第一章 初夜とトリカブト
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* * *
月の光が入る青白い部屋。
夫婦の寝室として宛がわれたその空間の真ん中に、レースとビロードの天蓋が豪奢なベッドが鎮座している。
ベッドの上では、シルクのネグリジェをまとったナマエが三つ指をついていた。額が敷布に触れそうなほど頭を深く垂れている。
婚儀の時に被っていたベールはもうないが、今度は垂れた長髪が顔の周りを隠していた。
「頭を上げろ」
ナマエは驚いた。
初めて聞いたリヴァイの声は、思っていたよりもずっとずっと低い。彼の小柄さから、勝手に少年然とした高い声を想像していたのだ。
だが驚きを表に出すような真似はしない。
これから初夜が始まるというのに、下手な真似をしてリヴァイの機嫌を損ねるようなことがあってはならないのだ。
ナマエはゆっくりと自らの頭を上げ、そこでようやく二人の視線が合う。
リヴァイは、ナマエの真ん前でどっしりと胡坐を掻いていた。
婚儀の最中もはっきりと見ることのなかった互いの顔。
今やっと自らの目でじっくりと見ることが叶ったわけだが。
――何よこの人。美人すぎる。
ナマエはリヴァイの美しさに舌を巻いた。
実際に自らの目で見たリヴァイは、見合い写真で見るよりもずっとずっと美しかったのだ。
ラブラドライトのような薄灰色の瞳。目尻は長く、睫毛も長い。
肌だって男性にもかかわらず白い陶器のようだ。窓から差し込む青白い月明かりに照らされて、いっそう白さが際立っている。
ナマエは「美人すぎる」と形容したが、リヴァイの美しさは女性的な、もしくは中性的な美しさではない。
彼は小柄で細身ではあるが、それ以外は顔立ちも骨格も明らかに男性的である。男らしさはきちんとあるのだ。男らしく、それでいて美しい顔だった。
自分がこれだけ美しければそこらの「美女」なんて大したことないと思っているでしょうね、と、ナマエは腹の中だけで呟いた。
ナマエだってシガンシナの中では器量良しと持て囃された類だが、自分はしょせん田舎娘だと、彼女ははっきり自覚している。
ともあれ、ナマエはリヴァイに気に入られなくてはならない。
彼女の役割はこの男と子を成して、ミョウジ家とスミス家を、引いてはシガンシナ村とトロスト町との繋がりを強固なものにすることだ。
そのために、今日まで清らかな身体で生きてきたのだから。
彼女はこれから、純潔を夫となったリヴァイに差し出すわけである。
リヴァイは表情一つ変えないまま自らのシルクの寝間着のボタンを外し、脱いだ。
屈強な上半身が現れ、ナマエは思わず目を瞠る。小柄で細身だとばかり思っていた彼の身体には筋肉が分厚くついていたのだ。
シガンシナ村の鉱夫たちよりも逞しい身体つきである。服の上からではまったくわからなかったのに。
美しい顔と屈強な身体がアンバランスで、だが不思議な魅力がある。
吸い込まれそうになるような、人を惑わす魅力。
ナマエはリヴァイの上半身から目が離せなかった。
上半身が完全に露になったリヴァイの手が、今度はナマエのネグリジェへと伸びる。
白く、だが男性らしく骨ばった手が、ナマエのネグリジェのボタンにかかり――
突然、ナマエの手が、リヴァイの手を勢いよく払いのけた。
「……!?」
ハッ、と息を呑んだナマエは自らの手を見つめた。
信じられない。手が勝手に動いたのだ。
これから身体を重ねるというのに、夫の手をはねのけるなんて。
「……」
「リ、リヴァイ様、違……違うんです」
リヴァイは訝しむように目を細め、ナマエは自身の行動を否定しようと必死に首を横に振った。
現実主義者のナマエは、この日のことを何度もシミュレーションしていた。
ナマエは生娘だが、経験はなくとも流れはわかる。
体中を触られ、捏ねられ、舐められ、最後は自分の穴に男のものが入って、出される。営みの一連は書物で学んだ。
学んで、理解し、納得していた。時が来たらもちろんきちんと役目を果たすつもりだった。
だがいざその時を迎えると、今までに経験のない恐怖が湧いてきたのだ。
恐怖ゆえに夫の手を払ってしまったのである。
今の今まで抱かれる気満々だったナマエにしてみれば、なぜ自分が恐怖を抱いているのか理解できなかった。
