あと少しだよ





02



 * * *



 よろめく少年の肩を支えながら彼の指示通りに進む。
 たどり着いたのは、「家」というにはあまりに粗末な掘っ立て小屋だった。

「まずは消毒を……! 止血もちゃんとしないと」

 ジャケットでの止血はあくまで応急処置でしかない。だがあちこちを探しても救急箱らしきものは見当たらなかった。
 見つけたのは、台所の隅からウォッカの瓶。そして干からびたパンの入ったバスケットに被されていた布切れだ。
 ウォッカで傷口を消毒し、引き裂いて包帯状にした布切れをぐるぐる巻いて止血する。
 だがよくよく傷口を見てみれば、思ったほど深くなさそうだ。取り急ぎだったジャケットでの止血も思いの外効いていたようである。この分なら輸血する必要はなさそうだ。

「ひと先ずの処置はこれで。念のため病院へ行きましょう、どこにありますか?」
「……お前バカか? 地下街にまともな医者なんているわけねえだろ」

 私は真面目に言ったのだが、彼の掠れた声には呆れの色が濃く出ていた。
 どうやら、彼も憎まれ口を叩けるくらいには落ち着いてきたらしい。そうか、地下街に医者はいないのか……。

「……じゃあひとまずゆっくり寝てください。医者にかからないのならば、怪我を治すには栄養をつけて眠るしかありません。今何か飲むものを……」
「おいおいおいおい待て待て、当然のように言ってんじゃねえ。お前は誰だ?」

 何と答えれば良いか迷ってしまった。
 この世界が本当に832年だったとしたら、848年から来た私は未来人ということになる。「未来からトリップしてきた人間です」と言って、この少年は信じてくれるだろうか?

「服装から察するに調査兵だな? 兵士がこんな地下街に何の用だ? 憲兵じゃねえし地下商人と癒着しようってわけでもなさそうだ」

 彼の口調はリヴァイ兵長そのものだ。それに、まだ子供なのに状況判断能力もある。ますますリヴァイ兵長としか思えない。

「……はい、私は調査兵です。わけあって地下街に来ましたが、来るのは初めてです。あなたに害を加えるつもりはありません。
 それで、ええと……お名前を伺っても?」

 私は床に跪き、ベッドに腰かけている少年と目線を合わせた。
 彼の長すぎる前髪の隙間からは、青味がかったグレーの瞳が覗いている。

「……リヴァイだ」

 ああ――やっぱり、この少年はリヴァイ兵長なのだ。
 ここが832年の世界……16年前だとすれば、この少年がリヴァイ兵長の過去の姿だというのは十分に納得できる。彼の口から名前を聞いた今では、もうそうとしか思えない。



 ひとまずキッチンの水がめから水を汲み、リヴァイ兵長へ差し出した。
 彼はベッドに腰かけたまま素直にグラスを受け取ると、ごくごくと飲んだ。

「あの、いくつか質問してもよいですか」

 彼は空になったグラスサイドテーブルへと置くと、上目遣いに私を見た。
 うんともすんとも言わないが、じっと見つめられ、質問を拒否する風でもない。

「何歳ですか?」
「……13」
「じゅっ……」

 13歳。
 もちろん想定はしていたが、実際に本人の口から聞くとちょっと怯んでしまった。
 んん、と咳ばらいをし、気を取り直して質問を続ける。

「ご家族はどこに? 今はお仕事中ですか?」
「この家に住んでいるのは俺一人だ。家族はいない」
「……は?」

 13歳の少年が一人で暮らすなんて不可能だ。仮に親はいなくとも保護者的な存在はいるに違いない。
 だが眉を顰めた私を見て彼は、波のないため息のようなものを吐いた。

「わからなくていい。お前、地下に来たのは初めてなんだろ。地上の人間に俺たちの事情がわかるわけねえんだから」

 ぽつりと言うと、リヴァイ兵長は、もぞ、と痛みの激しい布団を被った。
 そのままベッドに横になると、こんもりと小さな山ができる。

「あ……寝ますか? それが良いです、寝ないと治りませんし」
「帰るときは勝手に出てけ、鍵は掛けなくていい」
「え、でも鍵かけなきゃ危ないじゃないですか」
「うるせえな……いいからさっさと出てけ」

