偏愛
02
* * *
リヴァイ兵長の部屋は、窓から入る夕陽で橙に染まっていた。
部屋の主はいない。恐らくまだペトラの介抱をしているのだろう。
現調査兵団本部でもそうだが、この古城でも私は兵長の部屋に自由に入ることを許可されている。
あの後、グンタ達と一緒に城へ戻ってきた私は、ペトラと兵長の下へは行かずにまっすぐこの部屋へ来た。
できれば、ペトラを甲斐甲斐しく介抱している兵長は見たくなかったから。
開け放たれている窓からそよそよと風が入り込み、部屋同様、橙に染まっているカーテンが揺れている。
窓際に置かれた執務机の天板も、橙に照らされていた。日の当たらない脚や袖引出しの部分は影で黒くなっている。
兵長の部屋は、現本部と同様にきちんと整理整頓されていた。
物が少ない分、少し殺風景で寂しい感じがする。部屋中が夕陽に染まっている今は、余計に寂しく感じるのかもしれない。
私は一つ小さく息を吐いて、粗末な木製ベッドへ腰掛けた。
怪我をした部下の介抱をするのは当たり前だ。自分だって、ダミアン、エーリヒ、カール達が怪我をしたら、同じように介抱すると思う。
そう思うのに――
――でも、別に兵長がやらなくたっていいじゃない。
グンタもエルドもオルオも兵士としてはとても優秀だし、怪我の手当てくらい心得ている。
別に兵長がやることじゃ、ないのに。
仕方ない、兵長は優しいから。怪我をした部下を放っておくことはできないから――
ただの嫉妬だ。そんなのはわかっている。
自分自身だって怪我をした時に、兵長に庇われて助けられて、あまつさえ一緒に馬上に乗せられて運んでもらったことがあったくせに。しかもその時は恋人同士でもなかった。
自分のことを棚に上げて、部下を妬んで……
私は一体、何をこんなに憤っているんだろう。
強い風が吹いた。
ひゅうと乾燥した音が窓から入り込み、橙のカーテンがぶわりと膨らむ。
風が弱まると膨らんだカーテンが再び萎む。
揺れるカーテンの裾が、執務机の上に無造作に置かれていた分厚い本を撫でた。
カーテンの動きを見ているうちに目に入ってきたその本。見覚えのないものだった。
現本部では兵長の執務室にも部屋にも何度も入っているが、見た記憶がない。
私はベッドから立ち上がり、机の上の本を手に取った。茶色のハードカバーのそれは、よく見れば本ではない。
日記だ。表紙には「DIARY」と金で箔押しされている。
兵長の日記。
日記をつけていることも知らなかった。
それにしても、こんなところに出しっ放しにしておくなんて。私がこの部屋に自由に入ることを許可しておいて、随分無防備だ。きっと班員達にも入室を許可しているのではないだろうか。
私だったらこんな風に日記を簡単に出しておくなんて絶対にしないのだが……結局、兵長が私や班員達を信じている証なのだろう。
胸の中の靄が大きく膨らむ。
無意識に、日記に右手を伸ばしていた。
自分で気がつき、慌てて左手で右腕を掴んで引っ込める。
兵長の信頼を裏切るなんてできない。でも見てみたい。
ううん、そんなのダメに決まってる。でも、だけど、でも。
――この日記には何が書かれているのだろう?
――何が書かれていようが関係ないじゃない。個人の日記なのだから。
――でも、私の知らない兵長がこの中にはいるのかもしれない。
――私が兵長の全てを知る必要なんてないし、全てを知ろうだなんて烏滸がましい。私にとっての兵長は優しくて尊敬できて、恋人としても上官としても何の不満もないのに。
――でも、中にはペトラのことが書いてあったりするかもしれない。
――あり得ない。兵長はペトラに嫉妬している私を受け入れてくれたのに。兵長が想っているのは私だし、
――本当に? 兵長がペトラに何の感情も持っていないと、本当にそう言い切れる?
