



 そうして、また12月25日。
 私はリヴァイさんの広いマンションにいた。
 あの古くて狭い、思い出によく似たアパートは、引き払った。



『それでは、今年も大活躍でしたNONAMEの皆さんに歌っていただきましょう! 『Clarity』です、どうぞ!』

 大型テレビから流れるのは、女性アナウンサーの高らかな声と、きゃーっというファンの歓声。
『ヒットミュージッククリスマスライブ2022』。番組名の西暦だけが変わり、それ以外は一年前と何も変わらないクリスマス。
 私は一人、スーパーのケーキとファーストフードのチキンをつつきながら、テレビ画面のリヴァイさんを見つめていた。

 ドラムのリズムとギターのメロディに被さって、リヴァイさんがマイクに向かって叫ぶ。

『考えろ……お前のその大したことない頭でな!』

 ファンの歓声は一際大きくなった。超満員の観客が一斉に跳ね上がる。
 会場の熱気がテレビ画面越しにビシビシと伝わってきた。



 ああ、やっぱりすごい人なんだから。
 こんな風に忙しく飛び回って歌い回って、誕生日の今日だって休めやしない。
 年が明けて落ち着くまで、きっとほとんどこの家には帰ってこられないだろう。

 それでも今の私は、テレビの画面に微笑むことができる。
 自分が彼にとって必要だと、自信を持って言えるから。リヴァイさんがそう言ってくれたから。
 あの時のリヴァイさんの震える肩を、掠れる声を、きっと一生忘れないだろう。



 閉じていたカーテンをちらりと捲ると、大きな窓の外では雪がちらついている。どうりで冷えるはずだ。

 リヴァイさんがいつ帰ってくるかはわからないが、準備だけはしておこう。テレビでNONAMEの出番が終わったら、キッチンでスープを作ろう。
 彼が帰ってきたら温かい料理がすぐに出せるように。



「お誕生日おめでとう。寂しいから早く帰ってきてね、リヴァイさん」

 私はケーキとチキンを前に、大画面の愛しい彼に笑いかけた。




【サンドリヨンの憂鬱 Fin.】








- ナノ -