サンドリヨンの憂鬱 02




 * * *



 年が明けて四日目となると、リヴァイさんの仕事も一段落する。年末からの生放送音楽特番ラッシュは三が日を迎えると一旦落ち着くのだ。
 今年はこのタイミングで事務所から連休を与えられたらしい。去年は正月が終わってもほとんど休みが取れなかったこともあり、今年は配慮があったようだ。
 リヴァイさんの正月休みは1月4日から6日まで。連休といっても、たったの三日間なのだが。

 悪いことに、一般企業のOLである私のほうは1月4日が仕事始めだ。リヴァイさんとは休みがすれ違ってしまう。
 それでも、夜に家に帰れば彼がいる。夕食くらいは一緒に取ることができるだろう。一緒に食卓を囲むことすら数えるほどしかなかったこの二年間を思えば、三日間も一緒に食事をとれるなんて幸せなことだ。
 帰ったら何か温かい物を作ろう。鍋とかシチューとか……。
 定時で上がった私は、夕食のメニューを考えつつ、弾む足取りで帰路についた。



「ただいま」

 玄関のドアを開けてすぐに気がついた。昨日までどこか薄暗かった玄関がなんだか明るい。

「ああ、おかえり」

 玄関先へ出てきたリヴァイさんは三角巾を被っていて、玄関の明るさに納得した。掃除したのだ。ほんのり埃をかぶっていた靴箱や傘立てがピカピカになっている。
 開いたドアから覗くリビングも床がピカピカだ。多分ワックスをかけている。今日一日、家中を掃除したのだろう。

「もしかして今日ずっと掃除してたの? せっかくの休みなんだからゆっくりしたらいいのに」
「いや、いい気分転換になった」
「そう」

 苦笑しつつ、履いているパンプスを入れようと靴箱を開ける。
 靴箱の中も随分とすっきりしていた。古い靴を処分したのだろう。

 ()いた靴箱を何気なく眺め、ハッと気がついた。
 心臓がドクンと大きく一回鳴り、そして締め付けられたようにぐっと縮む。ざっと顔から血の気が引いた。
 慌てて靴箱の上から下まで順に見直した。が、やはりない。
 あのハイヒールが、ない。

「ね、ねえリヴァイさん。靴箱の中整理したの?」
「ああ」
「私の……あの、二年前に買ってもらった黒いハイヒール、知らない?」
「ああ、あれもうボロボロだっただろ。捨てたぞ」

 目が勝手に瞠られた。
 パンプスを脱ぎそびれた三和土の足は、竦んで動かなくなった。

「……捨てたの? あのハイヒールを?」
「ああ、だって」
「どうして!?」

 突然声を張り上げた私に、リヴァイさんはぎょっと目を見開く。

「あの……あのハイヒール、リヴァイさんが買ってくれたやつじゃない。私、直しながら大事に履いてたの知ってたでしょ!?」
「ああ、だが何度も修理してボロボロだっただろ。ヒールも何度も巻き直して……この間はとうとう、靴屋に『もう寿命だ』って言われて落ち込んでたじゃねえか。もう履けないって。あの靴はもともと安物だったんだ、だから」
「それでも!! 捨てないでよ!!」

 肩に掛けていたレザーの鞄を三和土に叩きつける。乱暴な音と共に書類やポーチが広がった。
 激昂した私に、リヴァイさんは戸惑いを隠せなかった。こんな風に怒ったことは、きっと今までになかったから。

「……悪かった、お前のもんを勝手に処分して。また……新しいのを買ってきてやる。今度はもっと良いやつを」
「そういうことじゃないの!! わからない!?」

 物を勝手に捨てられた。それはまだ良かった。
 あのハイヒールをリヴァイさんが捨てた。それが耐えられなかった。
 私にとってあのハイヒールは、もはやただのハイヒールじゃなかったのに。
 でもリヴァイさんにとってはそうじゃなかった。ただのハイヒールだった。

 最後の、最後の幸せな記憶だったのに。



 きっともうあの日々は戻ってこない。彼を独り占めできていたあの日々は。
 あの幸せな記憶だけをよすがに、大切な思い出を反芻して、そうやって生きていた。これからもそうやって生きていくのだと思っていた。

 自分一人で勝手に傷ついて、こんなのは八つ当たりだとわかっている。
 それでも、爆発する感情も涙も抑えることはできなかった。

「もういい!!」

 散らばった鞄の中身を掻き集め、再び鞄に押し込める。

「おい、どこに行くんだ!?」
「ついてこないで!!」

 会社から帰ってきた格好そのままに玄関を飛び出す。追いかけようとしたのだろう、リヴァイさんは慌てて鍵を取りにリビングに走ったようだったが、私はそのまま走ってマンションを出た。
 たまたま通りがかったタクシーに飛び乗る。行き先など決めてないが、ただ「駅まで」と伝えた。
 タクシーが走り出してからちらりと後ろを振り返ると、リアガラスの奥に立ち尽くすリヴァイさんが小さく見えた。



 リヴァイさんからの着信は拒否した。メッセージアプリもブロックした。
 一方的な、子供じみた我儘。それでも悲しかった。

 ずっと気持ちの折り合いを付けられないまま、二年間装ってきたのだ。
 無理をしていた。どこかで、NONAMEが無名でなくなってしまったことを皮肉だと思っていた。そんなことは誰にも言えなかったけれど。

 グラスの水はもうずっと溢れる一歩手前で、そこへボチャンと石を投げ込まれたようだった。
 私のグラスは小さくて脆い。リヴァイさんが思っているよりもずっと。
 私の貧相なグラスは石に耐えきれず、水が飛び散るどころか、グラスごと割れてしまった。
 もっと器の大きい女性が彼には相応しいのだろう。割れたグラスがそれを証明している。



 * * *



 あれから、リヴァイさんがいない隙を狙って、一度だけマンションに帰った。
 必要最低限の荷物を運び出し、「今までありがとう。残っているものは処分して下さい」と置き手紙を書いて。
 処分の許可を出さないと、きっとリヴァイさんはもう何も捨てられなくなってしまっているかもしれない、私の言ったことを真に受けているかもしれないと、そう思ったのだ。
 だって彼は、昔からいつも私を大切にしてくれていたから。



 引っ越したのは、郊外の古いアパートである。
 二年前まで住んでいた、あの狭い部屋によく似た間取りを探した。偶然にも似たような部屋を見つけることができた。
 古びた畳に、色あせた薄い壁。築四十年の1DK。思い出にそっくりだった。

 いつまでも過去に縋って、みっともないと自分でも思っている。だがこうでもしないと、息もできないくらいに苦しかった。わずかでもあの日々の影を感じていれば、呼吸はなんとかできる。
 通勤時間は二時間近くかかるようになってしまったが、そんなことは些事だ。
 あのハイヒールがなくなった今、頼りはこの家だけなのだから。



 テレビに映るリヴァイさんは、変わらず素敵だった。艶っぽいあの声で、包帯から覗くあの瞳で、ファンの女の子を虜にする。
 彼が大勢のファンに囲まれて華やかに歌っているのを見るのが辛くて、歌番組は一切見なくなった。
 私が、私こそが、リヴァイさんの一番のファンだったはずなのに。
 今や画面越しに彼を見ることすらできない。こんなの、ファンですらない。

 心にぽっかりと空いた穴をどうにかしたかった。そのために思い出に逃げてきた。
 だが穴はずっとそこにある。真っ暗な底に、私を詰る目がある。
 その目を見て見ぬ振りをし、一人で暮らしていた。
 呼吸はできたが、虚しかった。

 緩やかな自殺のようだった。







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