ずっと脳内で自問自答し続けていたが、とうとう問いが途切れた。
言い切れない。
兵長がペトラに何の感情も持っていないと、今、私はそう言い切ることができない。
再び風がふわりと窓から入り込む。
風は優しく私を撫で、だが私の額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
右手が勝手に伸びる。
止めなきゃ。頭の隅でそう思っているのは確かなのに、どうしても伸びる右手が止められない。
一度表紙に触れてしまえば、あとはあっという間だった。
分厚い表紙を汗ばむ手で捲る。
一ページ目は849年8月……去年の夏だ。この頃にはもう、私と兵長は恋人同士だった。
誰かに見つからないうちに早く読んでしまおう。無意識にそう思っていて、私は必死に綴られている字を追った。
『〇月×日、対奇行種を想定した演習訓練。ミケが部下を庇って負傷。全治二週間』
『〇月▲日、ハンジの提案で立体機動装置用のガスを新種に変更。ガスの持ちが格段に良くなった。感覚値で130パーセントぐらいか』
『△月〇日、オルオがスカーフを新調していた。そのスカーフをよくよく見てみれば、つい先日俺が新調したやつと同じブランドのものだった。ちょっと気持ち悪い』
最後のオルオのスカーフのことはまあ置いておいて、それ以外では、書いてあるのはほとんどが訓練の内容だった。これは日記というより訓練日誌に近いものかもしれない。
日記には様々な人物の名前が出てきた。リヴァイ班の班員、エルヴィン団長、ハンジさん、ミケさん、そして自分の名も。他にも兵士達の名がたくさん出てきた。
だがそのどれもが、特別な感情の乗らない記述だ。自分の名前が出てきた時も、恋人として記してあるというよりは、兵士であり部下である私を記したものだった。
リヴァイ班の班員であるペトラの名前も当然あったが、日記の中の記述は完全に班員としてのそれである。彼女に対して特別な感情を持っていることは微塵も読み取れなかった。
冊子の丁度半分くらいまで読み進めると、昨日の日付だ。
日記はそこで途絶えている。あとは白紙だ。
パタンと日記の表紙を閉じる。
同時に、ずっしりと罪悪感が肩にのし掛かってきた。
人の日記を勝手に見るなんて、最低だ。
例えば私が同じことを他の人にされたら、決して気持ちよくないはずなのに。
「……っ、ハア――――……」
呼吸を溜めて、思いっきり大きなため息を吐く。
両の手で椅子の背を掴みながら、ずるずるとその場にへたりこんだ。
自己嫌悪で潰れそうだ。
最悪、自分。
「――で? なんか面白いことは書いてあったか?」
聞き慣れた声が入り口から聞こえる。
咄嗟に立ち上がり、背中の後ろに机上の日記を隠してしまった。そんなことは無意味なのに。
兵長が入り口のドア枠に背を凭れ、腕を組んでこちらを見ていた。
「へ……兵長……あの、」
「どうだったんだ? 面白いことは? 俺が浮気している証拠でもあったか?」
感情の乗らない声と表情。怒っているのだろうか。
律動的なブーツの音が近づいてくる。
「あ、あの」
私の視線は泳ぎ、兵長の視線は揺るがず真っ直ぐに私を向いている。
互いの睫毛が触れそうになるほど顔が近づき、そこで兵長はやっと足を止めた。
兵長はその場で一言も発さずただじっと私を見つめた。目を逸らしてはくれないのだ。
恥ずかしくて、居たたまれなくて、消えてしまいたい。
沈黙に押し潰されそうで、観念して出した声は掠れてしまった。
「……あの……面白いことは、一つも書いてなかったです……」
「だろうな」
兵長が呆れたように息を吐くと、紅茶の香りの吐息が私の鼻と唇をなぞる。
もう堪えきれなくて、謝ろうとした時だった。
「兵長ごめんなさ、」
皆まで言う前に視界が変わった。
目の前にあった兵長の顔が肩越しに消え、私の身体をぬくもりがきつく包む。
抱きしめられたのだ。
怒られるか呆れられるか嫌われるかと思っていたのに、抱きしめられるなんて。思わず目を瞠る。
「てめえはまったく、日記を勝手に見ちまうほど俺の事が好きなのか?」
感情の乗らない声色は、この場合あまりに優しすぎた。
責められているのではなく甘やかされているのだとわかり、目の奥がじんと熱くなる。泣いちゃだめだ。過ちを犯したのは自分のほうなのに。
両手で兵長のジャケットを握りしめ小さく頷くと、肩越しの兵長からは、ハッと笑い声が漏れた。
「仕方ねえ、内緒にしててやるよ。第三分隊長が兵士長の日記を盗み見たなんて話が広まろうもんなら、めんどくせえことになるだろう?」
そう言って、兵長は返事ができずに黙りこくっている私の顎を掬い、口づけた。
こんなマナー違反をしておいて、こんな簡単に許されていいのだろうか。
躊躇ってキスにも応えられずにいると、兵長のほうから舌を差し込んできた。
されるがままに舐められ、吸われ、互いの唾液が混じって口角から垂れ、そこでやっと唇が離れる。
唾液でてらてらと光っている彼の口周りを見れば、口角がわずかに上がっていた。
「……以前、お前に言ったことがあるな、ナマエ。
『どんな感情を持ったって構わない。お前のやきもちは全部俺が受け止めてやる』と。もう忘れたか?」
忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。
それでも、醜い嫉妬を本当に丸ごと受け止めてしまうこの人は、きっと私を本当に愛してくれている。
やっぱり、目の奥が熱くなった。
細身なのに逞しい胸に顔を埋めると、そのまま緩く抱きすくめられる。
シャツとジャケットからは石鹸の匂いがした。
「兵長」
「なんだ?」
返してくれる声は、甘くて、温かくて、蕩けそうだ。
「ううん、なんでもないです」
ペトラはきっと、兵長のこんな声を知らない。
そう思うだけで、私の中の靄はすっきりと晴れていった。
【偏愛 Fin.】