第一章 初夜とトリカブト
01
暖かく、よく晴れた日。
午後の日差しは優しく穏やかで、教会の周りではヒバリがさえずっている。
出席者の誰もが、素晴らしい結婚式日和だと、こんな日に結ばれる夫婦はきっと幸せになると、そう口々に言った。
だが幸せになるかならないか、それはナマエにとって些事だ。
シガンシナ村出身のナマエ・ミョウジにとって最も重要なのは、このスミス家との婚姻で子を成し、スミス家とミョウジ家に血縁を作り強固な関係を築くこと――それはすなわち、トロスト町とシガンシナ村の繋がりを固くすることである。自分が幸せになるかどうかは二の次だ。
結婚とはそういうものだと、ナマエは心底信じていた。
今でも信じている。
教会での婚儀の最中、花嫁のベールは下がったままだ。ナマエの視界はレースのベールに覆われ隣を歩く新郎の顔は良く見えない。
もっとも、ナマエも新郎もまっすぐ前を見据えたままで、二人が見つめあうようなことはなかった。ベールがあろうがなかろうが二人の視線が交わることはない。
――関係ないわ。顔は見合い写真で既に見たのだから。
それに、仮に相手が化け物のような顔をしていたって条件さえ良ければ嫁ぐ。嫁ぐべきよ。
だって政略結婚ってそういうものでしょう?
教会の扉が開く。
扉から外へ出た新郎新婦は、参列者たちが撒く花吹雪の中、あちこちから祝いの言葉を掛けられた。
新婦ナマエは、それはそれはにこやかな笑顔を振りまいた。
それが新婦の勤め、だからである。
* * *
今日の主役の一人、新婦であるナマエ。
彼女はエルディア国のはずれ、片田舎のシガンシナ村から、このスミス家へ嫁いできた。
シガンシナ村は主な産業が炭鉱業のみという、エルディア国の中でも非常に貧しい村である。
ナマエの実家ミョウジ家はシガンシナ村の有力者だ。ミョウジ家主人、つまりナマエの父親は、鉱山と鉱夫を取り仕切る会社の代表である。
ミョウジ家はシガンシナ村では金持ちの部類に属するのだが、シガンシナ村自体が貧しいゆえに金持ちと言ってもたかが知れていた。
またシガンシナ村は財政的にも厳しいが、面積も非常に小さい。そういった理由もあり、村民らは皆で協力しあって飢えを凌いでいる。
小さく貧しい村は、全体が一つの家族のようでもあった。
今日の主役のもう一人、新郎は、スミス家の次男である。
名をリヴァイ・スミスという。
スミス家は、エルディア国で最も栄えている町のひとつ、トロスト町の有力者だ。
同じ有力者と言っても、炭鉱業しかないシガンシナ村のミョウジ家とは比べるまでもない。
巨大な貿易商であるであるスミス家は、トロスト町を支える柱の一つだった。
トロスト町の働き口の四分の一はスミス家関連の企業である。仮にスミス家が潰れるようなことがあれば、トロスト町は大打撃を受けるだろう。
スミス家のリヴァイと、ミョウジ家のナマエ。
スミス家からミョウジ家に婚姻の話が持ち掛けられた時、シガンシナ中がひっくり返った。なんといっても「あのトロスト町」の「あのスミス家」である。
いくらミョウジ家が有力者だとはいっても、まさか大都会の大金持ちがシガンシナ村の娘に求婚するだなんて、誰一人予想だにしなかったのだ。
提示された結婚の条件も申し分なく、ミョウジ家とシガンシナ村への援助は非常に手厚かった。
この婚姻が上手くいけば、恒久的にスミス家とミョウジ家に繋がりができることになる。シガンシナ村の石炭もトロスト町で大いに捌いてもらえるだろう。
そういった思惑もあり、ナマエの結婚については村中が大喜びだった。
しかし、なぜトロストの大商家スミス家からナマエに婚姻の申し出があったのかは、誰にもわからなかった。