だが生娘が性交することに恐怖を感じるというのは、本能的なものである。ましてリヴァイとナマエは初対面だ。
ナマエは勉強熱心で賢い娘だったが、彼女が書物で学んだ男女の営みは所詮机上の空論でしかない。生娘は生娘である。
いざベッドに上がって初めてわかることがあり、ナマエの場合はそれが恐怖という感情だった。
リヴァイは、はねのけられて宙に浮いていた手をゆっくりと下ろした。
「リッ、リヴァイ様っ、申し訳ありませんっ!」
夫の機嫌を損ねてしまったと、ナマエは再び三つ指をつき、頭をがばりと下げる。土下座になったナマエはベッドの上で震えていた。
性交が終わらなければ婚儀が終わらない。
性交もできない嫁などありえない。ここでリヴァイをしらけさせてはいけないのに。
だがどうしたらいいのか、彼女にはわからなかった。
書物には、男の胸にしなだれかかるとか、服を脱がせるとか、性器を擦って舐めるとか色々載っていた。どれもできそうにない。
今やナマエの身体は恐怖と焦りで上手く動かせなくなってしまった。全身の震えも止まらない。
「怖いのか?」
リヴァイの声には抑揚がない。
声色から感情を読み取ることができず、ナマエはなお焦った。
「め、めっそうも、ございません」
「生娘か?」
「も、も、もちろんでございます、リ、リヴァイ様に捧げるために、この身を汚さず、い、生きて、まいりました」
必死の訴えはたどたどしく、どもりながらだった。
ナマエはあまりに喋れない自分に驚いていた。
口も、喉も、身体も。まさかこんなにも自分の体が思い通りにならないことがあるだなんて。
ナマエの焦りは募る一方だった。この世界では、床の相性が悪い、子を成さない、という理由で婚家から追い返される女性は決して少なくないのだから。
リヴァイにとって、ひいてはスミス家にとって役に立たないとなれば、ナマエはシガンシナ村へ出戻らなくてはならないかもしれないのに。
リヴァイは黙って一人ベッドへ横になると、両手両足を伸ばして大の字になってしまった。
彼の薄い唇から、ハアとため息が漏れる。
ナマエの顔は真っ青に染まった。
――興を削がれたんだわ。
三つ指を付いたまま頭を上げることが出来ない。土下座のまま震えるナマエの目には涙が溜まった。
初夜失敗。
最悪の四字熟語が、ナマエの頭に浮かんだ。
――シガンシナ村に追い返されるのだろうか。
父や母やシガンシナ村のみんなに、なんて説明すればいいのだろう。
「おい、顔を上げろ」
枕元のほうから、またあの抑揚のない声が飛んできた。
ナマエが恐る恐る顔を上げると、リヴァイは大の字になったままで瞼を閉じている。
声を出したのだから寝ているわけではないのだろう。
「来い」
「は、はい」
これ以上彼をしらけさせてはならないと、ナマエは慌てて立ち上がり、長いネグリジェを捌いてリヴァイの元へと寄った。
「ここだ」
閉じていた瞼を半分だけ開けたリヴァイが顎でしゃくったのは、広げた自らの右腕だった。
――腕枕、ということ?
まだ抱いてもらえるチャンスがあるのかもしれないと、ナマエは急いで頭をリヴァイの右腕へと寄せる。
蜘蛛の糸に縋るような心地だった。
言われたとおりにリヴァイの右腕に頭を乗せると、ナマエの顔の真ん前にリヴァイの横顔がやって来た。
ナマエは視線を彼に向けていたが、リヴァイのほうは天井を向いたままだ。彼が瞼を閉じているのをいいことに、ナマエは目の前の横顔をまじまじと見つめる。
肌は恐ろしいくらいにきめ細かい。確か釣り書きには三十歳だと書いてあったが、しみ一つない肌は二十歳のナマエと比較して遜色ない。
高く形の良い鼻。黒々とした長い睫毛。
――やっぱり美しい。顔が良くて身体つきも男らしくて。
これじゃあ周りの女性がほっとかないんじゃないかしら。
ナマエは先ほどまでの恐怖も忘れて見惚れた。
「……シガンシナには」
「へあっ、はいっ!?」
ずっと瞼を閉じて黙っていたリヴァイが突然声を出したので、一人物思いに耽っていたナマエの声はひっくり返った。
リヴァイはナマエの品のない声を気に留める様子もない。変わらず天井を向いて瞼を閉じたまま、淡々とした声が続く。
「シガンシナには、もう十年近く前になるが、仕事で一度だけ訪れたことがある。鉱山に咲くライラックが美しかったのを覚えている」
「……まあ、そうなのですね」
なぜ彼が唐突にライラックのことなんて話し始めたのかわからなかったが、今ナマエは垂れている蜘蛛の糸に縋っている状態だ。