 ベッドの上から小山を覗き込むと、布団の隙間から覗く彼の瞼がとろんと下がって来た。
 怪我で体力が落ちている時眠くなるのは道理だ。睡眠は人間の治癒力を最大限に高めるから。
 そのまま眺めていると彼の瞼は徐々に下がり、数分後、とうとうぴたりとくっついた。



 リヴァイ兵長が地下街出身だというのは耳にしたことがあったが、私が知っているのはそれだけだ。
 それ以上の情報は、何も知らない。

 彼がこんな少年時代を過ごしていたとは、知らなかった。
 私の知っているリヴァイ兵長は、自分の経験した苦労をひけらかすようなことは絶対にしないから、当然といえば当然なのかもしれない。
 地下街に縁のあったものならば、多少推し量ることはできたのかもしれないが……いや、違う。
 地下街に縁がなくたって、推し量ることができる人はいるだろう。
 鈍い私が彼の境遇に思い至らなかっただけだ。



 帰れと言われても、そのまま帰る気にもなれない。そもそもどうやったら元の時代に帰れるかもわからない。

 とにかく今は、この少年を見守っていたかった。



 リヴァイ兵長はベッドでは眠らない、椅子に座ったまま眠る――というのは、私達一般兵士の間でまことしやかに囁かれている噂話だ。
 所詮噂話、真偽はわからない。
 だが少なくとも少年時代のリヴァイ兵長は、こうやってベッドで寝ていたのだ。その事実になんだかホッとする。
 やがて、控えめな寝息が聞こえてきた。あちこちからなけなしの綿が飛び出している布団が小さく上下する。

 布団の隙間からほんのわずかに覗いている彼の寝顔は、あまりにも無邪気だった。
 さっきまで大人に向かってナイフを翳していた少年と同一人物とは、とても思えなかった。



 そうだ、起きた時に飲めるよう湯冷ましでも作っておこうか。さっきの水がめの水はかなり冷たかった。ダメージを受けた身体には常温のほうが良いだろう。
 そんなことを思い立ち、コンロへ向かおうと立ち上がった時だった。

「……か……」

 聞き逃してしまいそうな、か細い声。
 だが確かに聞こえた。

「……どうしましたか? 痛む? それとも喉乾きました?」

 覚醒しているのか眠っているのか、それともその中間なのか。わからなかったため、私は小声でささやくように言った。
 もう一度跪き、布団の上から肉のない薄い背中に手を置く。
 薄い布団越しに温もりがわずかに伝わると、胸がきゅうと絞られるようだった。

「……かあさん……」

 ドン、と胸を貫かれたような気がした。

 思わず彼の寝顔を覗き込むと、眉間にギュッと皺が寄っている。だが瞼はしっかりと閉じられていた。呼吸音は規則正しい。
 ……眠っている。寝言だ。



 感情が昂っていた。胸がいっぱいでなんだか苦しいくらいだ。
 だがこの気持ちを何と呼ぶのかはわからない。
 憐み?
 母性?
 恋心?
 どれも違う気がするが、どれも正解な気もする。あるいはその全てが混じりあっているのかもしれない。

