第一章 初夜とトリカブト
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翌朝、朝食をとるために案内されたのはスミス家の食堂だった。
皺ひとつなく敷かれた真っ白なテーブルクロスの上に、パン、卵、サラダ、スープ、それから山盛りのチーズと、シガンシナ村ではお目にかかれない鮭の燻製。豪勢なことに朝から何枚もの皿が並んでいる。
テーブルに座っているのは三人だけなのに、五人の女中が忙しなくテーブルの周りを行ったり来たりしていた。
一番下座に腰かけるナマエの隣には、夫のリヴァイが座っている。テーブルを挟んで二人の正面に座るのは、リヴァイの父、スミス家の当主だ。
本来であれば、リヴァイの兄でありスミス家長男であるエルヴィンもこの席にいるはずなのだが、外国に長期出張中で不在である。昨日の婚儀も欠席していた。
ナマエはじっと下を向いて皿の上のパンを見つめるしかできなかった。
いたたまれなさすぎて、リヴァイのことも、スミス家当主のことも、見ることができずにいる。
夕べ――新婚初夜、ベッドの上でなぜかトリカブトの話で盛り上がり、ナマエとリヴァイはその後もとりとめのない話を続けた。
花の話だけにとどまらず、シガンシナ村の様子や、自分の幼い頃の話など、ナマエはリヴァイに求められるままにありとあらゆる話題を披露した。
そうしているうちに、いつの間にか寝こけていたのだ。眠ったのは自分が先だったのかリヴァイが先だったのか、ナマエ自身も覚えていない。
覚えているのは、瞼を開けたその時には既に部屋には日が高く差し込んでいたこと。
それと、ベッドの上で肘をついたリヴァイに見下ろされながら「おはよう」と声を掛けられたこと。
その二つだけだ。
目覚めて数秒で、ナマエは自らの犯してしまった失態を理解した。
リヴァイは上半身裸のままだったが、ナマエのネグリジェのボタンは一つも外れていない。上から下まで全てのボタンが完全に留まったままだ。
――うそでしょ。私、性交を、しなかった!
昨晩のことを改めて思い出して、ナマエは頭を抱えた。
恐怖と緊張で震えリヴァイの興を削いだ上に、成り行き上とはいえシガンシナの花やらトリカブトやらの知識をペラペラと披露し、あまつ眠ってしまっただなんて。
婚儀というのは、本来は身体まで契ってようやく終わるものだ。
これでは婚儀に不備がある。
嫁いできた身として最悪の失態を犯してしまったナマエは、絶望のまま女中に身支度を整えられ、そのまま朝食へと連れ出されたのだった。
昨晩の宴とは打って変わって、朝食はとても静かだった。
誰一人無駄口を叩かない。当主もリヴァイも言葉を発さず、黙々とパンやら卵やらを口に運んでいる。
ナマエもそれに倣って黙ったままパンをちまちまと口に運んだ。
食卓の空気は重苦しく、その上昨晩の失態が重く心に圧し掛かり、とにかく居心地が悪かった。
「それで、きちんと夫婦の契りを結んだのか」
ようやっと口を開いたのはスミス家当主だった。前置きも何もない、配慮のない唐突で不躾な質問。
夫婦の契りなどと言っているがつまるところ、昨晩ちゃんと性交したのかということである。朝食の話題にはふさわしくないが、スミス家ではこれが当たり前だった。
パンをいじっていたナマエの指が止まる。ちらりとリヴァイを見上げれば、顔色一つ変えずにサラダを咀嚼しているところだった。
ここで、実は契っていないなどと言えば大変なことになるだろう。
結婚は取り消されナマエはシガンシナに送り返されるかもしれない。
真っ白なテーブルクロスの上で、パンを置いたナマエの指は、また恐怖で細かく震え始めた。
もうリヴァイのことは怖くないが、今はこのスミス家当主と、婚姻の解消が怖い。
青ざめているナマエの隣で、リヴァイは悠然とサラダを飲み込んだ。
ごくりと喉ぼとけが動く。
一拍置いて出てきたのは、あの平坦な、抑揚のない声だった。
「ご安心を。恙なく終えましたので」
ナマエは反射的に、俯いていた顔をパッと上げた。リヴァイはまったく素知らぬ顔で、今度はパンをちぎっている。
「そうか、なら良いが」
正面のスミス家当主の声はずいぶんと重々しい。リヴァイの声とは似ても似つかない。
当主は、今度はリヴァイにではなくナマエへと視線を向けた。
黄色く濁った白目と濃い藍色の瞳が彼女を圧倒させる。
「いいか、男だぞ。男を産め」
ぎろりと睨まれ、ナマエは言葉を失った。
「男を産まん嫁は不要だ。女を一人二人産んだとて構わないが、とにかく男を産め。それがスミス家に嫁いできた者の勤めだ。
勤めを果たさない嫁はいらんからな」
――男か女かを議論する段階じゃない。そもそも性交していないのに。子供なんて生まれるわけないじゃない!
ナマエは脳内で嘆いたが、もちろん口になんて出せはしない。
それに、例え性交したとて妊娠するかどうかなんて誰にもわからない。ナマエにだって周期があるし、性交して100パーセント妊娠だなんてありえない話だ。
だがこの環境で反論する余地はなかった。
それはナマエでなくとも、誰だってそうだっただろう。
「父上、その辺で」
ナマエの代わりに声を出したのはリヴァイだった。
パンを皿の上へと戻した彼は、真正面の父親に向かって姿勢を正す。
「プレッシャーをかければできるものもできなくなる。我が妻は昨日の宴と慣れない寝具で疲れています。
まずはゆっくりと身体を休めさせ、それから徐々にこの家とトロスト町に慣れてもらうつもりです。そのほうが、子宝についても結果的に良い方向へ向かうでしょうから」
やはり抑揚のない、淡々とした喋り方だ。
しかし、たどたどしさはなかった。
滔々としたリヴァイの言葉に当主が納得したのかどうかはわからない。
だが結果として、当主はそれ以上何も言うことはなかった。
――この人、私を守ってくれたんだわ。
ようやくその事実に気がついたナマエは、ハ、と小さく息を一つ吐いた。知らず知らずのうちに呼吸を止めていたらしい。
呼吸が再開されるとナマエの胸は急に楽になった。
今までが息を止めていたのだから息をすれば楽になるのは当たり前なのだが……それだけではないような気がして、だがナマエはそこで思考を止めてしまった。
ナマエの指の震えは、いつの間にか止まっていた。