とにかく今は、彼の機嫌をこれ以上損ねないことが最優先である。話を合わせて話題を広げねばならない。
「シガンシナはトロストとは比べ物にならない田舎ですが、田舎ならではの素朴な自然の美しさがあります。
ちょうど今が、鉱山でライラックが咲き始める時期ですね。五月くらいまで花が楽しめます」
先ほどまでは恐怖と焦りでがんじがらめになっていたナマエだが、元来機転が利いて口も達者なタイプだ。よく知っている故郷のことならば流暢に話せた。
「鉱山で咲いているのは紫色のライラックが多いですが、白色の品種もあります。南側の平地には白いライラックが多いです」
一度喋り出してしまえば錆びついた歯車に油が回るように、ナマエの口もどんどんと滑らかに動くようになった。
徐々に緊張がほぐれてくる。
「ライラックの他にも、あるか?」
「え?」
「何か……花とか」
あまりに少ない言葉数と、たどたどしい喋り方。
この人はどうやら話すことが得意ではなさそうだと、ナマエは先ほどまでの自分を完全に棚に上げた。
彼が口下手なのであれば、話を盛り上げるのは自分の役目だ。ナマエは自らの失態を挽回するべく、リヴァイに愛想よく語った。
「そうですね。鉱山であれば、ゼラニウムなんかは花が可憐だと村民に愛されています。ユリも白、黄色、オレンジ……様々な色のものが咲いていますね。そうだ、トリカブトの花も美しいですよ」
「トリカブト? あの毒のか?」
ずっと瞼を閉じて天井を向いていたリヴァイが、切れ長の目を勢いよく見開いて、ナマエを向く。
これまでずっと表情も声色も変化の乏しかったリヴァイが、初めてナマエの前で感情を表に出した。手ごたえを掴んだナマエの胸に一縷の望みが灯る。
「はい、トリカブトは猛毒で有名ですが、花は美しいのですよ。
青紫色の花が多いですが白色のものもあります。毒の成分は主に根に存在していますが、花びらや葉っぱ、蜜なんかにも微量ながら毒はあるそうです。
本当に美しい花なのですが、迂闊に触らないほうがよろしいですね」
ナマエの口も身体もかなりほぐれてきた。少し冗談めかした言い方もできるようになっている。
「触っただけで毒が回るのか?」
「いいえ、毒は基本的に口から……経口摂取で死に至るようですが、肌の弱い方なんかは直接触らないほうが良いとされています。シガンシナの人間は、トリカブトに触れる際には軍手をしたりしますよ」
天蓋付きのベッドの上で、今日まさに婚儀を終えた新婚の夫婦が並んで横たわっている。
ネグリジェ姿の新婦が上半身裸の新郎に腕枕で寄り添っているというのに、話題はトリカブトだ。
「……」
「……」
ふと数秒の沈黙が流れ、二人の視線がぴたりと合う。
先にプッと吹き出したのはナマエのほうだった。つられるようにリヴァイの口元も緩む。
状況がまるでちぐはぐだということに二人ともようやく気がついたが、ベッドの上の空気は先ほどよりも随分と軽くなっていた。
ナマエの震えもいつの間にか止まり、下瞼に溜まっていた涙も目の奥に引っ込んでいる。
「トリカブトか、触るのに軍手が必要とは恐ろしい花だな。トロストにはないから一度見てみたいものだが」
「取り寄せましょうか? シガンシナから鉢植えにして運ばせることもできます」
「いや、要らねえ」
提案を瞬時に遮られ、ナマエの顔がさっと曇る。
調子に乗って余計なことを言っただろうかと彼女は再び顔色を悪くしたが、その様子を見たリヴァイは、ぎこちなく左手で彼女の長い髪を梳いた。
「その……必要ない、という意味じゃない。
お前の言っているトリカブトはシガンシナの山に自生しているものだろう? せっかく自然の美しい姿で咲いているものを、わざわざ掘り起こして鉢植えにすることはねえ。
それよりも、自然の姿そのものをこの目で見たい。いつか……シガンシナを案内してくれねえか」
喋り方はやはりたどたどしい。
それでもリヴァイは自らの言葉の足りなさを補おうと必死に言葉を紡いだ。
その気遣いと歩み寄りは、しっかりとナマエにも伝わった。
「はい、いつか必ず」
新婦は新郎の腕の中で、柔らかに微笑んだ。
今度は、婚儀で振りまいたような作られた笑顔ではない。彼女の心からの笑みだった。
ナマエの頬は青白い月に照らされて、それでもなお頬紅を差したように色づいていた。