 ただ確かなのは、私は今涙が出そうになっているということ。
 そして目の前にいるこの少年の幸せを願っているということだった。



「……大丈夫ですよ、リヴァイ兵長」

 布団の上から彼の背中を撫で、そっと声をかける。
 聞こえているわけではないだろう。寝息は変わらずに規則的だ。

「あなたはもうすぐ、……あと何年かしたら、この地下から抜け出します。地上の人間になります。
 それだけじゃない……強くて憧れられる、この壁の英雄になります」

 きっとこの声は届いていない。でも伝えずにはいられない。
 目尻に熱いものが溜まってくるのを感じながら、私は囁き続けた。

「あなたには仲間ができます。エルヴィン団長や、ハンジさん、ミケさん……リヴァイ班の方々も。たくさんの人があなたを慕うようになります。もちろん私も、あなたを尊敬しているし、お慕いしています。
 ……だからどうか」

 小さなかたまりに、布団の上からそっと口づける。
 かび臭い布団を通して、彼の体温が唇に伝わったような気がした。

「もうすぐですから。
 どうかどうかその日まで折れずに生きていて欲しいんです。
 あなたの運命が変わるその日まで」



 * * *



 瞼を開ける。
 視界に映るのは、見たことのある木目だった。これは兵舎の天井の木目だ。

 気がつくと、兵舎のベッドの上だった。



 ……夢でも見ていたのだろうか?
 それにしても……妙に生々しい夢だった。



「……今何時!?」

 ハッと机の上の置時計を見ると、13時3分前。そうだ、思い出した。私は、昼食後にほんの少しだけ仮眠を取ろうとして……それでベッドに横になったんだった。
 ――あと3分で午後の訓練が始まる! やばい、間に合わない!

 ざっと顔から血の気が引いて、私はベッドから跳ね起きた。立体起動装置をあたふたと装着し、だがその時点で既に3分は経過している。
 猛ダッシュで兵舎を駆け抜け野外訓練場へと辿り着いた時には、午後の訓練開始時刻を7分過ぎていた。
 ――最悪だ。野外訓練場に並ぶ隊列と、その前方に佇む教官役の兵士を見て思い出した。
 よりにもよって今日は、リヴァイ兵長による実習だったのだ。



「……時間を守れねえルーズなやつがいるようだが」

 抜き足差し足でそっと列の後方に混じろうとしていたところに、刺々しい声が降ってくる。
 バレている。当たり前だ、人類最強の目はごまかせない。

「時間を守らない、上官の命令に背く……そういった勝手な行動が壁外ではどうなる? ナマエ」
「はっ、はいっ! い、命取りになります!」

 名指しで非難された私は、列の最後尾から声をひっくり返して答えた。他の兵士たちの憐みの視線が痛い。

「わかってんじゃねえか。じゃあお前が次にすることはなんだ?」
「はいっ! 訓練場10周です!」
「行け」

 兵長が顎をしゃくると同時に私は列から飛び出した。立体起動装置がガシャガシャと鳴る。外周10周――リヴァイ兵長がよく課している、規律違反者のペナルティだ。



「てめえ! 舐めた飛び方してんじゃねえ!」
「訓練でできねえことが壁外でできるわけがねえだろうが!」
「死にてえのか!? グズ野郎!」

 ぜえはあと息を切らしてランニングをする私の耳に届くのは、立体起動装置で飛ぶ兵士たちへ向けたリヴァイ兵長の怒号。

 ……暗く不衛生な地下に住む、あんなにやせっぽちだった少年が。「かあさん」って寝言で呟く少年が。
 16年後人類最強と呼ばれるようになるだなんて、一体誰が想像しただろう。
 あの時、多分誰も想像していなかった。周囲の人間も、本人でさえも。

 おかしなことに彼の怒号を聞いているうちに、私の胸は甘く締まりはじめた。
 あの少年と、現在の彼の怒号とのギャップに、なんだかぐらりときている。

 ちらっと兵長のほうを見て――そして、目が合った。

「ナマエ!! てめえよそ見なんざ随分と余裕だな!? ちんたら走ってんじゃねえよ、躾にならねえだろうが! もう5周追加だ!」

 今度は自分に向けられた怒号にぴゃっと肩を竦め、私は全速力で訓練場を走り続けたのだった。





【あと少しだよ Fin.】



   

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