ミョウジ家はスミス家の取引先の一つではあったが、何百といる取引先のうちのたった一つである。取引額だって微々たるものだったし目立つ取引先ではない。
だがナマエにとっては理由などどうでも良い。
どんな理由であれスミス家に嫁ぐだなんて、この上ない快挙なのだから。
政略結婚が当たり前の時代と環境。
貧しい炭鉱の村シガンシナでは、息子が生まれれば屈強な鉱夫に育てることが良しとされた。男たちは少年時代から重要な働き手とされていたのである。
娘が生まれればそういうわけにはいかない。非力な女性は鉱夫にはなれない。
シガンシナで望まれる女性の生き方は二通りある。
一つはシガンシナ内で結婚した場合だが、とにかく多産が望まれた。一人でも多く子供を産み村の働き手を増やすのだ。
もう一つは、裕福な他所の男性に嫁ぐというものである。貧しいシガンシナ村は石炭の販売ルートを一つでも多く開拓する必要があり、他所に嫁いだ女たちはそのパイプ役を望まれた。
男たちは必死に炭鉱を掘り、女たちは必死に子供を産み、または外と繋がり外貨を稼ぐ。
貧しいシガンシナ村はそうやってなんとか今日まで食いつないできたのである。
ナマエの結婚は、他所に嫁ぐパターンの中でも比類なき成功事例だった。
彼女は結婚について随分と周囲から期待されていた。幼少期から器量良しだったので、どこぞの大金持ちに見初められやしないかと村中が当てにしていたのである。
そんな環境の中で生きてきた彼女は、外貨を稼ぐための結婚こそが自分の役目だと信じていた。
炭鉱を掘る力のない自分でも村の為にできることがあるならば。ナマエはそう思って二十年間生きてきたのである。
爵位こそないが、トロスト町のスミス家はエルディア国でも指折りの大商家だ。
ミョウジ家とスミス家に縁ができることは、シガンシナ村にとって願ったりかなったりだった。
* * *
婚儀が終わると同時に宴が始まる。
古今東西、結婚と宴はセットである。
夕方には早い時間から始まった宴は、日がとっぷりと沈んだ今、まだまだ終わる気配を見せない。日付が変わるまで飲めや歌えやの大騒ぎをするのがこの町の習わしだ。
スミス家の大広間には巨大なテーブルがいくつも並び、その上には肉も魚も、煮たのも焼いたのも、とにかく多種多様のごちそうが山のように盛り付けられている。大量の客人をもてなすための料理は種類も量も必要だった。
これだけの料理を用意するのはなかなかできることじゃない。スミス家だからこそできることだ。
スミス家には大量の女中と使用人がおり、大宴会は彼らの力を以って成り立っている。
尽きることのない酒と料理、一流の仕立屋に用意させた婚礼衣装、金銀を惜しみなく使った装飾、異国から取り寄せた珍しい装花。
大商家スミス家の力を惜しみなく使った、豪華絢爛な祝宴だった。
宴席のあちこちで酔いつぶれる者が出始めた午後九時。広間の真ん中を舞っていた踊り子たちが一旦脇へと捌ける。
リヴァイとナマエの二人は、椅子から立ち上がった。
新郎新婦退席の時刻である。
中座ではない、退席だ。拍手で惜しまれながら退場する二人は、寝室へと引っ込むことになる。もう宴席に戻ることはない。
この後も宴は日付が変わるまで続くが、新郎新婦以外の者が勝手に騒ぐだけと相成るのだ。
新郎新婦が宴に戻ることは許されない。正確には、夜が明けるまで寝室から出ることは許されない。
これが初夜の習わしである。
トロスト町やシガンシナ村を含むエルディア国の大部分に根強く残る風習だ。
初夜に夫婦が結ばれ、そこで初めて本当の意味で「婚儀」が終わるとされている。
子を成さなければ結婚の意味がないと考えられていた時代、こういったしきたりが生まれたのも自然なことだったのだろう。