第三章 家について





01





 季節は進む。
 春の婚儀から三か月が経った。

 先日、スミス家お抱えの仕立屋からナマエ宛に、山のような夏用ドレスが届いた。
 女中たちのメイド服も半袖となった。
 パフスリーブの袖から出る女中たちの細腕を眺めながら、ナマエは夏が間近であることをぼんやりと感じていた。

 この三か月間、リヴァイとナマエの生活は穏やかだった。
 夫婦が身体を通わせるまでは少々時間がかかったが、通わせた後は、二人の時間は至って安穏としている。
 もっとも、通ったのは身体だけではないとナマエは思っている。
 ナマエの隣にいる時、リヴァイの纏う空気はずっと柔らかい。彼はいつでも変わらず仏頂面だったが、表情には出ない独特な優しさをナマエは毎日感じていた。
 ナマエのほうも、リヴァイへの愛情は出し惜しみせずに表現した。生まれて初めて抱く恋愛感情に浮かれていた、というのもある。
 ナマエが今まで生きてきた20年間の中で、恋らしきものがまったくなかったわけではない。だが明確に「恋」と定義できるものをし、さらに「相思相愛」になるというのは、彼女の人生で初めてのことだった。
 羽が生えたような、スキップしたくなるような。この特有の感覚は経験した者にしかわからない。ナマエは今まさにその感覚を余すことなく享受している。
 つまり夫婦の生活は、正しく新婚らしいものだった。



 * * *



 穏やかな新婚生活と思っていたのは夫婦だけだったらしい。
 二人は突然呼び出された。
 スミス家当主に、である。



 当主の執務室も寝室も、夫婦の部屋とは別棟だ。
 スミス家が営む貿易商としての仕事も持つリヴァイは、仕事上当主と一緒に行動することもある。だが事業に参画していないナマエが当主と会うことはほとんどなかった。
 食事も基本的に一緒にはとらない。婚儀翌日の朝食こそ一緒だったが、あれも釘を刺すためであり、以降共に食事をとったのはほんの数回だ。食事は夫婦二人だけ、もしくはリヴァイの兄エルヴィンを加えての三人でとることが常である。

 だからこそ、ナマエは当主に呼び出される理由がわからなかった。ほとんど会っていないのだから、機嫌を損ねる機会もない。
 だがリヴァイ個人に問題があるなら彼一人を呼び出すはずで、ナマエも一緒ということは、ナマエを含めた二人に問題があるということなのだろう。



 呼び出されたのは、当主の執務室だ。
 執務室がある棟に、ナマエは普段まったく立ち入らない。この棟に居住スペースは当主の私室くらいのもので、ほとんどのスペースは貿易商としての事業のために使われている。
 当主の執務室があるのは3階建ての3階だ。ナマエがこの部屋に来るのは、もちろん初めてである。
 リヴァイが率先してドアをノックした。

「入れ」

 返ってきたのは、低くしわがれた声。
 リヴァイはドアを押し開けた。

 広々とした部屋。当主は横に長い腰高窓を背に、執務机に向かって腰かけていた。
 室内に机と椅子以外の家具はない。部屋の面積に対して家具が少なすぎるのが殺風景に拍車をかけている。壁一面が埋込式の本棚になっており、そこだけは書籍や資料でぎちぎちだった。
 腰高窓から日差しが入る。当主はちょうど日の光を背負う形になっていた。逆光のせいで表情が読めない。
 机上には書類が複数広がっている。ペンを走らせる音は止む気配を見せない。

 当主の放つ威圧感は、リヴァイともエルヴィンとも比べ物にならなかった。
 歳を重ねた者だけが持つ迫力にナマエは圧倒される。
 空気が穏やかでないのは明白である。やはり苦言があるのだ。

「また月経が来たな?」

 しわがれた声色とまったく似合わない単語に、ナマエの目は縦に大きく開かれる。
 ペンの音は、止まない。

 月経という言葉を60代の男性が口にするのは、この世界この時代では一般的でない。
 少なくともナマエの住んでいたシガンシナでは、男性が進んで口にすることなどなかった。女性たちですら「あれ」「月のもの」と隠語を使ったりする。
 呆気に取られていたナマエの目が、徐々に細く歪む。半開きだった唇もゆっくりと閉じられ、そのまままっすぐ一直線に引き結ばれる。
 表情に不快感を滲ませてしまったのはまったくの無意識だった。ナマエに止める術はなかった。

 ――なんで知っているの?

 ナマエの月経が始まったのは昨日のことだ。昨日の今日でなぜ当主が知っているのか。
 当たり前だがナマエは自らの月経についてなんて吹聴しない。彼女の体調について知っているのは、昨夜も一緒のベッドに寝たリヴァイと、風呂の世話をするナディヤだけのはずだ。
 義父が嫁の月経を知っているという事実は、ナマエに暴力的な嫌悪感を与えた。
 情報の経路はもちろん気になるが、絶対的な気持ち悪さのほうが上回る。吐き気すら覚えるほどの不快感。

 ただ、当主の口から出た「月経」という単語に、デリケートな、あるいは性的な匂いは一切なかった。まるで仕事での過失を指摘するような、事務的に注意事項を告げるような、そんな口調。
 ハッと、ナマエは唐突に思い至る。

 ――そうか。そうだった。
 これは仕事なのだ。

 決して忘れていたわけではない。だが、浮かれてはいた。
 結果、頭の隅に追いやられていたのだろう。

 ナマエの仕事は世継ぎを生むことだ。ナマエ自身もそのつもりで嫁いできた。
 仕事のためにナマエは新たにスミス家の人間となったわけだが、スミス家当主をナマエの上司と位置付けたとすれば。部下が職務を果たしたかどうかを管理し、果たしていないことを上司が諫めていると考えれば。
 納得は到底できないし、生理的な嫌悪感も拭えないが、当主の思考は理解できないこともなかった。

「当然だが、この家の女中はすべて私の管理下にある。あのナディヤとかいう女中以外にも、女中はやまほどおるからな」

 つまりナディヤではなく他の女中から情報を引き出したというわけだ。
 なるほど、とナマエは合点がいった。月経が来ればごみが出る。ごみを片付けるのは女中の仕事だ。
 ナマエだって、女中たちを必要以上に不快にさせないようごみの捨て方に気を配っていたのだが……配慮されたごみをわざわざほどき、漁るような真似をされた、というわけである。

 リヴァイは、このことを知っていたのだろうか? ナマエが隣を横目でちらりと見ると、リヴァイのほうも目を見開き唖然としていた。
 表情からきちんと読み取れる。リヴァイは当主の行いを知らなかった。そしてその行いを非常識だと感じている。
 それがわかっただけでも、ナマエの心は少しだけ救われた。

「良いか、男児を産め。いつまで経っても身籠らないようであれば離縁させる。役割を全うしない嫁は要らん」

 当主は、リヴァイの様子もナマエの様子もまったく意に介さない様子で言い放った。

 もちろんナマエは、いつまでも子供ができなければ追い出される可能性もあると覚悟して嫁いできた。だが婚儀を挙げてまだ三か月である。
 たった三か月で身籠らないことを咎められるとは思っていなかったし、月経を監視されているとはもっと思っていなかった。



「父上、止めてくれ」

 ひりついた空気に、ぴしゃりとひびが入る。
 リヴァイの声だった。

 止めどなく続いていたペンの音が、止んだ。

「妻にプレッシャーを与えないでもらいたい。胎となる身体にはストレスが一番良くないと父上も御存じだろう」

 抑揚のない声が執務室に響く。
 至って冷静な声。だが明らかに怒りが滲み出ていた。

「ナマエはよくやってくれている。俺を敬い、助け、支えてくれる、できた妻だ。ナマエがいるから俺は全力で仕事に打ち込める」

 リヴァイの腕がナマエの肩を力強く抱き寄せた。俯いていたナマエは反射的に顔を上げる。
 ナマエを守るように肩を抱くリヴァイの瞳は、まっすぐに当主へと向けられていた。まるで射るように。
 人の身体は雄弁だ。リヴァイの視線が、ナマエの肩を抱く手のひらの温度が、怒りがポーズではなく本心からだと語っている。
 だが、若い二人の感情は当主にとって無意味なものだった。
 意味があるのは、世継ぎという有形物だけだ。

「嫁の一番の仕事は男児を産むことだ。それ以外については些末だ」
「とにかくナマエの月のものを女中に報告させるのは止めてください。母体にストレスをかければ父上の望む妊娠も叶わなくなる。……何より、俺が不愉快だ」

 睨みつけるようなリヴァイのまなざしは、普段ナマエに向けられるそれと温度が違いすぎる。
 こんな、威嚇するような眼差しを親に向けるのか、と、ナマエは驚いた。
 驚くと共に、心底嬉しかった。圧倒的権力を持つ自らの父親兼上司に盾突いて、ナマエを守ってくれたのだから。

「話は済んだ、下がれ」

 言うや否や、当主は視線を二人から机上へと移す。止まっていたペンの音が再び鳴り始めた。怒りの収まらないリヴァイと呆気に取られているナマエは、もう当主の視界の外である。
 今当主の瞳が映すのは、机上の書類とペン先だけだ。

「父上……以前の二人にも、こうだったのですか?」

 怒りを殺した声。
 リヴァイの質問にナマエはハッと息を呑んだ。
 以前の二人(・・・・・)
 過去にエルヴィンと婚姻関係を結んでいた女性のことだとすぐにわかった。

「下がれと言った」

 当主がリヴァイの質問に答えることはなかった。
 当主の視線が二人に向くことも、カリカリというペン先の音が止まることも、なかった。



   

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